マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第十一話

「レフ、人はね、正面から打ち克とうとする強さがあるんだ。閉ざされた壁を乗り越える膂力が備わっているんだ。だから、それを目の前にした者に、仮初めの安寧で一時の安息を騙る、私という人間は、悪なんだよ」

 俺は……口を、閉ざしてしまった。フリアエの気持ちは、その信念は、何よりも堅い。若造の俺なんかより何倍も、何十倍も生きてきた先で、ようやく見出した答えなんだろうから、当たり前の話だ。俺の言葉ぐらいで簡単に揺らぐ想いなら、とっくに朽ち果てているはずだ。分かってる、だけど、だけど、

「だから、レフ・レック・ファウストよ――悪である私を、お前の正義たる剣で、討ってくれ」

 だけど、それだけはないだろう……! なぜ貴女が死なねばならないんだ! しかも、よりによって、貴女を護るために、ようやく騎士になれた俺の手で! 今しがた、貴女を目の前にして、護ると誓ったばかりの俺の手で! そんな……それだけは、フリアエ……酷だよ、あまりにも、酷すぎる……。

 いや……違うな。これは、俺の弱さが招いた結果だ。フリアエのせいにするのは、責任転嫁でしかない。今思い返せば――結局こうなるなら――あの時、あの人の手を取ればよかったんだ。手を取って、追手を振り払って、どこか遠くへ、誰も俺たちを知らない世界に、逃げてしまえばよかったんだ。あの人が背負った全てを、代わりに俺が背負ってやると、嘘でもハッタリでも、啖呵を切ってしまえばよかったんだ。

 嗚呼……所詮、過ぎた話さ。それが出来なかったから、たった今、俺の弱さを呪っているんだから。後悔するつもりは、なかったんだけどな。あの人を討つと覚悟したその時は。

「フリアエ、アンタを討つよ。結局さ、アンタを護れそうにないなら、せめてその願いだけでも、叶えてやりたい。少しでもアンタを、救ってやりたい」

 それは、空から降りしきる白雪を眺めながら話した、最後の夜だったか。

 騎士となってからの俺は、そうだな……従卒とあまり変わらなかったな。貴族どもの下手な狩猟を手伝い、形だけの騎射を競い、何ら役に立たない剣舞を舞う。到底、騎士の理想など全うできず。ましてや、フリアエを護るという目的など、果たせる筋道が見えなかった。俺は、騎士という身分に踊らされていただけだった。

 だから、フリアエには、最後の覚悟を示さなきゃいけないって、思ったんだ。彼女の願いを叶える覚悟を。

「レフ……すまないな。お前にしか、頼めないことなのに、お前を何より、苦しめることになる」

「何言ってるんだ。アンタがいなけりゃ、俺は路頭に迷う日々だっただろうさ。俺はアンタに沢山のものを貰った。なら、それを僅かばかりだけど、返させてもらう。それだけの話だ」

 そう言って、俺は背中に担いだ段平の柄に手を遣る。その手は確かに、震えていた。指先に力は入っていなかった。今思うと笑ってしまう。あんな握りで、あんな心で、眼前の友を斬れるはずもなかろうに。それを知ってか知らずか、少し瞳を潤ませたフリアエが微笑んだ。

「フフッ、お前は性急だな。まだ、その時じゃないよ。次の年、新たな季節が芽吹く日に、頼まれてくれるか?」

「――あ、すまない。早とちりは、俺の悪い癖だ」

 剣の柄から離してなお震える手は、あたかも寒さによるものだと言わんばかりに、拳を覆った粉雪を払って、白い吐息を吹きかける。意味もない、健気な強がりだ、笑ってくれ。

「咒術は概念を再現する……前にも言ったね。つまり、人々の意志や願い、祈りの強さが、概念を強固にしていくんだ。お前が私を斬る――それが生むべきは、人々の軛を砕き、自由をもたらすこと」

 突然、難しいことを言い出すんだよな、フリアエは。要するに、

「アンタの死を、衆目に晒せってことか?」

「その通りだよ。だからお前は、足の爪先から頭の天辺まで、悪に染まることになる。逃れられぬ悪に」

 そう言いつつ、フリアエはまた、あの寂しそうな目をして、顔を伏せた。やめてくれ、俺は貴女のそんな顔を見るために、この手を血で染めるんじゃない。

「……フリアエ。一つだけ、約束してくれ。俺はまだ、アンタの言葉に納得なんかしちゃいない。いずれ理解できるとも、思っちゃいない。きっと、アンタがいなくなってしまったことに苦しみながら、生きていくんだろうさ。だから、だから、一つだけ。最後まで、笑って、逝ってくれ……ッ」

 堪えきれぬ涙が、溢れかえる。塞き止められぬ想いが、頬を伝う。膝が折れる、跪くように崩れた。白雪を染める、紅涙が滴り落ちる。なんで、俺なんだ、俺だけなんだ。

「そうだね……その通りだ。私が負い目を感じる資格なんてないんだ。私を解き放ってくれるのも、その罪を背負うのも、人々から蔑まれ罵られようとも、彼らに自由をもたらすのは――レフ、お前なんだから。お前こそが、悪というの名の、救世主を担ってしまうんだから。辛いのは私じゃない、お前なんだ」

 フリアエはそっと、俺を抱きしめてくれた。独りぼっちで、路頭に迷った子供のように、泣き腫らす俺を。

 本当に、なんて情けない姿なんだ。護ると宣った矢先、その護るべき相手に、宥められているんだから。お話にならないとはこのことだ。弱くて、惨めな姿だ。

 母の愛も知らないくせに、一丁前に、母が子に注ぐ寵愛だ、なんて風に受け取って。そうあって欲しい……そんな、ただの願望だ。俺一人だけに注いで欲しい……そんなつまらない独占欲まで抱いて。小さくて、浅はかな男だよ、まったく。

 それからの一年間は、まさに葛藤との戦いだった。日々の振るう剣でさえ、時折、震えてしまっていた。最初の頃は、何にも身が入らなかった。横柄にもなっていたかもしれないな。同僚には迷惑をかけたと思う。狩猟の獲物だって、何度か取り逃がしてしまった。築き上げてきた信用も、傷がついた。

 その頃からすでに、心の拠り所は、愛馬グレートヒェンにあったな。物言わぬ花ならぬ、さしずめ物怖じせぬ馬、と言ったところか。俺の十人前は食らう腹と、日に何度も馬櫛を入れてやらねば不機嫌になる奔放さから、朝な夕なと世話をしなきゃいけなかった。だから必然的に、他の誰よりも、共にする時間は長くなる。普段なんて、俺が傍にいようと離れようと、気にも留めない図太い奴だったから、よく独り言に付き合ってもらっていたよ。

 けど、いつ頃だったか。悪を纏う決意が、沸々と生まれてきたのは。もはや仰臥することに慣れてしまった、藺草の上じゃない羽毛の敷物に身を委ね、掌を天井に掲げる。窓から差し込む月明かりに照らされたその手が、悪魔の蹄にさえ見えたから――もしもこの手が、血に塗れたなら。真に聖なるを殺めたのなら、間違いなく俺は、悪魔に堕ちる。月に愛された、世紀の邪智暴虐として。

 嗚呼……フリアエ、貴女がこの世を去ろうとも、俺の中には残るんだろう。邪悪の名の下、所業を冒し、罪悪に染まり、怨恨渦巻くその果てに、誅罰下るか、自罰に走るか。義とはなんぞ、悪とはなんぞ。不変の真理はこの世にないのか。ならば己が信じて進むこの道に、終わりはないのか、あるのは真偽不明の数多の応えか。なあフリアエ、それが貴女の残した俺への問い掛けだ。貴女が示した茨の道だ。

「恐れるな、我が友よ。私は、春に吹くそよ風となり、岩間に滴る清水となり、天に瞬く星屑となり、お前に対する七難八苦となろう。忘れるな、我が友よ。病める時も、健やかなる時も、悲しみの淵にある時も、喜びの絶頂にある時も、私はいつも、お前の傍らにあることを」

 それで、十分だ。足るを知ったんだ。俺では、生身の彼女は背負えない。なら、心の隙間に収まる想いで。それが、惜別であっても、決別の時だ。

 子供から大人へ、青春は過ぎ去り、青葉は色づき、天は焦がれ、黒に染まれ。その手は血に塗れ、その身は地に塗れ、その心は悪に染まれ。なればこそ、どうか御霊よ、安らかなる冥福を。

 ――ご機嫌よう、さようなら。

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