風流とは

ニセ梶原康弘

風流とは

一九四四年九月一五日。

ベルヒスガーデンの山荘で党幹部とともに静養するヒトラーのもとに、ひとりの人物が訪れた。
小男で、深い知性をあらわす黒い瞳の下には、左右の頬に各三本…計六本の髭が筆で描かれている。毛皮の着ぐるみの尻っ尾には黄色と黒の縞もようが染めあげられ、右手には荒縄でくくられた酒徳利ひとつ。どこからみてもその姿はタヌキ一匹。

「な……何事か!」

道化た、というより人を喰った容姿に激昂する総統を静かに手で制するヌイグルミは、まさしくドイツ第三帝国宣伝省大臣、ヨゼフ・ゲッベルスその人だった。
大臣は語る。

「お怒りごもっともです。扮装の背景をご説明申しあげましょう。祖国はいまや存亡のときにあります。六月にはノルマンディーに連合軍が上陸、七月には軍の不穏勢力が総統閣下の暗殺未遂、八月末にはフランス全土からわが軍は撤退。英将モントゴメリーはベルギーを席捲しオランダ領にせまる勢い。この過酷な状況のなかで、閣下がご心労のあまり、床に伏せていたとしても、それは自然の摂理というもの。精神の逃避を小生、いちがいに否定するものではありません。しかし閣下、だからと心の安定をモレル博士(※ヒトラーの主治医。藪医者だったらしい)処方の精神安定剤にばかり頼るのもいかがなものでしょうか」

薬物療法に未来なし。

「小生、最近、KADOKAWAのレタスクラブ増刊『シュシュアリス』を愛読しているのですが、ストレス多い現代、むしろ花鳥風月を愛でる『風流の心』こそが、日々の荒波をのりきる有効な手段ではないかとご提案申しあげます。今夕は中秋の名月。見なさい、あの雄大なドイツ・アルプスにかかる望月を。あの月明かりに照らされ、何もかも忘れて、酒を酌み舞を踊れば、また明日への活力も湧くというものではありますまいか。これ、すなわち『風流の心』です」

狂ったかゲッベルスくん、というシュペーア軍需相の言葉を遮ったのは、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンだった。

「あら楽しそうじゃない。それで総統閣下のお気が晴れるのなら、私たちも踊りましょうよ」
「しかし……!」
「ふふふ、フラウ・エヴァ。この遊興に加わるなら、あなたもタヌキの禅味に扮しなければ」
「ヘル・ゲッベルス。描いて。わたしの顔に、髭を」
「あなたの美しい横顔に、墨を入れるご無礼をお許し下さい」

国家元首の未来の妻が同意するなら仕方ない。
やがて目鼻に墨を入れ、不承不承酒徳利をかついだヒムラー、ボルマン、ゲーリング、カイテル、リッペントロップといった大臣や将軍たちが、荘重なテレフンケンのレコード音楽にあわせて、踊り始めた。

♪しょ、しょ、猩々寺、猩々寺の庭は、
つ、つ、月夜だ、みんな出て、来い来い来い

訳もわからず月夜のヨーロッパ山塊を背に踊り狂う一同をみて、険しかったヒトラーの顔にも、やがて薄っすらと笑みが浮かんだ。

(みんな、余のために……)

それは七月二〇日の暗殺未遂事件以来、人間不信に陥った独裁者に、人を信じる心が甦った瞬間だった。

(余はまだ愛されている。余にはまだ人を愛する力が残されている。愛する祖国、愛する国民よ。余は……余はまだ負けぬ。まだ負けぬぞ)

この一〇日後、独裁者は祖国の総力をあげた一大反攻作戦の策定に着手する。後世には『バルジ大作戦』と伝えられるそれである。
しかし今は、行方の知れぬ未来を前に、人々はただ不安から逃れるためだけに踊り、狂ったように「和尚さんに負けるな」を連呼するばかりであった。


それは人生の縮図と言えなくもない、おかしくも悲しい光景であった……

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