マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第四話

 ――腕利きの狩人は、獲物に無益な苦痛を与えない。

 隅々まで染み渡る浄水が、俺の心に余裕を生んだからか、脳裏に言葉が過ぎる。我が父の言葉だ。あれは、金輪際の別れを胸に誓ったほど、堅物で朴念仁で愛を知らぬ男だが、それでもその生き様は、ある種の男の哲学を貫いていたように思える。そう思えるほど、先の言葉は俺の中に刻み込まれていた。あの男からすれば、合理的な狩りをしろ、という程度の言葉なんだろうけど、俺にとしては、命を粗雑に扱うな、という金言に置き換えて解釈している――それは、貴女にも実践したつもりだ、フリアエ。

 それに、なにより――癪に障るが――たった今俺を生かしているのは、あの男が俺に施した教育の賜と言っても良いだろう。火の熾し方、獣の狩り方、罠の掛け方、解体の仕方、息の潜め方。それは、人里という人間社会から離れた、森林という弱肉強食の世界で生き抜く方法だ。古く、狩猟民族から農耕民族へと遷移してからというもの、人間は自然を開墾せず無為に生きてゆくという獣としての力を失ったのだとか。父はそれを、脆弱と言い切った。

 曰く、人が寄り集まった社会なるものは、その力の総和によって、個々の可能性を乗り越えることが出来る。だが、際限のない多様性を有するのが人類、その社会が全くの一枚岩となるのは、限りなく不可能に近い。そこには必ず軋轢が生まれ、衝突し、溝ができる。得てして人間は、自らで作り上げた実現性の拡張手段を、自らの手で破壊する生き物なのだ。例えば、戦争という名の正当化された略奪行為によって。ではその時、基盤である社会を失い、生命線の供給を絶たれた人間は、自らの力だけで生きてゆけるのだろうか? 自然界で生き抜く術を放棄し忘却した人間に、再び獣の道が歩めるのか? 否、死すのみ。己が世界は不変だと、愚かにも胡座をかく人間に、再起はない。常日頃から、己に眠る獣と対話し、危機感を忘れずにいる者だけが、盛者必衰の理を越えられる。そう、いずれ来る人類凋落の時に、唯一生き残るのは、己が内に獣を残した人のみなのだ。

 それが、あの男の信条、野生主義、だなんて洒落臭く呼称してたっけ。いやはや、全く、頭が固いにも程があるってもんだ。とはいえ、一介の男爵としての義務はしっかりと果たしてきたそうな。あの男の口から語られたことはなかったが、聞くところによるとその義務というのが、この広大なマーロウの森の一角を支配し、不埒な密猟者――まるで俺のような人間――から守護することだそうだ。まあ、あの男にとっては天職ってもんか。

 男手一つで俺を育て上げ、爵位に恥じぬだけの義務を果たしてきた。それだけ聞けば、良き父なんだがなぁ。とはいえ、その野生主義なるものが俺を生かしているのは間違いない。そこだけは素直に感謝するよ、父上。

     *

 そのまま眠りこけてしまいたくなるほどの清流に身を任せて、束の間の戯れな思考に耽っていると、気付けば猪の血抜きが終わっていたようだ。身体を起こして、立ち上がる――間髪を入れず伏せた。草むらを掻き分ける音がする。これは、獣の気配じゃない……!

 気を抜き過ぎたな……もう少し早く気付いていれば、対処は簡単だったのに。後悔先に立たず、無駄口を叩いている時間はない。息を潜め、再び水中に潜る。俺の耳が正常に働いていれば、追手は恐らく、俺の足跡と獣臭が残った方角から来ている。つまり、俺がこの河川を訪れた方から。

 ゆっくりと、音を立てずに、水流に沿って泳いでいく。幸いにも、雪解け水にしては流れが緩やかだ。見知らぬ辺境に流される心配はない。息の続く限り、出来るだけ遠くへ、でも見分けのつく場所まで。

 暫くすると、砂利の敷き詰められた畔が途切れ、川沿いに樹木が生い茂り始めた。ここなら隠れ蓑が豊富だ。周囲を警戒しつつ、川から上がった。その時――ブルルル……。それは、鈍くなったキハーダのような、震えるような音。

 なにッ!? 馬だ、馬が鼻を鳴らした音だ。まずい、かなり近い。隊を分散して嗅ぎ回っていたのか? チッ、察知が遅かったか……いや、あれこれ考えている暇はない。背中に手を回す、柄を握り、素早く抜刀する。同時に、水滴が飛び散り、首筋を濡らした。参ったな、刀身がびしょ濡れだ。後で油を塗ってやらないとな。

 眼前に伸びる大樹の幹に背中を付ける、横目で周囲を一瞥した、草むらに潜む敵影はない。だけど、今しがた耳を打った馬の鼻音は、今俺が寄り掛かる木の先から聞こえた。逃げ場はない、ここで別働隊を潰す他ない。歯を食いしばる、鼓動は鳴り止まない、緊張が全身を締め付けてくる。でもここでやらなければ、やられる。戦慄に抗う決意を、携えた剣に託す。そうだ、この心境、この恐怖、まるであの時みたいだよ、フリアエ。

 急旋回で振り返りざま、木陰から勢いよく飛び出す、剣を振りかぶって疾走する、獲物を視界に捉えた、まだ己の危機を把握できぬその呑気な頭蓋に、殺意に塗れた刃を振り下ろ――しかし、その刃は眉間で止まった。肉体を支配し駆け巡っていた闘争本能が、泡沫に弾けて消えていく。上がった息を整えると、暗く狭まっていた視界が開けていった。すると、俺の目の前には。

 え? グレートヒェン? 主人が殺意剥き出しで剣を振るったというのに、まるで関心のない双眸で俺を見つめながら、呑気に草を食み続けていた。全く、お前って奴は……肝が据わっているのやら、ただ鈍いだけなのやら。

 まさか偶然にも、一夜を明かした篝まで来ていたとは。不幸中の幸い、といったところか……いやいや、追手との不意の遭遇は避けられた不幸だ。父に仕込まれた狩人としての経験は、獣ですらない人間相手なら十二分に発揮していた。なら、疲れでも溜まっているのか? それとも、慣れからくる油断? いずれにせよ、気を引き締め直さないとな。

 さて、と。追手の存在を確認した以上、ここに長居は無用、さっさとずらかるか。折角捕らえて拵えた獲物を諦めるのは口惜しいが、仕方ない。あ、そういえばロープも置きっ放しか、こっちの方が痛手じゃないか。いやはや、勉強代は高くついたが、今日という日はまさに教訓よ。

 一喜一憂の末、一先ずその場を離れてから後先を考えよう、という結論に俺は至った。未だ飄々と草を食むグレートヒェンに鞍を装着させる。俺も念のため鎧を身に着けようと、縛っていた藁紐を解こうとした――その時。

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