ショートショート集

月夜野 星夜

困った先輩社員

 私の会社は小規模だけど、とてもアットホームな会社だ。社員同士も、みんな仲が良い。
 厳しい就職活動もようやく終わり、この会社に入ってやっと4ヶ月が過ぎようとしていた。
 もうすぐ8月。暑い日が続き、いくら会社がクールビズを採用していても、光熱費の節約でクーラーの設定温度がそれほと低くないため、やっぱり汗が滴り落ちる。
 とはいえ、今のところ特に問題はない。数ヶ月前に女子校を卒業したばかりで、まだまだ子ども気分の抜けない私にも、先輩方はみんな親切丁寧に仕事を教えてくれる。それに、社長も明るくて楽しい人だ。


 けれども、私にはひとつだけ気になることがあった。いや、気になる先輩が1人だけいる……と言った方が正確だ。


 その先輩は青木あおきという名で、この会社に勤めてもう20年にもなるらしく、私よりも20歳ほど年上だった。
 それなのに、青木先輩は気分次第で遅刻してくるし、言い訳も荒唐無稽こうとうむけいなものばかりだ。


「ヤクザに襲われている女性を、得意の拳法で助けた」だとか、「電車に乗ろうとしたら、うっかり新幹線に乗ってしまったので、仕方なくそのまま九州まで行って戻って来た」だとか、普通に考えると、あり得ないようなことを平然と言うのだった。


 いつぞやは、「会社に来る途中で、川で藻掻もがいている小学生を見かけて、助けようとしたら自分も一緒に川で溺れかけちゃったんですよ。いやー、あれには参りましたね。なんとか小学生は助けられたのですが、そんなこんなで、あっという間に3時間も経っちゃいましたよ。はっはっはっはっ!」と豪快に笑って済ませたこともあった。
 ちなみに、川で溺れかけたと言っていたが、出社してきた彼の服は全く濡れていなかった。
 私が疑問に思って、「1度、家に帰って着替えてきたのですか?」と尋ねると、ケロッとした顔で「いいや、そんなことしてたら余計に遅くなるから、そのまま来たよ」と答えたのだ。


 それだけではない。まだ就業時間にもなっていないのに、「今日は気分がのらない」などと言っては、そそくさと勝手に帰って行ったりする。


 会社にいるときも、いつの間にか自分のデスクから姿を消している。
 きちんと仕事をしている形跡もなかった。
 仕事用のノートパソコンすら置かないのに、家族の写真と、綺麗な花々が飾られている花瓶だけはいつも置いてあった。


 総務でもある社長の奥様に尋ねると、なんと、花が好きな彼女が青木先輩のために、定期的に花瓶に飾る花を買ってきては、生けているらしい。


 それなのに、肝心の青木先輩自身が、そのデスクに座っていることは、ほとんどないのだった。


 それでも、青木先輩を見る他の先輩方や、社長夫妻の目は、いつも温かかった。


 私が気にし過ぎなだけなのか……?
 それとも、私が知らない特別な事情でもあるのだろうか。


 実は昨日、青木先輩の行動を見るに見かねて、社長に直談判をしてしまった。
「社長、青木さんのことなのですが……」
 私の言いにくそうな雰囲気で、言いたいことを察してくれたのか、社長は自分のデスクに両肘りょうひじをつき、軽く手を組むと「ああ」と言ったきり、しばらく物思いにふけるように目を閉じた。


 なにか、言葉に出来ない思いを巡らせているようにも見える。


 私はそんな社長の様子に、一瞬だけ逡巡しゅんじゅんしたものの、深呼吸をひとつすると、意を決して話し始めた。


「はっきり言って、青木さんの仕事に対する態度はどうかと思います。遅刻や早退もしょっちゅうですし、社長はどう考えてらっしゃるのですか?」
 真剣に訴える私の言葉に反して、社長の答えはしかし、なんともいい加減なものだった。
「ん……まあ、彼は面白い人間だからねぇ。遅刻の言い訳も豊富だし、ああ見えて仕事が出来ないわけでもないし。人柄も悪くはないからね。ただ、今のところは会社にいても、いないのと同じような状態になってしまってはいるようだがね。幽霊部員ならぬ、幽霊社員と言ったところかな。はっはっはっはっ! 大丈夫、大丈夫、君が気にすることではないよ」


 社長にそこまで言われては、新人の私としては引き下がるしかなかった。


 それからも、青木先輩の身勝手な行動は続いた。


 けれども、不思議なことに、誰ひとりとして青木先輩の態度をいさめる社員はいなかった。


 私が社長に直談判をしてから2週間ほど経った頃、青木先輩が突然こんなことを言い出した。
「あっ、もうこんな時期ですか。今年もお盆が来ちゃいましたね。私はこれから急いで、実家に帰らなきゃいけないので、今日はこれで失礼します」


 私はその言葉を聞いたとき、正直、またか……と思った。


 ところが、その直後に目にした光景は、私の度肝を抜くものだった。


 そそくさと帰り支度を始めた青木先輩は、自分自身のデスクに向かって、ポーンとステップでも踏むように跳ね上がると、そのまま会社の窓をすり抜けて消えてしまったのだ。


 ポカンと口を開けたまま、あっけにとられている私に、社長が声をかけた。
「前にも言った通り、彼は『幽霊社員』でね。川で溺れかけた小学生を助けたのは良いんだが、彼自身は残念ながら亡くなってしまったんだよ……と言っても、もう亡くなったのは何年も前になるんだが、なぜかうちの会社には、ちょいちょい顔を出してくれているんだ。まあ、見ての通り、お盆の時期には必ず実家に帰るんだがね。きっと今頃、田舎に里帰りしている奥さんや息子さんたちと、家族水入らずでのんびりしているだろうさ」


 そのとき、私はようやく青木先輩のデスクの上に飾られている花が、どれも仏花ぶっかとして売られているものであることに気づいたのだった。

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