マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~
Log-124【されど不屈の稲光】
激しい動悸で、呼吸が荒い。頭が揺れ動いて、焦点が合わない。正常に思考が働かず、身体に力が入らない。
何が、起きた? 僕の知らない間に、何が? 力の限り、尽くしたつもりだ。間違いなく、破狼は弱っていた。僕の漆黒に染まるこの手で、絶対的だった大狼の魔力を喰い荒らした。連盟部隊は攻勢を強めて、堅牢だった大狼にも威力を発揮していた。確実に、刃は通っていた。なのに、なぜ。
アクセルの視線の先に佇む破狼は、既に頂点捕食者としての風格を取り戻していた。対して連盟部隊の面々は、絶望に打ち拉がれていた。最早士気はなく、蛇に睨まれた蛙の様相を呈していた。
剣もない、義手も上手く動かない、足腰は戦慄と困惑で震えている。広大な雪原の中で、アクセルは己の無力に折れかけていた。また、幼かったあの時と同じように、ただ命が失われていく様を、見届けなくてはいけないのか。力なく膝が崩れ落ちる、その時、上空から風を切る音が近づいてきた。
「――ル……! クセル……! アクセルッ!!」
その声に振り返る、噴流を放つ儀仗剣に乗って、アクセルに手を差し伸べるウルリカがいた。
「ウルリカ!!」
彼女の手を取り、儀仗剣に足を掛けて、再び上空へと昇っていく。彼女はこの期に及んで尚、何かを企む表情を湛えていた。必死の形相だった、しかし、未だ潰えぬ希望を抱いた顔だ。
「……君は、まだ何か策を……?」
「当たり前じゃない。やられたままなんて有り得ないわ。絶対にぶっ倒す。絶対に……人の死を無駄になんてしないんだから」
その声に滲むのは、決死の覚悟。必ず打ち倒すという決意。そして、命を悼む切なる心。
「お疲れのところ悪いけど、性懲りもなくアンタにも手伝って貰うわ。いえ、アンタのその力がどうしても必要なの」
「……だけど、僕のこの力は、通じなかったんだろう?」
漆黒の手を見遣って、眉を顰めるアクセル。眼下に見える惨状が、その証左だ。
「ええ、何の工夫もなく奴にぶつかればね」
「工夫……?」
「そうよ、工夫するの。真っ向からぶつかったんじゃ相手にならない。あたし達はさしずめ肉に群がる蚤や壁蝨よ。でもね、そんな矮小な連中でも遙かに巨大な生き物を殺してしまうことが出来るの」
「……伝染病」
「に近いわね、今回の戦術は。それにはまず、アンタが奴の表皮に残しといてくれた剣を使うの。アレは唯一、奴の体内に通じる抜け穴になってるわ。傷を負ってもすぐに再生する怪物に、どれだけ爪を立てても傷口は広がらない。なら内側から直接――核を砕くのよ」
そう言ってウルリカは再び、破狼を目掛けて機首を下げる。最早人類に猶予は残されていない。細かな説明をしている暇などない。ならば、即断即決以外に道はない。
「クッ……! な、なら僕は……! 何を、すれば……!?」
「アンタの得物にしがみつきなさい! 要領は変わらないわ! ただとにかく、己の力を信じて祈りなさい!」
高速度の急降下に、振り落とされそうになりながらも、ウルリカにしがみつくアクセル。好機は一度。そして、これが最後の抵抗となる。なればこそ、神にだって祈ろうか。
「アレクシアッ! 無理を承知で頼むわ! どうにか足止めして頂戴!」
「馬鹿野郎ッ! そいつを待ってたんだぜッ!!」
最前線から退き、セプテムの魔術師から治療として復元魔術を施されていたアレクシアが、再起する。
「あ、アレクシア……そんな身体で、無茶だ……!」
同じく満身創痍となって前線から退き、隣で治療を受けるジェラルドが引き止めた。狂気の沙汰だ、最早立っているだけでも痛みで気を失ってしまうほどに、彼女の身体は損傷しているはずなのだ。
「馬鹿野郎、ジェラルド。俺を呼ぶ声が聞こえんだ。それに応じねえ俺なんざ、もう俺じゃねえのよ」
「何を言って……」
唖然とするジェラルドに背を向けたアレクシアが、首だけで振り返る。覗く横顔には、澄み切った笑みが浮かんでいた。すぐに前へと向き直り、表情は一変、険しさを湛えると、一目散に戦線復帰し、まるで彼女の帰りを待っていたかのように佇んでいた破狼の眼前に躍り出て、
「『我は岩をも徹し、山をも引き抜き、世をも覆そう! 我が身は怪異、勇力、悖乱、鬼神に非ず、一筋に十駕を駆けし駑馬なれば! 其に一念の矜持を払い、百錬千磨の鋼を纏いて、賜りし艱難辛苦を超克せん! 鍛筋鋼体!!』」
即座に呪文を唱える。まだ傷は癒えていないにも関わらず、復帰から間もなく、魔力を全解放した。全身の骨肉は爆発的に増強され、周囲に波濤を生むほどの魔力を放出する。烈火を彷彿させるアレクシアの気迫に、警戒に徹していた破狼も発奮したか、天に向かって高らかに哮る。
「お前さんも高ぶってきたようだな? だがよお、こちとら気持ちの上じゃ負けてられねえのさ。仲間がやられちまってんだ、形振り構ってられねえのよォ!!」
地を蹴る、疾走する、疾風の如く、後塵が舞い上がる、一歩ごとに急加速していく。背に担いだ身の丈ほどの大剣を振り上げた、同時に、大狼もまた脚を僅かに振り上げる。
間合いに入ったか、それは瞬きさえも許されぬ――瞬撃。人間大ほどもある巨大な爪が、アレクシアに降り掛かる、それを、全身の捻りを発条にして振り抜いた大剣で弾き返す。音速にも達する速度での大質量同士の衝突は、激烈なる衝撃波を生む。軋む筋骨、しなる刀身、迸る魔力。その直後――二者は息も吐かせぬ連撃の応酬を繰り広げる。あろうことか、アレクシアはただの一人で応じていた。一振りすれば人間など四散する破狼の爪牙を凌ぎ続けているのだ。打ち合う度に生じる衝撃波で、連盟部隊の誰一人として近づくことは出来ない。それはまさに、竜巻の如く。
しかし、それだけで足止めだと嘯く気は更々なかった。つまるところ、作戦要務を担当するウルリカにとって必要な、僅かな間隙さえ作ればいいだけだ。彼女が作戦に移行するその寸時さえ大狼が止まればいい、それだけの話だ。
「――磁力の魔術師、ティホン殿。動けますわね? 我々魔術師の魔力は、全て貴方に譲渡致しますわ。僅かな時間で構いません、我が愚妹の企ての為、全霊を以て破狼を食い止めなさい」
磁属性の大魔術を行使して魔力を使い果たし、心身を消耗して前線から退いていたティホンの下に、魔術師達を率いるイングリッドが赴く。病的なほどの痩躯で地に座し、相変わらず血色の悪い青々とした肌を湛えているが、彼の瞳には十分な精気と闘志が宿っていた。
「無論だとも。赤の他人に指図を受けるのは癪だが、我が聖女の願いとあらば、この命、惜しくはない。その一瞬に、我が生涯の全てを懸けよう」
磁力を操れる魔術師というのは、そう多くはない。ましてや、ティホンのようにたった一人で磁属性の大魔術を行使できる者など一握りだ。そして、大狼に僅かでも間隙を生み出すには、直接対象を縛り付けることに長けた磁力の魔術が最適だった。つまり彼は、この作戦の最適任者と言える。
「……エレイン、そっちの首尾どうかしら?」
イングリッドは藍色に艶めく髪を掻き上げて、こめかみに手を当てる。
「うん、問題ないよ。みんな位置についたところ。沢山はないけど、雷槍も準備できたよ。いつでも指示してくれて大丈夫」
「ええ、頼むわ。それと……万が一の際も、頼んだわね」
「そうだよね。そっちの方も……もう大丈夫だよ。覚悟はできてる」
作戦行動の進捗報告と、二人だけが理解できる符牒を交わして、精神感応を切断する。その直後だった、イングリッドの脳裏に響き渡る、愚妹の喚呼。
「イングリッド! あと何秒よ!?」
「十秒後、貴女に絶好の三秒間をお贈りするわ」
「三秒も!? 十二分じゃない! 助かるわ!」
矢継ぎ早な質問と応答。十分な回答が得られて満足したのか、ウルリカとの精神感応の接続は僅か二言三言で切断された。悠長に会話する時間などあるわけがなかったが、性急でそそっかしい愚妹に、イングリッドは一つ溜め息を零す。そして、
「――雷撃、始め」
一言、そう呟いた瞬間、破狼の周囲を取り囲んだエレイン率いる特鋭隊が、地上から無数の雷槍を投擲し始めた。
「『天を治むる鳴神を拝す。瑞雲に瞬くは覇を唱えし十二の一。典を敷き、道を整え、春を生む。世に常道なるを定めし導』」
だがそれは、大狼に直接向けられたものではない。大狼の頭上に出現した、激しく火花を散らすプラズマ球体に向けられたものだった。雷槍は吸い寄せられるようにプラズマ球体へと収束していき、次第にその規模を増していく。
「『掲げし威光は、天地を繋ぐ楔となりて。人は其に、背き難き神を見る。須く、命あるもの畏敬せよ。須く、形あるもの叩首せよ――』」
まるで地上に現れた太陽の如く周囲を照らし、平原を覆う雪を剥がさんとする灼熱を帯びたプラズマ球体に、アレクシアと刃を交えていた破狼も流石に気がついたか。首を反り、天を仰ぐ、眩い光が眼を刺す。
「『――砕かれし黄金時代』」
斉唱の終止――目が眩む閃光、大気を揺らす雷鳴と共に、大狼を目掛けて雷霆が下る。激震する大地、吹き付ける風の波濤、舞い上がる雪煙。甚大なる雷撃がもたらしたのは、その威力もさることながら、何より見逃してはならない現象を引き起こす。それが、大狼の帯電。
「『金科玉条思考の獄、一糸乱れぬ是故空中、変幻自在の不増不減、虚ろなるや求不得苦、自縄自縛の一切皆苦、狭窄ゆえ、嵌入屈従、金剛錬縄』」
ティホンが紡ぐ、本式詠唱。雷霆による帯電を利用し、指数関数的に磁力を増幅させる。破狼ほどの魔物を磁気魔術で縛り付けるには、魔術師数百人が束にならなければ叶わないだろう。しかし、電離魔術と組み合わせれば、或いは可能。
「我が聖女よ! 何卒、我らに仇なす痴れ者に! 嗚呼、鉄槌を!」
必死の形相で、大狼を縛り付けるティホン。間違いなく、魔術は効いていた。天を仰いだ姿勢のまま、大狼は硬直していたのだ。だが、イングリッドの宣言通り、決して長くは持たない。何よりも、ティホンの身体が持たない。大狼に向けて伸ばした腕は、不気味なほどに血管が浮かび上がっていた。次第に、沸騰しているかのように蠕動を起こす。そして――弾け飛んだ、鮮血が噴出する。それは腕だけに留まらず、紅潮する顔面に浮かび上がる血管が、弾け飛ぶ。至る所から赤々とした血潮が噴き出した。
「よしなさい、命に関わりますわよ?」
「痴れ者がァ!! 貴様には分かるまい! あの御方こそは鮮烈なる明星! 我が終生に灯り続ける光明! 得難き愛の権化! ここに我が生涯を懸けず、いつどこで果てれば良いと言うかァッ!!」
「……勝手になさって結構ですわ」
ティホンの死に物狂いに気圧されたか、イングリッドは勧告を中断し、魔力の貸与に専念する。
彼の身体は、瓦解を始めていた。それでも、魔術の手を緩めることはなかった。そしてそれは、確かに希望を託す架け橋の役割を果たした。彼が焦がれる、想い人の宣言を以て。
「……ティホン殿、我が愚妹から伝言が一言。ご苦労様、と」
イングリッドのその言葉を聞いた途端、魔術を停止する間もなく、ティホンは気絶した。
何が、起きた? 僕の知らない間に、何が? 力の限り、尽くしたつもりだ。間違いなく、破狼は弱っていた。僕の漆黒に染まるこの手で、絶対的だった大狼の魔力を喰い荒らした。連盟部隊は攻勢を強めて、堅牢だった大狼にも威力を発揮していた。確実に、刃は通っていた。なのに、なぜ。
アクセルの視線の先に佇む破狼は、既に頂点捕食者としての風格を取り戻していた。対して連盟部隊の面々は、絶望に打ち拉がれていた。最早士気はなく、蛇に睨まれた蛙の様相を呈していた。
剣もない、義手も上手く動かない、足腰は戦慄と困惑で震えている。広大な雪原の中で、アクセルは己の無力に折れかけていた。また、幼かったあの時と同じように、ただ命が失われていく様を、見届けなくてはいけないのか。力なく膝が崩れ落ちる、その時、上空から風を切る音が近づいてきた。
「――ル……! クセル……! アクセルッ!!」
その声に振り返る、噴流を放つ儀仗剣に乗って、アクセルに手を差し伸べるウルリカがいた。
「ウルリカ!!」
彼女の手を取り、儀仗剣に足を掛けて、再び上空へと昇っていく。彼女はこの期に及んで尚、何かを企む表情を湛えていた。必死の形相だった、しかし、未だ潰えぬ希望を抱いた顔だ。
「……君は、まだ何か策を……?」
「当たり前じゃない。やられたままなんて有り得ないわ。絶対にぶっ倒す。絶対に……人の死を無駄になんてしないんだから」
その声に滲むのは、決死の覚悟。必ず打ち倒すという決意。そして、命を悼む切なる心。
「お疲れのところ悪いけど、性懲りもなくアンタにも手伝って貰うわ。いえ、アンタのその力がどうしても必要なの」
「……だけど、僕のこの力は、通じなかったんだろう?」
漆黒の手を見遣って、眉を顰めるアクセル。眼下に見える惨状が、その証左だ。
「ええ、何の工夫もなく奴にぶつかればね」
「工夫……?」
「そうよ、工夫するの。真っ向からぶつかったんじゃ相手にならない。あたし達はさしずめ肉に群がる蚤や壁蝨よ。でもね、そんな矮小な連中でも遙かに巨大な生き物を殺してしまうことが出来るの」
「……伝染病」
「に近いわね、今回の戦術は。それにはまず、アンタが奴の表皮に残しといてくれた剣を使うの。アレは唯一、奴の体内に通じる抜け穴になってるわ。傷を負ってもすぐに再生する怪物に、どれだけ爪を立てても傷口は広がらない。なら内側から直接――核を砕くのよ」
そう言ってウルリカは再び、破狼を目掛けて機首を下げる。最早人類に猶予は残されていない。細かな説明をしている暇などない。ならば、即断即決以外に道はない。
「クッ……! な、なら僕は……! 何を、すれば……!?」
「アンタの得物にしがみつきなさい! 要領は変わらないわ! ただとにかく、己の力を信じて祈りなさい!」
高速度の急降下に、振り落とされそうになりながらも、ウルリカにしがみつくアクセル。好機は一度。そして、これが最後の抵抗となる。なればこそ、神にだって祈ろうか。
「アレクシアッ! 無理を承知で頼むわ! どうにか足止めして頂戴!」
「馬鹿野郎ッ! そいつを待ってたんだぜッ!!」
最前線から退き、セプテムの魔術師から治療として復元魔術を施されていたアレクシアが、再起する。
「あ、アレクシア……そんな身体で、無茶だ……!」
同じく満身創痍となって前線から退き、隣で治療を受けるジェラルドが引き止めた。狂気の沙汰だ、最早立っているだけでも痛みで気を失ってしまうほどに、彼女の身体は損傷しているはずなのだ。
「馬鹿野郎、ジェラルド。俺を呼ぶ声が聞こえんだ。それに応じねえ俺なんざ、もう俺じゃねえのよ」
「何を言って……」
唖然とするジェラルドに背を向けたアレクシアが、首だけで振り返る。覗く横顔には、澄み切った笑みが浮かんでいた。すぐに前へと向き直り、表情は一変、険しさを湛えると、一目散に戦線復帰し、まるで彼女の帰りを待っていたかのように佇んでいた破狼の眼前に躍り出て、
「『我は岩をも徹し、山をも引き抜き、世をも覆そう! 我が身は怪異、勇力、悖乱、鬼神に非ず、一筋に十駕を駆けし駑馬なれば! 其に一念の矜持を払い、百錬千磨の鋼を纏いて、賜りし艱難辛苦を超克せん! 鍛筋鋼体!!』」
即座に呪文を唱える。まだ傷は癒えていないにも関わらず、復帰から間もなく、魔力を全解放した。全身の骨肉は爆発的に増強され、周囲に波濤を生むほどの魔力を放出する。烈火を彷彿させるアレクシアの気迫に、警戒に徹していた破狼も発奮したか、天に向かって高らかに哮る。
「お前さんも高ぶってきたようだな? だがよお、こちとら気持ちの上じゃ負けてられねえのさ。仲間がやられちまってんだ、形振り構ってられねえのよォ!!」
地を蹴る、疾走する、疾風の如く、後塵が舞い上がる、一歩ごとに急加速していく。背に担いだ身の丈ほどの大剣を振り上げた、同時に、大狼もまた脚を僅かに振り上げる。
間合いに入ったか、それは瞬きさえも許されぬ――瞬撃。人間大ほどもある巨大な爪が、アレクシアに降り掛かる、それを、全身の捻りを発条にして振り抜いた大剣で弾き返す。音速にも達する速度での大質量同士の衝突は、激烈なる衝撃波を生む。軋む筋骨、しなる刀身、迸る魔力。その直後――二者は息も吐かせぬ連撃の応酬を繰り広げる。あろうことか、アレクシアはただの一人で応じていた。一振りすれば人間など四散する破狼の爪牙を凌ぎ続けているのだ。打ち合う度に生じる衝撃波で、連盟部隊の誰一人として近づくことは出来ない。それはまさに、竜巻の如く。
しかし、それだけで足止めだと嘯く気は更々なかった。つまるところ、作戦要務を担当するウルリカにとって必要な、僅かな間隙さえ作ればいいだけだ。彼女が作戦に移行するその寸時さえ大狼が止まればいい、それだけの話だ。
「――磁力の魔術師、ティホン殿。動けますわね? 我々魔術師の魔力は、全て貴方に譲渡致しますわ。僅かな時間で構いません、我が愚妹の企ての為、全霊を以て破狼を食い止めなさい」
磁属性の大魔術を行使して魔力を使い果たし、心身を消耗して前線から退いていたティホンの下に、魔術師達を率いるイングリッドが赴く。病的なほどの痩躯で地に座し、相変わらず血色の悪い青々とした肌を湛えているが、彼の瞳には十分な精気と闘志が宿っていた。
「無論だとも。赤の他人に指図を受けるのは癪だが、我が聖女の願いとあらば、この命、惜しくはない。その一瞬に、我が生涯の全てを懸けよう」
磁力を操れる魔術師というのは、そう多くはない。ましてや、ティホンのようにたった一人で磁属性の大魔術を行使できる者など一握りだ。そして、大狼に僅かでも間隙を生み出すには、直接対象を縛り付けることに長けた磁力の魔術が最適だった。つまり彼は、この作戦の最適任者と言える。
「……エレイン、そっちの首尾どうかしら?」
イングリッドは藍色に艶めく髪を掻き上げて、こめかみに手を当てる。
「うん、問題ないよ。みんな位置についたところ。沢山はないけど、雷槍も準備できたよ。いつでも指示してくれて大丈夫」
「ええ、頼むわ。それと……万が一の際も、頼んだわね」
「そうだよね。そっちの方も……もう大丈夫だよ。覚悟はできてる」
作戦行動の進捗報告と、二人だけが理解できる符牒を交わして、精神感応を切断する。その直後だった、イングリッドの脳裏に響き渡る、愚妹の喚呼。
「イングリッド! あと何秒よ!?」
「十秒後、貴女に絶好の三秒間をお贈りするわ」
「三秒も!? 十二分じゃない! 助かるわ!」
矢継ぎ早な質問と応答。十分な回答が得られて満足したのか、ウルリカとの精神感応の接続は僅か二言三言で切断された。悠長に会話する時間などあるわけがなかったが、性急でそそっかしい愚妹に、イングリッドは一つ溜め息を零す。そして、
「――雷撃、始め」
一言、そう呟いた瞬間、破狼の周囲を取り囲んだエレイン率いる特鋭隊が、地上から無数の雷槍を投擲し始めた。
「『天を治むる鳴神を拝す。瑞雲に瞬くは覇を唱えし十二の一。典を敷き、道を整え、春を生む。世に常道なるを定めし導』」
だがそれは、大狼に直接向けられたものではない。大狼の頭上に出現した、激しく火花を散らすプラズマ球体に向けられたものだった。雷槍は吸い寄せられるようにプラズマ球体へと収束していき、次第にその規模を増していく。
「『掲げし威光は、天地を繋ぐ楔となりて。人は其に、背き難き神を見る。須く、命あるもの畏敬せよ。須く、形あるもの叩首せよ――』」
まるで地上に現れた太陽の如く周囲を照らし、平原を覆う雪を剥がさんとする灼熱を帯びたプラズマ球体に、アレクシアと刃を交えていた破狼も流石に気がついたか。首を反り、天を仰ぐ、眩い光が眼を刺す。
「『――砕かれし黄金時代』」
斉唱の終止――目が眩む閃光、大気を揺らす雷鳴と共に、大狼を目掛けて雷霆が下る。激震する大地、吹き付ける風の波濤、舞い上がる雪煙。甚大なる雷撃がもたらしたのは、その威力もさることながら、何より見逃してはならない現象を引き起こす。それが、大狼の帯電。
「『金科玉条思考の獄、一糸乱れぬ是故空中、変幻自在の不増不減、虚ろなるや求不得苦、自縄自縛の一切皆苦、狭窄ゆえ、嵌入屈従、金剛錬縄』」
ティホンが紡ぐ、本式詠唱。雷霆による帯電を利用し、指数関数的に磁力を増幅させる。破狼ほどの魔物を磁気魔術で縛り付けるには、魔術師数百人が束にならなければ叶わないだろう。しかし、電離魔術と組み合わせれば、或いは可能。
「我が聖女よ! 何卒、我らに仇なす痴れ者に! 嗚呼、鉄槌を!」
必死の形相で、大狼を縛り付けるティホン。間違いなく、魔術は効いていた。天を仰いだ姿勢のまま、大狼は硬直していたのだ。だが、イングリッドの宣言通り、決して長くは持たない。何よりも、ティホンの身体が持たない。大狼に向けて伸ばした腕は、不気味なほどに血管が浮かび上がっていた。次第に、沸騰しているかのように蠕動を起こす。そして――弾け飛んだ、鮮血が噴出する。それは腕だけに留まらず、紅潮する顔面に浮かび上がる血管が、弾け飛ぶ。至る所から赤々とした血潮が噴き出した。
「よしなさい、命に関わりますわよ?」
「痴れ者がァ!! 貴様には分かるまい! あの御方こそは鮮烈なる明星! 我が終生に灯り続ける光明! 得難き愛の権化! ここに我が生涯を懸けず、いつどこで果てれば良いと言うかァッ!!」
「……勝手になさって結構ですわ」
ティホンの死に物狂いに気圧されたか、イングリッドは勧告を中断し、魔力の貸与に専念する。
彼の身体は、瓦解を始めていた。それでも、魔術の手を緩めることはなかった。そしてそれは、確かに希望を託す架け橋の役割を果たした。彼が焦がれる、想い人の宣言を以て。
「……ティホン殿、我が愚妹から伝言が一言。ご苦労様、と」
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