僕のお姫様

七島さなり

4.事前

 なんとも重い足を引きずりながら廊下を歩く。


 そのまま、堂抜は僅かに首をひねって後ろを見た。


 そこには離れた位置からじっとこちらを見据える花楓の姿がある。堂抜を置いて教室に行こうとしないところを見る限り、本当に監視をするつもりらしい。




 堂抜は正面に向き直って天を仰いだ。


 これからどうしよう、という問いが鎌首をもたげ、心に黒い影を落とす。それがさらに足を重くするという悪循環だった。


 しかし目前に迫った危機を思い出して、折れそうになる心をぎりぎりのところで持ち直す。


 それは始業時間だ。


 堂抜の登校時間は早い。普段から慌てて登校することがないので、遅刻とは無縁だった。


 しかし今日はその分の時間を花楓との話し合いにとられた。それでもまだまだ余裕はあるが、あまりゆっくりしていると遅刻してしまう。


 無遅刻に傷が付くのは構わないし、自分だけなら気にはしない。


 しかし後ろには花楓がいる。彼女を巻き込むのは偲びなかった。その上、あとで何を言われるかわからないときている。


 堂抜は大きく息を吸い込むと少しだけ歩く速度を上げた。


 すると必死に着いてこようとしているのか、後ろで響く足音が大きくなる。


 堂抜は花楓は尾行には向かなそうだなと他人事のように思った。


 そうして益体のない事を考えながらぼんやりと歩く。速度に馴れたのか、足音は小さくなっていた。


 階段を昇って二階へ上がる。そこを右に曲がれば堂抜のクラス。左に曲がれば花楓のクラスだ。


 右に曲がった堂抜は廊下の天井から下がる時計を見る。針は始業の十分前を示していた。これなら遅刻の心配はいらないだろう。


 堂抜は階段の陰からこちらを見る花楓の方を向いた。


「じゃあ、宮間さん。僕、ここだから」


 そして自分のクラスを指差しながら声を掛ける。


 すると彼女は一瞬、体を震わせて身構えた。そしてきっと眼光を鋭くする。


 射殺されそうな瞳に堂抜は思わず震え上がった。


 そうしてしばらく堂抜を睨め付けていた花楓は、やがて小さく鼻を鳴らすと踵を返して自分の教室に向かって行った。


「うーん」


 その後ろ姿を見送って、堂抜は小さく唸り声を上げる。


 花楓はどうしてあんなに攻撃的な態度なのだろうか。


 そう考えた時「さっくん!」と聞き慣れた声が耳朶を叩いた。


 首を巡らせると引き戸から顔を覗かせる一ノ瀬と目が合う。親友の顔を見た途端に堂抜は肩の力が抜けてしまった。


「ノセくん、おはよう」


「ええ、おはよう。って、挨拶してる場合じゃないわよ!」


 小走りで近付いてきた一ノ瀬はだいぶ混乱しているようだ。珍しくノリ突っ込みを披露してから堂抜の肩をがっしりと掴む。


「あんた、宮間さんと揉めたってどういうこと!?」


 耳に響く詰問に堂抜はデジャヴュを感じていた。


「い、いろいろあって……」


 思い出すと急に居心地が悪くなってしまい、もごもごと言い淀む。


 そんな状態で一ノ瀬が納得するはずもなく、ずいと端正な顔立ちが近付いてきた。


「何があったのよ?」


 きちんと話すまで追及は終わらないだろう。こういう押しの強いところは一ノ瀬も花楓もあまり変わらない。


 堂抜は「長くなるんだけど」と前置きをした上で昨日からの出来事を包み隠さず話した。


 部長から惚れ薬をもらったこと。帰りに廊下で花楓とぶつかったこと。惚れ薬の件を問われて逃げたこと。そして今朝、監視対象と認定されたこと。その全てを。


 話し終わると一ノ瀬は顔を覆って「何をやってるんだか」と呆れ混じりに呟いた。


「面目ない……」


 堂抜は後頭部を掻くといつもの情けない笑みを浮かべる。


 深い溜息が二人の間に満ちていった。


「惚れ薬の噂は聞いたことあったけど、バカらしくて気にも留めてなかったのよね……。こんなことになるならちゃんと対応しとけば良かったわ。全く、あの人は何かをやらかさないと気が済まないかしら?」


 部長のことを思い浮かべたのか、渋い顔をして一ノ瀬はぶつくさと文句を言う。


「話したって良かったんじゃないの? それで少しは懲りるでしょ」


 苛立ちを含んだ提案に堂抜は曖昧に笑ってみせた。


「それは、その……」


 答えかねていると一ノ瀬はそれに気付いたのか、詰めていた息を吐いた。


「まあ、さっくんはしないわよね。全く甘いんだから」


 ややあって小さく零れた囁きに堂抜は自虐的な笑みを浮かべる。


「そんなんじゃないよ」


 確かに部長を売るわけにはいかないという思いがなかったとは言わない。


 しかし一番の理由は違う。堂抜は責任を負うのが怖かったのだ。自分の一言で誰かの好きなこと、その居場所を奪うことになるのが嫌だった。


 人が思うほど自分は善人ではない。それが堂抜の自己評価だった。


「……それで、どうするの?」


 しばらくて一ノ瀬は険しい顔で腕を組む。


 花楓のことだろう。そう気付いた堂抜は眉尻を下げて唇を閉ざした。


「どうしようもないわよね」


 無言の返答に一ノ瀬も肩を竦めて首を横に振った。


「とにかく、スズにはちゃんと説明しておきなさいよ? あの子すごい心配してたんだから。


 それに、場合によっては生徒会が間に入ることだって出来るわ。良い? 一人で抱え込むんじゃないわよ?」


 やがてびしっと人差し指を突きつけて口早にまくしたてる。


 堂抜は以前、生徒会室で花楓への対応について話し合っていたことを思い出した。


「うん。わかった」


 強張っていた表情を緩めてそう返す。


 するとタイミングを図ったかのようにチャイムが鳴り響いた。だいぶ話し込んでいたらしい。


 それと同時に担任教師も階段から姿を現した。


「なんだ、痴話喧嘩か?」


 彼は教室前で向かい合う堂抜と一ノ瀬を見つけると面白そうに呵々と笑う。


 揉め事が大好きな先生なのだ。


 堂抜は咄嗟に否定しようと口を開く。


「いいえ、大丈夫です」


 しかしそれを遮るように一ノ瀬が澄ました顔で言った。


 やけに含みのある言い方に堂抜は思わずその顔を見る。しかし、そこから言葉の真意をくみ取ることは出来ない。


 先生は一瞬目を丸くして、しばらくしてから嬉しそうに声を上げて笑った。

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