マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第三話

 俺は今、どこにいるんだろうか。ふと、そんなことを考えて、空を仰ぐ。天蓋に瞬く星々は、キャンバスに散る絵具のようで。一応、我が祖国ロギヴェルノの辺境伯領セレビア領内にいるのは間違いないだろうが……今や方角さえ見失った、マーロウの森の奥深くで、乾き切らない薪の弾ける音が鳴り響く。

 春先とはいえ、夜は震えるほどに冷えるもんだ。俺の背後に横たわる、我が愛馬グレートヒェンに背中を預けて、凍える身体を丸くする。たった一人……ではないだけ有り難いか。

 追手からの逃避行に際し、前もって町外れに繋いでおいたグレートヒェンの足があったからこそ、今俺は無事でいられる。何より、この鬱蒼とした暗夜の只中にあって、孤独じゃない。それだけで、俺の心は怯えなくて済む。

 だけど、やっぱり、民衆が抱く恨みは深いようだ。いや、そうじゃなければ困るんだが……とはいえ、日々追われる身というのも骨が折れる。どこで追手と遭遇するか、常に気を張って過ごすのは、想像以上に苦しい。それだけの事をした己への呵責さえ、俺の胸を締め付けてくる。フリアエ、貴女は酷な人だ。これじゃあ、茨の道を進むどころか、茨を纏って生きているようだよ。

 そんな、もはやこの世にさえいない相手に零した愚痴を、呆れた顔で火に焼べる。笑っちまうな、こんなに弱かったか、俺は。たった一呼吸が重い。思考に雑念が混じる。身体を起こすのも億劫か。嗚呼、夜空にはためく天の川のように、俺もあの星屑の一つとなって、大空を漂えれば……。

 まるで夢想家のような、身にもならなければ、腹も膨れないことを思い描いていると、いつの間にやら夜は明けていた。

 耳をくすぐる鳥のさえずり。頬を撫でる日の温み。襟首に揺れる草花……ん? あれ、俺は確か、グレートヒェンにもたれ掛かって寝ていたような……。ふと横に目を遣ると、やはりいた。主人のことなど気にも留めず、尾を振る尻をこっちに向けて、独り飄々と草を食んでいやがる。なんて薄情な奴だ。まあ、飼料が掛からないだけ救いか。

 だけど、残念ながら人間はそうはいかない。雑草だけで腹は満たされない。俺は身体を起こし、諸手を挙げて大きく伸びをする。我が祖国ロギヴェルノの広大な領地、その半分近くを占めるマーロウの森を彷徨って、すでに一週間ほど経つか。だけど、案外寝心地だけは最悪ってほどでもないな。

 脱いで纏めておいた鎧には手をつけず、木に立て掛けた剣だけを背負い、装備を整える。さて、例の物はどうなっただろうか……。我関せずなグレートヒェンは放っておいて、火の消えた篝から離れる。入り組んだ木々には、前もって刻んでおいた、横一文字の道標。その一つ一つを見失わないよう辿っていくと……よし! 掛かってる!

 夜更け前に設けていた罠には、小振りだが十分に肥えた猪が一頭。事前に携帯していた麻のロープと、少し加工した小枝を組み合わせた、簡素な作りの罠だったが、しっかりと猪の足を捉えて離さなかった。

 強くしなる木に括り付けたロープが猪の足を引っ張り上げ、一〇〇キロ近くにもなる体重を、半ば宙吊りにしていた。騒がず、慌てず、無闇に刺激しないよう、ゆっくりと近づき、背中に担いだ剣を引き抜く。そして、内に秘めたる《魔力》を躍動させていく。まるで、淀んだ空気で一杯の肺に、清涼なる空気が一挙に雪崩れ込むかのように。身体中の筋肉が、あらゆる知覚が、研ぎ澄まされていく。

 剣を構え、狙いを定める。未だその命ある限り、鼻を鳴らしては逃走せんと、揺れ藻掻く猪。その動作の機微を捉え、獲物から生じる一呼吸の間隙を伺う……。

 ――動きが、止まった。その隙を、逃さず。一刀の下に、斬り伏せる。

 首筋に鋭く入った刃が、大動脈を、頸椎を、断ち切っていく。今際の際まで、懸命に足掻く胴体から、それを司っていた頭部を両断。僅か瞬息の間に、その命を摘み取った。

 頭を失った胴から、大量の血液が溢れ出す。僅かに温みの残る剣を地面に突き立てると、胴から伸びる前足を持って、心臓部に向かって圧迫するように蠕動させる。すると、切り口から溢れ出す血液に勢いが増した。その勢いが次第に弱まっていったら、今度は後ろ足を持ち上げて蠕動させる。再び血が勢いよく放出された。

 十分に血抜きを終えたら、猪の足に巻き付いたロープを解いて回収する。幾分か軽くなった猪の胴を担ぎ、急ぎその場を後にする。そそくさと突き進むは、木々に刻まれた道標の先。だけど、狩り場までを導いてくれた先ほどの印とは違う、縦に三本の切れ込み。それに従って歩を進めていくと、程なくして見えてきたのは、清々しく澄み切った河川。

 心地よい川風とせせらぎが包む畔で、肩に担いだ猪を下ろし、その胴体を川に浸す。これは血抜きの仕上げだけど、それに加えて、その体に付いた泥や、小さな瘤のようにへばりついた真壁蝨を振るい落とすためでもある。俺は素手で、その分厚い皮膚を削るように洗い流していく。粗方の洗浄を終えたら、再び猪の足にロープを巻き付ける、もう一方を流される心配のない手頃な岩に括り付けて、念入りに流水へと浸しておく。

 ようやく、一区切りついたか。大きく手を広げて、肺一杯に春風を注ぐ、張り詰めた芯を解きほぐすように、身体の隅々に溜まった淀みを吐き出していった。すると、ふと我に返る己に気づく。景色がまるで違う、狭まっていた視野が開けたんだ。

 嗚呼、そうか。自覚がないほどに集中していたのか俺は。なんせ、今の今まで気付かなかったんだからな、俺に纏わりつく、獣臭と血臭が合わさったこの激臭に。いや、それよりも――おいおい、もはやこれは、鼻が曲がるどころの騒ぎじゃないぞ、一瞬の気の緩みが嘔吐に繋がるほどだ。そう自覚してから、血の気が引くまでに、そう時間は要らなかった。

 居ても立っても居られず、俺は着の身着のままで、陽の光に煌めく川の瀬に飛び込んだ。飛沫を上げて水に浸かる、裏から覗いた水光に閃く泡影と、麻衣を斑に染める砂埃とが、共に空を目指して昇りゆく。水面に浮かび上がっていくと、目に眩しくも鮮やかな蒼天を仰ぎ見た。

 そのなんと清涼なる心地か。春の陽気が生んだ雪解け水の瑞々しさが、草臥れつつある肉体だけじゃなく、荒びつつある心さえも、渇きを癒し、欠け目を満たしていくようだ。

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