マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-144【神に最も近づいた愛-参】

 足下から瞬時によじ登り、頭の天辺までを支配する――怖気おぞけ。神の威光に当てられた時の敬服すべき畏怖とは異なる、ただ純粋な戦慄せんりつ。血に飢えた魔物と視線を交わした、惨殺を待つだけの小人にでもなったような孤独と恐怖。あまりにも、それはあまりにも――おぞましい気配。

「ウッ……クッ……! カッ……ハッ……ハッ……!」

 息ができない。手足に力が入らない。血の気が一気に引いていく。まるで氷結地獄コキュートスにでも捕らえられているようだ。外傷はない、魔術でもない、氷雪の酷寒など感じている余裕もない。思考を巡らせる余力もなく、辛うじて意識を保っているほど。

「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……!」

 清濁を繰り返す視界の先に、巨神が振り下ろした――アクセルとウルリカを踏み潰した――足がある。巨礫の如き甚大な、憎んでも憎みきれないその足は……どうしたことか、まるで鬱血したかのように、足下から徐々に漆黒へと染まっていくのだ。その色を視認した瞬間、数多の記憶がイングリッドの脳裏を駆け巡る。

 セプテム城郭都市全土を襲った、未曾有の大規模魔術。その直後に現れた、アクセルの肉体を染める暗黒。そして――なぜか、とても幼かった頃の記憶が蘇る。そう、あれは、魔物に襲われていた小さなアクセルを、父とアレクシアと共に救った時に見た、彼の顔だ。その顔は、たとえようのない表情を湛えていたように思える。少なくとも、一介の子供が滲ませていい表情ではなかった。もはや得体の知れない、何かを悟ったような顔だった。

 イングリッドがその時に感じた不思議な想念は、女学生として学舎にあって闇魔術という存在に初めて触れた時の感触や、勇者という人類の希望とは対照的な魔王という存在があることを初めて知った時の感情に、まるで良く似ていた。それは、胸を締め付けられるような心細さで、その場から逃げ出したくなるような感傷だ。ほんのさっきまで手を繋いでいた父と母が、突然いなくなった時のような不安だ。

「カッ……ハッ……! アク……セルッ……!?」

 嗚呼、ようやく理解したよ。ここまで来て、この期に及んで、ようやくだ。初めて出会った時から、その片鱗は見せていたのに、一切をつまびらかにするまで気が付かなかった。いや、気が付けなかったのかも知れない。お前が、お前こそが――魔王だったのか。

     *

 大地から直黒ひたぐろが氾濫する。闇をも飲み込む漆黒が、激流となって噴き上がる。天は夕暮れを刻んでいるが、地には宵が訪れたかのよう。世界を黒く染め上げていく、その主こそは、今生にアクセルという名を冠する者。

 愛しき人をその手に抱きて、闇の化身としてこの地に顕現けんげんした。その貌は闇に包まれて見ること能わず。しかしその瞳は、紅涙を湛えたかのように紅蓮と光る。嗚呼、ひとたびその姿を見るなり、誰もこう言わずにはいられまい――魔王の降臨だと。

「苦……しい……ッ! アクセル……君……きみは……本当、に……!」

「知っ……てる……よ……ッ! あの、威圧……狂気……殺意……あん時と、同じだ……!」

 エレインとレギナは直感する。アクセルの身に起きている事象は、義手施術時のものと同じだと。ただ、当時よりもこちらの方があらゆる面で数段上だった。彼が身に纏う魔力も、胸中に抱く激情も、周囲に振り撒く暴威も。

 遙か彼方から眺めているだけなのに、連盟部隊の誰もが膝を屈していた。ただ息苦しいというだけじゃなく、ただ虚脱するというだけじゃなく、心がすくんで動けないのだ。

 単純な造型や声音の不気味さなら、完膚かんぷなき無貌なる巨神の方がよほどグロテスクというもの。だが、そうじゃない、人々を脅かしているものは、そんなものじゃない。本能に直接訴えかけてくる恐怖、死の運命を自覚させる威迫。それこそが、魔王なる存在意義。

 もしや、それは神にも届いたのだろうか? まるで恐怖する己を奮い立たせる獣のように、威嚇いかく彷彿ほうふつとさせる咆哮ほうこうを放つ。大地はまるで海波の如くさざ波立ち、その波濤はとうは巨神と魔王とが対峙する近傍にまで迫るイングリッドを木の葉のように吹き飛ばした。

 その直後だった。巨神が拳を大きく振りかぶる。爪先のすぐそばにたたずむ魔王に向かって、神はその拳を振り下ろした。迫り来る大質量の殴打に対して、魔王はかわす素振りもせず、ただそのまま神の拳を受け入れた――だが、どういうことだろうか。まるでかすみを掴むかのように、魔王の姿は一瞬にして霧散むさんしたのだ。漆黒の粒子へと変わり、拳は手応えなく空を切る。激震とともに、地表が割れた。しかしそこには、何もいない。

 どこだ? どこへいった? ただ両者の戦いの行く末を見届ける他ない人々は、霧散した魔王の居所を探す――見つけた。その場所は、無貌なる巨神の頭蓋、その目と鼻の先だった。魔王は背中に羽が生えているわけでもないのに、当然のように宙に浮かんでいた。

 もはや手を伸ばせば触れられるほど接近するその様相は、まるで神に対して詰め寄るかのよう。鯨と蟻ほどの体格差であるにも関わらず、両者の威迫は同等。いや、比較するには不適切なほど、質の異なるものか。

 張り詰めた大気、凍てつく殺気、火花を散らす激烈なせめぎ合い。口火を切ったのは、やはり巨神の方だった。地面に叩き付けた拳を振り上げ、薙ぎ払うように魔王に対して殴打を振るう――しかし、当たらない。握り拳を開いて掴み掛かるも、かすみと消える。魔王はその場から一切動くことなく……いや、もはや手を下すまでもなく、巨神が振るうことごとくの攻撃をねじ伏せる。

 ひとしきりの攻め手を繰り出した巨神――その時、遂に魔王が動き出した。義手をも失い、完全に喪失したはずの右腕が、己が纏いし闇によって復元されていく。本来の形状を象って、質量を宿したかのように集約する闇は、紛れもなく右腕の機能を再現していた。失われていたその腕を、緩慢な動作で振り上げると、巨神に向けて横薙ぎに鋭く振るった。

 大地から溢れかえった漆黒と同様の、久遠の闇が放出される。その軌道上にあるもの一切合財を簒奪さんだつし、支配し、侵食し、まるで初めから無かったかのように消し去っていく。だが、この世の終焉に垣間見るかのような光景とは裏腹に、音もなく、とても静かに、それは執行された。

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