デブオタと追慕という名の歌姫

ニセ梶原康弘

第8話 追慕という名の歌姫 ①

イギリスの春は、色とりどりの花が咲き乱れる素晴らしい季節である。
陽光の余り差さぬ陰鬱な冬から温かい日差しの季節が巡って来ると、その喜びを体現するように様々な花々が庭園や街路樹、果ては階段の端や石畳の隙間から咲き始め、人々の心を浮き立たせてくれるのだ。
日本同様、桜もイギリスでは最もポピュラーな春の花として親しまれている。
しかし、日本の桜のようにすぐ散ってしまわず比較的長い間咲き続け、人々の眼を楽しませてくれる。
そして桜だけではない。スイセン、マグノリア、チューリップ……緑あるところに目を向ければ必ず何がしかの花が微笑みかける。
日本で云う花見のようなイベントこそないが、天気が良くて温かい日になると人々の足は自然と花々のある場所に憩いを求めて外へと向かってゆく。
イギリスに数多く点在している公園や庭園はこの時期、一年で最も華やかでたくさんの人々の交歓で賑わうのだ。

その小さな公園でも、芝生で花々を眺めながらランチを食べる家族連れや、木陰で昼寝したり花壇を見て回るカップルなどが、春の彩を思い思いに楽しんでいた。
ただ、公園のささやかな一角にだけ、人々は遠慮してほとんど足を踏み入れない。
レンガ造りのトイレの傍。
そこには、一年前から一人の少女が日本人とおぼしき巨漢に指導されて歌のレッスンをしていることを公園の常連達は知っていた。
ラジカセの音楽やタブレットPCの映像に合わせて、彼女は熱心に歌とダンスの練習にいそしんでいる。
その顔はいつも嬉しそうで、覗き見る人は微笑ましく見守っていた。
賢明な彼等は誰ともなく示し合せ、決して口外して広めたりしなかった。そうして歌姫を目指す少女の小さな陽だまりを守るようになった。
散歩などでその場所に差し掛かると、植え込みの陰から漏れ聴こえる彼女の歌に耳を傾ける。
だが決して声を掛けるようなことはしない。ひととき楽しんだら気が付かれないように、静かに立ち去る。それが暗黙のルールとエチケットになっていた。
最初の頃、彼女の歌はお世辞にも上手とは言えなかった。しかし少しづつ上達し、最近では立ち寄る彼等が長く聞き惚れるまでになっていた。
ところが、歌うのに一番ふさわしい季節、香しい春を迎えたというのに、その歌声はここしばらく絶え、聴こえてこない。
心配して植え込みの陰からそっと覗くと、あの日本人の姿は見当たらなかった。少女はひとりベンチに腰掛けている。そして、ひっそりと泣いていた。
彼女が悲しんでいる理由は容易に察せられる。公園の常連達は皆、心を痛め、彼女をかわいそうに思った。
だが、だからといって傍観者がお節介を焼いて何になるだろう。かえって彼女を傷付けるだけなのだ。
だから彼等は今までと同じように何もせず、だが誰にも広めずにそっと見守り続けた。
彼等の、それがせめてもの心遣いだった。
彼女の許へあの日本人が早く戻って来るように……そう願いながら。


**  **  **  **  **  **


デブオタと出会ったのは、ちょうど一年前の今頃だった。

公園のベンチに腰掛けて春風に吹かれながらエメルは思い出す。
思い出しては恋しくて泣いた。
いじめられている自分の前に突然現れ、他人の喧嘩を買って出た男。
最初は彼が怖くて、話かけられただけでベソをかいたほどだった。
だが、彼はそんなみじめな自分を叱り、夢を持たせ、励まし、教え、最後は歌姫として最高の舞台にまで立たせてくれた。

(デイブ、もう来てくれないの……?)

無理やり引き裂かれたあの日から、彼はこの公園に現れない。
まだ、このロンドン近郊のどこかにいるのだろうか。それとも、もう夢をかなえてあげたからと帰国してしまったのだろうか。
何もわからなかった。

(会いたい……彼に会いたい)

探したかったが、その術が何もなかった。
彼がオーディションの申込書に書いた名前、電話番号、住所、メールアドレス。それは何もかもが偽りだったのである。
だが、努力によって自分の身についた技能、そしてイギリス最大のオーディションで、歌姫として光を浴びた事実は紛れもなく本物だった。
彼は自分を偽ったが、エメルの夢を偽りになどしなかった。それどころか、途方もない夢をかなえてくれたのだ。
あれから何日経っただろう。
オーディションがあれからどうなったのか、エメルは知らなかった。デブオタのささいな虚偽を責めた最終審査の結果など知りたくもない。どうでもよかった。
日々は過ぎてゆく。世間では毎日色んな出来事が起きているのだ。
人々は社会の中でそれぞれのたつきを立て、その繁忙の中で昨日の出来事は今日より遠く、一昨日のことは更に遠くへと押しやられてゆく。
日々が過ぎるほど彼とは確実に離れてしまう。エメルにはそれがあまりにも辛く、切なかった。
闇雲にでも探しに出かけたい。そんな衝動にも駆られたが、その間に彼がここに訪れたら……そう思うとこの場所から離れられなかった。
待ち続けている彼女を慰めるように温かい風がエメルの頬を撫で、優しい花の香りがして、柔らかい陽光が降り注ぐ。
眼にする何もかも、思い出す何もかもが彼に繋がっていた。それまで、毎日のように彼と一緒だったのだから。
ベンチで一緒に食べたサンドイッチ。ならず者に絡まれた時彼が現れたオークの木。彼が不器用に匂いを嗅いだスノードロップの花……風の音を聞けばその中にあの豪快な笑い声を聞いた気がして、周囲を探し回ったことも一度や二度ではない。
その度に失望して泣いた。
泣いても何にもならないのに。そう思っても、エメルには慰めてくれる友達も相談出来る知り合いもいなかった。
彼女にはデブオタしかいなかったのだ。彼がエメルの心のすべてだった。
もうずっと歌のレッスンもしていない。彼が知ったらどんなに怒るだろう。
だが歌う気力すら沸かず、抜け殻のようになったエメルは泣きながら、ただひたすら彼を待ち続けた。

その日。
泣き疲れ、虚ろな目で花々を見つめていたエメルは、ふと思った。
もしかしたら、自分が泣き虫に戻ったから彼は出てこないのかも知れない。
もしかしたら、彼は近くに隠れていて、自分がまた歌の練習を始めるのをずっと待っているのかも知れない。
もし、そうだとしたら……

(お、やっとやる気になったな。さあ、来年のオーディションに向けてガンガン鍛えてやるからな、ガーハハハハ!)

そんな豪快な笑いと共に彼が颯爽と現れたらどんなに嬉しいだろう。考えただけで心が明るくなった。色褪せて見えるこの世界の何もかもが、いっぺんに輝きだしそうだった。
夢遊病者のようにふらふらと立ち上がったエメルは、震える声で「ドリーミング・トゥモロー」を歌い始めた。

「When I am sad, I think. And this sorrow surely fades away tomorrow and happiness comes...」
(辛いときは明日のことを考えるの。きっとこの悲しみは消えて幸せが来るのだと)
「The thing which God gives is not only sorrow. Happiness surely comes only for the number of sad events sometime.Possibly it may be tomorrow」
(神様が与えるものは悲しみだけじゃない。悲しい出来事の数だけいつかきっと幸せが来るわ。もしかしたらそれは明日かもしれない)

胸に刺すような痛みを感じた。
明日になればきっと彼は現れる。何度そう思って、何度失望し、何度泣いただろう……

「When I am sad, I think. Only the number of times that cried will be laughable sometime, ohh」
(悲しいとき、私はこう思うの。泣いた数だけいつか笑えるときが来るわ)
「Happiness comes over so that night passes, and morning comes if sorrow is over……!」
(夜が明ければ朝が来るように、悲しみが過ぎたらきっと幸せが巡ってくる)

数日前に万人を魅了したとは思えない、か細い歌声は悲しみに震えていた。
涙混じりで声も裏返ったが構わず歌った。どうせ自分以外聴く人は誰もいないのだ。

「I love yah, tomorrow! Surely bring my smile...happiness...」
(大好きな明日。きっと笑顔を、幸せを連れてきてね。私のもとへ……)

エメルの歌声は次第に力を失い、ついには萎むように途切れてしまった。
デイジーは何て強い娘だったんだろう、とエメルは思った。
どんなに今日が辛くても、明日にはきっといいことが待っていると希望を持っていたのだから。
でも……

――私、もう歌えない。今日の先にデイブがいないなら……

跪いて嗚咽を漏らし始めた彼女の耳に、芝生を踏んで近づいてくる足音が聞こえて来た。
だけど、それはエメルが知っている足音、エメルが待ち焦がれている彼の足音ではなかった。
誰でもいい、私のことなんか放っておいて……そう思った彼女の傍に膝をついて、足音の主は礼儀正しく話し掛けた。

「……こんにちは。君がエメル・カバシだね」

冷やかしでもなく、ただの慰めでもない。温かみと誠実さを感じる声色だったが、エメルは顔も上げない。

「お初にお目にかかる。私は、エドワード・ホロックス。取締役としてリバティーヴェル・レコードの音楽事業部を統括している」
「……」

リバティーヴェル・レコードならエメルも知っていた。イギリスでも有数のレコード会社だ。
そして聞き覚えだけではなく、そのレーベル名には何か記憶に引っかかるものがあった。そこにオーディションを受けた記憶はない。きっと、もっと別の何か……
顔をあげたエメルは、落ち着いた表情を浮かべて覗き込んでいる男を見た。
長身の男だった。アルマーニのスーツを見事に着こなし、精悍な顔に丸眼鏡を掛けている。その顔はどこかで見たような気がした。
だが、どこでだったか、エメルはまだ思い出せなかった。
オーディションを受けた記憶がないレーベルの重役が初めまして、と言っているのに自分がどこかおぼろげに覚えているのは何故だろう……
首を傾げたエメルに、男は陰のある笑みを浮かべて言った。

「君とは初めてになるが、君のプロデューサーとは一度だけ会ったことがある。昨年のクリスマス前にね」

そうだ、思い出した!
男を見るエメルの眼が、大きく見開かれた。
あの日、デブオタが直接売り込みに訪れ、必死に話しかけていた男。デブオタの懇願を冷ややかに振り払い、冷たい冬の雨の中に彼を放り出した……
その男、エドワード・ホロックスは「まず、私がここに来た経緯から話そう」と話し始めた。

「二一八」
「え?」
「あのオーディション後、君がここで泣いている間に、君との契約を求めて殺到したオファーの数だ。まだ増えるだろう。プロデューサーの連絡先が嘘だったから、皆オーディションの運営サイドの方へ問い合わせがやって来た。中にはアメリカの有名な映画会社、フランスのファッションモデルの会社もあった。金なら幾らでも出すから君を紹介しろと海外からやって来たエージェントもいたそうだ。誰もが競ってエメル・カバシという歌姫を欲している。契約金の提示額たるや、恐ろしいことになっているよ」

呆気に取られているエメルに、彼は続ける。

「君は知らないだろうがイギリス中の音楽企業のエージェントやスカウトマン、マスコミ……たくさんの人が今も血眼になって君を探し回っている。今までよく見つからなかったね」
「……」

黙って俯いたエメルの顔は美しくはかなげで、気品があった。
それを見たエドワード・ホロックスは、公園の人々が何故誰も口外せずにこの少女を見守ったのか、分かったような気がした。

「私がここに来れたのは、君をよく知っている人が私に相談してくれたからだ。そして相談した理由も私と同じだった」

後ろを向いた彼が頷くと、マネージャーのヴィヴィアンに付き添われて一人の少女がおずおずと現われた。

「リアン……」

リアンゼルはこれ以上ないくらい真っ青な顔をしていた。
恨むようなエメルの眼差しに出会うと彼女は怯えて立ち止まり、それ以上進めなくなった。それでも傍らのヴィヴィアンに励まされ、エメルの傍まで歩み寄る。
一年前いじめっ子といじめられっ子だった二人が、そのまま逆転したようだった。
かつてウジ虫と蔑み、気の向くままイジメていたエメルからの刺すような視線に晒されながら、リアンゼルは懸命に言葉を絞り出した。

「私、ブリティッシュ・アルティメット・シンガーに優勝したの」
「……」
「それで、プロ歌手としてディファイアント・プロダクションと契約したわ。ヴィヴィアンと一緒に……」

そんなことなど、エメルには何の興味もなかった。

「だけど、私はエメルに勝ったと思っていない」

エメルは視線を落とした。彼女が自分をどう思おうがどうでも良かったのだ。
だが、リアンゼルはそこまで言うと一枚の紙を取り出し「だから、あなたもこれを……」と、震える手で差し出した。

「あなたもプロ歌手になるの。もう一度私と戦うのよ」

差し出されたのはリバティーヴェル・レコードの契約書だった。
歌手を夢見る少女なら垂涎ものの、スターへの切符である。契約金は途方もない桁数になっていた。契約者の氏名欄には既に名前が記されている。後はエメル自身がサインをすればいいだけになっていた。
それを見たエメルの胸は、切ない思いに痛んだ。
デブオタがここにいて、これを見たならどんなに喜んでくれるだろう。
きっと飛び上がって野獣の咆哮にも似た雄叫びを上げるに違いない。嬉しさのあまり、エメルの手を取って踊りだすだろう。フランキー・マニングのエアステップみたいにエメルを空中に放り投げて踊るかも知れない。エメルも大喜びで放り投げられただろう。そして一緒に踊って喜びを分かち合っただろう。
だけど、そのデブオタはもういない。
エメルはそっぽを向いた。

「いらない」

そっけなく断られてリアンゼルはカッとなった。

「歌手になれるのよ! スターにさせるってアイツは言ったのに約束を破るの?」
「うるさいわね、放っといてよ!」
「歌いなさいよ、もう一度!」
「歌手になったって! 歌ったって! デイブは……」

言い募るリアンゼルへ反撥したエメルは声を詰まらせ、そのまま両手で顔を覆った。

――あの人はいなくなった。どんなに待っても帰ってこない
――こんなに好きなのに
――私にはあの人しかいないのに……

とめどない彼女の悲しみが嗚咽となって指の隙間から漏れてくる。
慟哭するエメルの姿にリアンゼルは俯き、自責の念に胸を締め付けられた。

(私のせいで……)

思わず涙にかられたが彼女は流されなかった。顔をキッと引き締める。慰めの言葉を掛ける為だけにここへ来たのではないのだ。
リアンゼルは叫んだ。

「歌いなさい! 見つけたかったら」

驚いてエメルが顔を上げるとリアンゼルは睨みつけながら叩きつけるように続けた。

「メソメソ泣いてそれで何になるっていうのよ、泣き虫エメル! あれほどの歌が歌えるならきっと探し出せるわ。彼を見つけたいなら……歌いなさい!」

リアンやめなさい、とマネージャーのヴィヴィアンが慌てて叱ったが、エメルの傍らで片膝をついていたエドワード・ホロックスは「いや、彼女の言う通りだ」と落ち着いた声で遮った。

「君の歌で彼を探そう。私がここに来たのは、その手助けをするためだ」

エメルに向かって、再びホロックスは話し始めた。語りかけるような口調で。

「彼と出会った日の出来事を正確に話そう。その日、彼は君を売り込もうとして会社にやってきた。アポイントを許されなかった彼は会社の前で私をつかまえて直接話しかけたんだ。だが私は……」

さすがに口籠もったが、イギリスでもトップクラスの音楽ビジネスマンは、誠実さを示す証として真実を語る以上の術を持たなかった。

「彼を無礼な奴、と雨の中に放り出した。無名の歌手などごまんといる。いちいち取り合っていられるかと侮辱した。だが彼は言った。エメルは違う、エメルはそんな歌手ではない、見ていろ、と。泥だらけになって叫んだ」

エメルの脳裏に、雨に打たれて叫んだデブオタの言葉が蘇える。思い出しただけで新たな涙が沸きだして、零れ落ちそうになった。

「そして、その通りだった」

エメルはハッとなった。
……それは、彼女が初めて聞いた、他人がデブオタを称讃した言葉だった。
それもただの称讃ではない。音楽を生業とする事業の要職に携わる男の言葉なのだ。軽々しく同業者を賛辞など出来ない男が、デブオタの成し遂げた功績を認めたのだ。

「君はあの日、彼の為に自分が素晴らしい歌手であることを証明してのけた。彼が立派なプロデューサーであることも。私は喜んで間違いを認める。そしてあの日の非礼を彼に謝罪したい。そのためにも私の会社と契約して欲しいのだよ。彼を見つけるために」

リアンゼルも震える声で付け加えた。

「あの日アイツとぶつかった時、背後にリバティーヴェル・レコードのビルが見えたわ。あなたをここからデビューさせたかったんだって、私思い出したの。だから、リバティーヴェルを尋ねて、貴方がここにいるって……」

それは、エメルへ罪滅ぼししたいと必死に考えたリアンゼルの働きかけだった。

「私も認める。優勝したけれど本当に勝ったのはあなただって。私も彼に謝りたい。意地を張って、侮辱し続けた。そればかりかあんなことまでしてしまった。余計なお節介でも何でもしてあげたいの。だからエメル、どうか、どうか私の手を取って……」

涙で声の途切れたリアンゼルを弁護するように、ヴィヴィアンが言い添える。

「リアンは授賞式の席で全てを告白したの。今まであなたを虐めていたこと、それを庇った彼と敵対したこと、ハルモトへ密告しようとしたこと。何もかも包み隠さず話して謝罪したわ」

エドワード・ホロックスが付け加えた。

「彼女は正直にすべてを打ち明け、真の勝者である君に謝罪することを会場の人々に約束して拍手を受けた。それに比べ、彼を理由に君の失格を頑として取り下げないヤスキ・ハルモトは会場の人々から軽蔑されていた」
「……」

エメルは、まるで知らない人になってしまったような眼で、かつてのいじめっ子を見た。
敗北を認めたり人に頭を下げるくらいなら死んだほうがマシというような傲慢な歌姫。あのリアンゼルが……

「彼女を許してあげて」

ヴィヴィアンが叫ぶようにエメルへ言った。
リアンゼルは唇を震わせ、下を向いている。まるで、裁判で判決を待つ被告のような態度だった。
エメルは今の彼女の気持ちをよく知っていた。過去の自分そのものだったからだ。
いつもあんな風におどおどと怯えていた。それでもさんざんいじめ抜かれ泣いていた。
思い出したエメルの中でふと、憎しみが顔をもたげた。
だが「デイブがここにいたらどうするだろう」と考えたとき……

――自分をいじめていたリアンゼルにもかわいそうって言えた、そんな気持ちをずっと忘れないでいてくれ

彼ならきっと許すだろう。
そう思ったとき、エメルの胸の中が甘く疼いた。
弱い人を思いやる優しい心を持った男……そんな彼だからこそ惹かれずにいられなかった。そんな彼だからこそ好きにならずにいられなかった。
心の中に沸きかけた醜い憎悪は、彼の気持ちに寄り添いたい一途な恋慕の前に消え去ってゆく。
エメルはリアンゼルへ向かって、黙って頷いた。

「……」

リアンゼルが震える手でもう一度契約書を差し出した。
エメルは黙って受け取った。
頬をぬらす涙が顎から滴となって、契約書の条項を記した紙面の上に幾つも落ちてゆく。
彼の屈辱は晴らされたのだ。
彼はそれを知らないまま、どこかへ去ってしまったけれど……
ホロックスが差し出したペンを受け取って自分の名前を書き記すとエメルは、契約書をそっと抱きしめた。
彼女にとってそれはスターへの切符というよりも、彼を探す旅立ちのパスポートのように見えた。
一年前、この小さな公園で彼は私を見つけてくれた。
トイレの傍で人目から隠れ、蚊の鳴くような声でグリーンスリーブスを歌っていた私を。
だから今度は私が、この空の下のどこかにいる彼を……

「エメル、あんな酷いことをしたのに私を許してくれてありがとう……」

エメルの肩に縋りついてリアンゼルはとうとう泣き出した。その背中でヴィヴィアンも「リアン、良かったわね……」と嗚咽を漏らした。
ホロックスはそんな彼女達の肩を抱きかかえるようにして、立ち上がらせた。
エメルの手から契約書を優しく取り上げ、一礼すると革製の書類ケースへ丁寧にしまう。
そして、力強く告げたのだった。

「ありがとう。これからは、ここにいる皆が君の力になる」

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