エデン・ガーデン ~終わりのない願い~

七島さなり

孤独な竜

 歌が聞こえる。


 それは青年が細い息で静かに紡ぐ鎮魂歌。


 瞳を閉じた彼が短く息継ぎをすると愛用の椅子がぎしりと音を立てた。


「ゆらぐ言葉 世界を紡ぐ」


 それが契機となって音に確かな声が載る。


 すると膝の上にある黒い冊子が淡い黄色の光を放ちながら音もなく一人でにページを捲り始めた。


 はらはらと文字で埋められた場所が後ろへ追いやられていき、やがて何も書かれていない真っ白なページでその動きを止める。


「ゆらぐ言葉 世界を描く」


 冊子が止まると同時に、青年は再び重く口を開いた。


 その詩に導かれるように、白い紙に黒い文字が浮かび上がる。


 文字は瞬く間に空白を埋めていき、端まで書き込みが終わるとぱらと軽やかな音を立ててページを捲った。


 そして同じように埋めては次へと進んでいく。


「かつての思い 君のいた場所
 強く残る わたしの中の
 強い思い 世界の記憶
 あの日のこと 忘れはしない」


 ゆっくりとこぼれ落ちる歌声と紙の擦れる音が部屋の中を支配する。


 一体どれくらいの時間をそうしていただろう。


 不意に、ばたんと鈍い響きを伴って本がその黒い背表紙を閉じた。


 それに反して青年の閉じていた瞼がそっと開かれる。


 額に浮かぶ珠のような汗をそのままに彼は安堵の息を吐いた。


 深く身を沈めたせいで古びた椅子が悲鳴を上げながら木を軋ませる。しかしそれに構うこともできないほどの疲労感が身体を襲う。


 もはや起き上がることもままならない。


 それでも彼はどこか遠い目をしながら膝に置いた冊子を手に取った。


 それは“本”と呼ばれるもので、彼が記憶した出来事――この世界で本当にあった出来事全てを書き出したもののことを指す。


 荒い手付きで数枚ほどページを捲ると嫌でも実感が湧いてくる。今日もまた本ができたのだと。


 持ち上げた腕を力なく落す。


 天を振り仰ぐとそこには圧迫感で押しつぶされそうなほどの大量の本が理路整然と並んでいるのが見えた。


「……三ヶ月か」


 それを見るともなしに眺めながら掠れた声で彼は言う。


 そして唐突に肩を伸したり首を曲げたりと、がちがちに強張った身体を解すように動かし始めた。


 節々が弾けるような音を鳴らすたびに走る痛みに眉が少し歪む。


 けれどそれすら構うことなく彼は全身をくまなく動かしていく。まるで、自分の形を確かめるように。


 終わると彼は立ち上がってぐるりと部屋を見渡した。


 四方八方に本が所狭しと並んでいる。


 窓がほとんどなく、あまり光を取り込まないせいか部屋の雰囲気はひどく陰鬱だった。そこにいるだけで息が詰まりそうになる。


 彼はそこで約九百年もの間、世界で本を作ることができるたった一匹になってしまったがために人知れずそれを編み続けていた。


 例えどれだけの苦痛を伴うとしても、誰にでもできるものではなく、青年と青年の前任者以外がやろうとすれば確実に死んでしまうことだから、彼がするしかないのだ。


 出来上がったばかりの本を手に、青年は一つ、溜め息を吐く。


 これがどのような偉業だとしても彼を褒める人はいない。一人でいるとそれをはっきりと感じてしまう。


 息を吐いた分だけ深く息を吸い込むとかび臭く陰気な空気が肺を満たした。


“彼女”がいるときはそんなものまるで気にならなかったというのに。


 彼はそんな気持ちを遠ざける様に


「つかれた……」


 と言葉を絞り出す。 


 そして右手に携えた新しく出来たばかりの本を空いている方の手で撫でる。


 この本に書かれているのは彼が一匹になってしまった頃、今からちょうど九百年前、彼の前任者である女性に代わって本を記し始めた頃の記憶れきしだ。


 彼の中では一番印象深く、同時に因縁深い歴史。


 なぜそれを本にするのに今の今までかかったのかというと、彼女が貯めた約三千年分の歴史を、彼女が記しきれなかったそれらを本にするのに九百年間のほとんどを費やしてしまったからだ。


 だから彼は今、ようやく世界史上において最も残虐な時代と言われた歴史を本にすることとなった。


 達成感はない。この歴史でそれを感じるのはきっと無理だろう。


 彼はようやく苦しい思いをしないで済むという安堵ともう振り返ることは出来ない日々に少しの寂寥感を覚え、痛みに引きつる胸を押さえた。


 青年にとって本を作るのは苦痛だ。いつだって胸の辺りが苦しくなる。


 過去を思い出してしまう。いつ来るかもわからない未来を思い描いてしまう。


 そうして孤独を一際濃く感じてしまうのだ。


 それでも彼はひどく陰鬱そうな顔を浮かべて次に書くべき歴史を考える。


 どれだけ嫌でも、それ以外に生きる意味を見い出せないからこそ縋り付く。


 そうしてしばらく考え込んでいた青年はふと思い出したように本を持ち上げ、慎重に開くと冒頭部分に目を落とした。


 それをまるで演技でもするかのように大声で、そして高らかに読み上げる。


「この世界において、千年という歴史はあまりにも短い。しかし、それでも、その千年間を懸命に生きた竜が居た。


 その名はエデン。変革を望んだ彼は、今なお後世に語り継がれる伝説の王である。


 彼が統べる前の世界はただ殺伐としていて、誰もが誰かを殺しているような、そんな時代だったのだから」




 本はエデンという竜が生まれるところから始まる。


“竜の父”の元で強い兄弟なかまと共に育った彼は自然と絶大な力を持つ最強の戦士となった。


 そんなエデンはやがて一つの野望を抱くようになる。


 それは世界をひとつに纏め上げるという野望。


 種族間の争いが絶えず、常に危険に苛まれる世界を竜が中心の平和なものにしようとしたのだ。


 彼は世界に変革をもたらすため、世界を纏めるための争いを始めた。


 事のはじめに彼は竜の中で最強の者に与えられる“竜王”の称号を手に入れ、竜を従えることにした。


 最強と謳われた強靭な力に敵う者などいるはずもなく、エデンは瞬く間に“竜王”にまでのぼりつめた。


 そうして彼は竜を従え、魔獣達との争いを始めた。


 魔獣、という枠組みで考えると彼らは竜よりも明らかに数が多い。しかし魔獣にも種族がいる。竜の中にもいろいろな竜族がいるように、人の中にもさまざまな人種があるように。


 魔獣の場合、それが極端でとにかく多かった。そしてほとんどが他種族を嫌煙している。


 時には群れすらつくらない魔獣も居た。


 故にエデンが魔獣達を支配し終えるのにそこまでの時間はかからなかった。魔獣達を早々に自分に服従させた彼は次にその狙いを人間へと移す。


 しかし人間は魔獣のようにはいかなかった。


 彼らには卓越した頭脳と技術と知識、そして並々ならぬ団結力があったのだ。


 人類の叡知と竜の強大な力がぶつかった結果、世界は永い永い戦乱の時代へと突き進んでいくことになる。


 竜と人の両種族は何年も何十年も凌ぎを削って戦った。地上が地獄と化しても彼らは決して争いをやめることはなかった。


 永遠に終わることはない。この争いはずっと続くのだ。そう誰もが思っていた。誰もがそう思って疑わなかった。


 しかし八十年たったあるとき、世界に異変が起きた。


 世界はまるでその心を閉ざすかのように、全ての出来事と隔絶するかのように、寒く厚い氷で己の身を覆ったのである。


 突然、世界に氷河期が訪れたのだ。


 人類と竜の両種族はなんの前触れもなく訪れた大異変に対応することが出来ず、その数を大幅に減少させた。


 そうして世界中の全ての生き物が危機に瀕し、死に絶えようとしていたときエデンは一つの決断をした。


 この未曾有の事態を乗り越えるために彼は人との争いをやめ、世界中の生き物と協力して事態を乗り越えることにしたのだ。


 エデンは氷河期に対応するための策を早急に打ち出し、世界へと浸透させていった。


 たとえば魔法による疑似太陽の開発であったり、戦争で深刻な被害を受けた土地の迅速な復興であったり、死に絶えた木々を蘇らせるための活動であったり。


 そして最後に生物数の減少を抑えるために戦争と氷河期によって大きく数を減らし、繁殖が難しくなっていた人と竜が交わることを決めた。


 彼はとにかく世界に生きる全ての生き物と共に果てしない努力を重ねた。


 そうして“竜王”エデンは世界を纏めてみせた。争っているときには決して出来なかったことを、彼の願いを成し遂げたのだ。


 そして世界がなんとか氷河期に対応できるまでになった頃、誰かが言った。


「あなたこそが“世界の王”だ」と。


 その後、人も竜も竜と人の間に生まれた子らも、そして魔獣達も、口々に世界をこう呼んだ。


 竜王エデンの愛する庭。“エデン・ガーデン”と。




 全て読み終えた後、本を片手に青年は力尽きたように再び椅子に腰を下ろす。


「懐かしいなあ」


 小さく漏れた掠れる声にはいろいろな思いが込められていた。しかしそう呟いた当人はなんの感情も感じられない虚ろな瞳でただ遠くを見つめている。


 まるで痛みを散らすように遥か彼方の過去へ思いを馳せる。


 しばらくそうしていると、静かな室内に甲高い鳴き声のようなものが聞こえた。


 現実に引き戻された彼はゆったりとした動作で声のした方を見る。


 目標のものを見つけて青年は軽く手を持ち上げた。


 どこから入ってきたのか、濃い深緑色の小鳥が手に止まる。


「よく来れたね」


 彼は友人に言うかのような親しみを込めてそう囁き、手を胸の辺りまで下ろした。


 小首を傾げて指の上を器用に移動する鳥を逆の手の掌に招く。


 鳥は囀りながら青年の手を何度も何度もつついた。


 それに青年はふ、と口元を綻ばせる。その微笑みにら先ほどまでの無気力さは微塵も感じられない。


「元気だなあ」


 彼は楽しそうに呟くと同時に、掌で遊ぶ小鳥をぎゅっと握り締めた。


 なんの迷いもなく。なんの疑いもなく。


 するとまるで最初から何もいなかったかのように小鳥の姿が消えてなくなり、手があっさりと握り拳を作った。


 彼に驚いた様子はない。


 澄ました顔で再び手を開く。


 すると掌の上で深緑色の霧状の物が蠢いた。その霧状の物体は先ほどまで鳥の形をしていたモノだ。


 鳥だった何かは手のひらの上で数回竜巻のように渦巻いた後、いきなり一箇所に凝縮してぽんっという愛らしい音を立てながら一枚の封筒に姿を変えた。


「さて、何の用だろう」


 彼は心底興味がないような、ふざけた口調でそう呟いてみせる。


 先ほどの鳥は伝書魔法という非常に簡単な連絡手段の一つで、誰でもできる安易なものだ。


 そんな方法で連絡を寄越してくるのだから、たいした用事ではないだろうと高を括っていた。


 特に期待することもなく彼は手紙を開く。


「……王子誕生のお知らせ?」


 しかしそこに堂々と書かれた文字を読んだ瞬間、目の色を変えて食い入るようにそこだけをじっと見つめた。


「なんでこんな大事なものを伝書魔法で知らせるかなあ」


 彼は乾いた笑みと共に呟くと、最後まで読むことなく手紙をばらばらに破り捨てた。


 それを紙吹雪のように空中へ放る。


 紙吹雪が舞う鬱々とした部屋で彼はくすり、と楽しそうな笑みを浮かべた。


「九百年前の歴史書が完成した記念すべき日と王子誕生の日が一緒とはね」


 青年は本を椅子の横に備え付けた机に置く。


「何か起きそうな気がするなあ……」


 そして期待に胸を躍らせながら青年は王子誕生を祝うためにおよそ九百年ぶりになる外出を決めた。

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