マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~
Log-128【天と地の狭間で】
依然として破狼との剣戟を続けるアレクシア。彼女の眼からも、大狼の腹部が膨張していく様子が見て取れた。煌々と光を放ち、膨大な熱量を帯びていく。間違いない、爆発の規模は尋常ではないだろう。だが大狼は、自分の身に起きている現象など気にする素振りも見せず、アレクシアに攻めかかる。
恐らくは、頂点捕食者としての矜持を優先しているのだろう。きっと単なる内部破壊では、心臓や脳を潰しただけで死ぬことなどない。それだけの生命力、それに裏打ちされる自信を持っている。だからこそ破狼は、自分の身に起きている現象を軽視していた――何が破壊されるかなど、知る由もないのだから。
「ヘッ、どんな表情を見せてくれるのか、見ものだな。この特等席で見届けてやるぜ、破狼!!」
腹部の膨張は最高潮に達する、最早爆発まで幾許も無い。それでも両者は退かず、最前線で互いの刃を交え続ける。今や二者の間には、降り積もった雪は疎か、草の根一本も残さず吹き飛んでいた。土俵となるのは丸裸の地表。結局その剣戟の結末は、両者一歩たりとて後退も前進もない、紛う事なき引き分けを以て幕を閉じた――突如、身体が宙に浮く、高速で後方に退いていく、その後退していく軌跡に沿って地面に電弧が閃く。
「エレイン、お前っ!」
その正体は、アレクシアを引っ捕まえて超音速で移動するエレインだった。
「この馬鹿! 自分だけ格好つけて! 犠牲ばっかりがお姉ちゃんの仕事じゃないでしょ!」
「お、お前……!」
あまりにも簡単に命を捨てようとする姉を、姉にしかできないことがまだ沢山あると叱る妹。それは、叱られた本人さえも頷いてしまうほど、至極真っ当な指摘だった。そもそもアレクシアは連盟部隊の総司令官だ。総統であるウルリカが作戦を練ったとしても、それを実行に移し、成功に導くのは総司令官の役割に他ならない。彼女の存在無くして、部隊の統制は実現できない。
「す、すまん、エレイン。頭に血が上ってた」
「全く、それだけじゃないでしょ……待っててくれてる人がいるんでしょ?」
「ばっ……! おまっ、それどこで――」
アレクシアの視線の先で、大気を揺さぶる重く鈍い轟音を発して、破狼の腹部が炸裂する。大の大人が吹き飛ばされるほどの圧縮波を生じて、肉片を撒き散らし、舞い上がった結晶片が空に瞬く。湾状に抉れた腹部から黒煙を上げながら、大狼は硬直を続ける。しばらくの後に、大狼は力なく大地に倒れ込んだ。
「……終わった、の?」
「ああ……ようやく、終わったようだ……」
その一部始終を上空から見下ろしていたウルリカとアクセル。二人は確実に、破狼の体内にあった飽和魔石の砕ける様を、その目で見届けた。結晶片が圧縮波に乗って、あたかも金糸が宙に舞うかのような、魔石の煌びやかな最期も見届けた。そして大狼は大地に臥して、微動だにしない。ならばこの時を以て、戦いの終焉と判断しても良いのではないだろうか。
「ようやく、ようやくなのね……多くの犠牲を払ったわ……」
「これで、弔いになるのかな。無念は、晴らせたのかな……」
「死人に口なしよ。あたし達が出来ることなんて、精々が自己満足なのよ、失われた命にやってあげられることなんてね」
「それは、そうだけど……」
「でもね、人は二度死ぬって言われてるわ。一度目は肉体の死、そして二度目は記憶の死。死後、その人を覚えている者がいなくなった瞬間に、その人が存在していた痕跡さえもこの世から消滅して、完全なる死を迎えるの。だから一番は、決して忘れず、長生きしてあげることね」
そうアクセルに語った直後、ハッとして口を塞いだ。自分はなんてことを言ったのか、と。残酷な事実をひた隠しながら、なぜ叶わぬ勧告など宣ったのか、と。顔を伏せてしまったウルリカに、彼女の心境を察してしまうアクセル。具体的な何かを知っているわけではない。しかし、これだけ長く彼女と一緒にいれば、どれだけ鈍くても思考は追いついてくるものだ。だから、彼女の言わんとするところは、察しがつく。原因は不明だ、いつどこでかも分からない。だけど恐らく、自分は長くない。
アクセルはそれを理解してしまった、悔しさで打ち拉がれそうになる。だが彼は、こうも思った。願わくは、己の死が、ウルリカの目的達成と引き換えであればいいな、と。彼女の目的に関わる死であれば悔いはない、と。彼女の目的が、己の目的なのだから。
空を飛翔するしばらくの間、二人は沈黙したままだった。気まずい雰囲気、しかしその間は、二人だけでいられる唯一の時間。そこには不思議と、酸いも甘いも同居していた。二人手を繋ぎながら、果てしない天空を翔ける、この世に二つと無い逢瀬。
ただそうしているだけで、二人が共にあるだけで、それだけで丁度いい。蕩けるような甘美も、耽溺するような愛欲も、二人には過ぎた代物だ。背伸びせず、同じ視点で、前を見る。
嗚呼、世界はこんなにも広かったのか。広大な雪原の彼方に見える地平線は、この世界が丸いことの証左。意外にも大地は、なだらかな凹凸で出来ていた。天蓋を厚く覆っていた雲は疎らに千切れ、傾いてきた日の光が雲間から覗く。世界は少しずつ黄金色を帯びていた。
このまま、天と地の狭間で旅が出来ればいいのに。何かに縛られず、誰かに指図されず、ただ気ままに世界を眺めながら。
このまま、黙っていたっていい。ただ二人だけで、同じ景色を見て、同じ空気を吸って、少しの触れ合いと、少しの温もりと。
嗚呼、もう終わってしまう、泡沫のひととき。ずっと、このままではいられない、次第に高度を下げていく。不自由な空の旅だったのに、心は豊かで自由だった。きっと地上は自由なのに、心は躍らず不自由だ。狭く窮屈な時の方が、広く自由な時よりも、自由を自覚出来たりするものだ。
黙する二人は、様々な想いが巡っていただろうか。貴女はこの時間を、惜しいと想っているだろうか? 貴方は明日ではなく、今日のこの瞬間が続けばいいと想ってる? 隣にいるのが、あなたで良かった。誰かではなく、あなたが良かった。だからあなたと、共に在りたい。
――長くは続かない。知っていた。我が道は、茨の道だ。困難の後に待つのは、困難だけだ。
「――リカ、ウルリカ、聞こえるか。応答しろ」
「……アレクシア。どうしたの?」
「今、空を飛んでいるのか?」
「ええ、そうだけど……なに?」
「……下を見ろ。奴が――動き出した」
目を見開く。そんな馬鹿な、有り得ない。奴は死んだはずだ。奴を怪物たらしめていた原因を取り除いた。ならもう、奴は神話生物としての体裁を保てないはず。なら、なぜ?
儀仗剣を傾けて旋回し、眼下を望む、大地に横たわる破狼。先ほどまでは、何ら微動だにしていなかった、骸と思しきそれは――何だ、あれは。蠢いている? 蠕動している? 大狼の表皮を、何かが這っている。それは黒々とした、実体のある影のようなもの。それはどこからか現れたのではなく、大狼の骸から放たれていた。
「……嘘でしょ? 何が、起きているの?」
「ウルリカ、すぐにアレクシア様達と合流しよう。今はまだ小康状態、体制を整え直す時間はある」
「…………」
「ウルリカ! 考えている時間が惜しい! 僕達ならまだやれる! だからさあ、行こう!」
「……え、ええ。そうね、分かったわ。一度体制を整えるわよ」
アクセルの気持ちは理解している。今は思考に耽る時間が惜しい、それは正しい。しかしウルリカが抱いた不安は、破狼の再起だけに留まらなかった。恐らくこのまま、死の淵から蘇るだろう。
では、なぜ蘇る? 大狼を怪物に仕立て上げた絡繰りは排除した。ならばそれは、尋常の魔物と大差ない生命に格が落ちたことと同義のはず。更には、尋常の魔物であれば再起など不可能なほどに肉体は損壊している。たとえどれほど甚大な魔力が残っていようと、復元魔術でもなければ腹部が爆ぜた状態を修復することは出来ない。では、なぜ蘇る?
何かが、差し迫っているのではないか。何かが、見えないどこかで動いてるのではないか。演繹や帰納的な論理立てた考え方が通用しない、もっと上位の次元にある意思や仕組みが働いているのではないか。未だ勇者に秘められた真実を、ウルリカは知らない。だが恐らくはそこに、秘匿された世界の真実があるのだろう。
機首を下げ、アレクシア達連盟部隊が集まる場所に向かって、儀仗剣を走らせる。腰部に手を当てると、ベルトに吊した鍵が震えている。何に反応している? 分からない。だが、今はとにかく部隊の体制を整えなければいけない。
ウルリカの胸の内に、得体の知れない、不気味な不安が蠢く。それが指し示すものとは、何か。
その答えを知るのは、そう遠くない未来。
恐らくは、頂点捕食者としての矜持を優先しているのだろう。きっと単なる内部破壊では、心臓や脳を潰しただけで死ぬことなどない。それだけの生命力、それに裏打ちされる自信を持っている。だからこそ破狼は、自分の身に起きている現象を軽視していた――何が破壊されるかなど、知る由もないのだから。
「ヘッ、どんな表情を見せてくれるのか、見ものだな。この特等席で見届けてやるぜ、破狼!!」
腹部の膨張は最高潮に達する、最早爆発まで幾許も無い。それでも両者は退かず、最前線で互いの刃を交え続ける。今や二者の間には、降り積もった雪は疎か、草の根一本も残さず吹き飛んでいた。土俵となるのは丸裸の地表。結局その剣戟の結末は、両者一歩たりとて後退も前進もない、紛う事なき引き分けを以て幕を閉じた――突如、身体が宙に浮く、高速で後方に退いていく、その後退していく軌跡に沿って地面に電弧が閃く。
「エレイン、お前っ!」
その正体は、アレクシアを引っ捕まえて超音速で移動するエレインだった。
「この馬鹿! 自分だけ格好つけて! 犠牲ばっかりがお姉ちゃんの仕事じゃないでしょ!」
「お、お前……!」
あまりにも簡単に命を捨てようとする姉を、姉にしかできないことがまだ沢山あると叱る妹。それは、叱られた本人さえも頷いてしまうほど、至極真っ当な指摘だった。そもそもアレクシアは連盟部隊の総司令官だ。総統であるウルリカが作戦を練ったとしても、それを実行に移し、成功に導くのは総司令官の役割に他ならない。彼女の存在無くして、部隊の統制は実現できない。
「す、すまん、エレイン。頭に血が上ってた」
「全く、それだけじゃないでしょ……待っててくれてる人がいるんでしょ?」
「ばっ……! おまっ、それどこで――」
アレクシアの視線の先で、大気を揺さぶる重く鈍い轟音を発して、破狼の腹部が炸裂する。大の大人が吹き飛ばされるほどの圧縮波を生じて、肉片を撒き散らし、舞い上がった結晶片が空に瞬く。湾状に抉れた腹部から黒煙を上げながら、大狼は硬直を続ける。しばらくの後に、大狼は力なく大地に倒れ込んだ。
「……終わった、の?」
「ああ……ようやく、終わったようだ……」
その一部始終を上空から見下ろしていたウルリカとアクセル。二人は確実に、破狼の体内にあった飽和魔石の砕ける様を、その目で見届けた。結晶片が圧縮波に乗って、あたかも金糸が宙に舞うかのような、魔石の煌びやかな最期も見届けた。そして大狼は大地に臥して、微動だにしない。ならばこの時を以て、戦いの終焉と判断しても良いのではないだろうか。
「ようやく、ようやくなのね……多くの犠牲を払ったわ……」
「これで、弔いになるのかな。無念は、晴らせたのかな……」
「死人に口なしよ。あたし達が出来ることなんて、精々が自己満足なのよ、失われた命にやってあげられることなんてね」
「それは、そうだけど……」
「でもね、人は二度死ぬって言われてるわ。一度目は肉体の死、そして二度目は記憶の死。死後、その人を覚えている者がいなくなった瞬間に、その人が存在していた痕跡さえもこの世から消滅して、完全なる死を迎えるの。だから一番は、決して忘れず、長生きしてあげることね」
そうアクセルに語った直後、ハッとして口を塞いだ。自分はなんてことを言ったのか、と。残酷な事実をひた隠しながら、なぜ叶わぬ勧告など宣ったのか、と。顔を伏せてしまったウルリカに、彼女の心境を察してしまうアクセル。具体的な何かを知っているわけではない。しかし、これだけ長く彼女と一緒にいれば、どれだけ鈍くても思考は追いついてくるものだ。だから、彼女の言わんとするところは、察しがつく。原因は不明だ、いつどこでかも分からない。だけど恐らく、自分は長くない。
アクセルはそれを理解してしまった、悔しさで打ち拉がれそうになる。だが彼は、こうも思った。願わくは、己の死が、ウルリカの目的達成と引き換えであればいいな、と。彼女の目的に関わる死であれば悔いはない、と。彼女の目的が、己の目的なのだから。
空を飛翔するしばらくの間、二人は沈黙したままだった。気まずい雰囲気、しかしその間は、二人だけでいられる唯一の時間。そこには不思議と、酸いも甘いも同居していた。二人手を繋ぎながら、果てしない天空を翔ける、この世に二つと無い逢瀬。
ただそうしているだけで、二人が共にあるだけで、それだけで丁度いい。蕩けるような甘美も、耽溺するような愛欲も、二人には過ぎた代物だ。背伸びせず、同じ視点で、前を見る。
嗚呼、世界はこんなにも広かったのか。広大な雪原の彼方に見える地平線は、この世界が丸いことの証左。意外にも大地は、なだらかな凹凸で出来ていた。天蓋を厚く覆っていた雲は疎らに千切れ、傾いてきた日の光が雲間から覗く。世界は少しずつ黄金色を帯びていた。
このまま、天と地の狭間で旅が出来ればいいのに。何かに縛られず、誰かに指図されず、ただ気ままに世界を眺めながら。
このまま、黙っていたっていい。ただ二人だけで、同じ景色を見て、同じ空気を吸って、少しの触れ合いと、少しの温もりと。
嗚呼、もう終わってしまう、泡沫のひととき。ずっと、このままではいられない、次第に高度を下げていく。不自由な空の旅だったのに、心は豊かで自由だった。きっと地上は自由なのに、心は躍らず不自由だ。狭く窮屈な時の方が、広く自由な時よりも、自由を自覚出来たりするものだ。
黙する二人は、様々な想いが巡っていただろうか。貴女はこの時間を、惜しいと想っているだろうか? 貴方は明日ではなく、今日のこの瞬間が続けばいいと想ってる? 隣にいるのが、あなたで良かった。誰かではなく、あなたが良かった。だからあなたと、共に在りたい。
――長くは続かない。知っていた。我が道は、茨の道だ。困難の後に待つのは、困難だけだ。
「――リカ、ウルリカ、聞こえるか。応答しろ」
「……アレクシア。どうしたの?」
「今、空を飛んでいるのか?」
「ええ、そうだけど……なに?」
「……下を見ろ。奴が――動き出した」
目を見開く。そんな馬鹿な、有り得ない。奴は死んだはずだ。奴を怪物たらしめていた原因を取り除いた。ならもう、奴は神話生物としての体裁を保てないはず。なら、なぜ?
儀仗剣を傾けて旋回し、眼下を望む、大地に横たわる破狼。先ほどまでは、何ら微動だにしていなかった、骸と思しきそれは――何だ、あれは。蠢いている? 蠕動している? 大狼の表皮を、何かが這っている。それは黒々とした、実体のある影のようなもの。それはどこからか現れたのではなく、大狼の骸から放たれていた。
「……嘘でしょ? 何が、起きているの?」
「ウルリカ、すぐにアレクシア様達と合流しよう。今はまだ小康状態、体制を整え直す時間はある」
「…………」
「ウルリカ! 考えている時間が惜しい! 僕達ならまだやれる! だからさあ、行こう!」
「……え、ええ。そうね、分かったわ。一度体制を整えるわよ」
アクセルの気持ちは理解している。今は思考に耽る時間が惜しい、それは正しい。しかしウルリカが抱いた不安は、破狼の再起だけに留まらなかった。恐らくこのまま、死の淵から蘇るだろう。
では、なぜ蘇る? 大狼を怪物に仕立て上げた絡繰りは排除した。ならばそれは、尋常の魔物と大差ない生命に格が落ちたことと同義のはず。更には、尋常の魔物であれば再起など不可能なほどに肉体は損壊している。たとえどれほど甚大な魔力が残っていようと、復元魔術でもなければ腹部が爆ぜた状態を修復することは出来ない。では、なぜ蘇る?
何かが、差し迫っているのではないか。何かが、見えないどこかで動いてるのではないか。演繹や帰納的な論理立てた考え方が通用しない、もっと上位の次元にある意思や仕組みが働いているのではないか。未だ勇者に秘められた真実を、ウルリカは知らない。だが恐らくはそこに、秘匿された世界の真実があるのだろう。
機首を下げ、アレクシア達連盟部隊が集まる場所に向かって、儀仗剣を走らせる。腰部に手を当てると、ベルトに吊した鍵が震えている。何に反応している? 分からない。だが、今はとにかく部隊の体制を整えなければいけない。
ウルリカの胸の内に、得体の知れない、不気味な不安が蠢く。それが指し示すものとは、何か。
その答えを知るのは、そう遠くない未来。
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