マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-122【誰そ彼、縁】

「嘘……! まずい! あのままじゃ、やられるじゃない!」

 上空から眺めていたウルリカが目を見張る。破狼ハロウの復活に掛かった時間は、想定よりも極めて短かった。復活とはつまり、アクセルの襲来を認め、迎え撃つだけの力を取り戻した状態をいう。ウルリカのような飛行手段を持たない人類など、大狼にとっては餌食以外の何物でもない。

「……ッ! 目を、覚ましただとッ!」

 鮮血を湛えた眼が開いた、アクセルの視線を紅い戦慄せんりつが縛り付ける。強張る身体、走る怖気、脳天から足の爪先までを冷たいものが駆け巡る。研ぎ澄まされた神経が、時間感覚を加速させる。圧縮された時の中で、破狼ハロウの口吻がゆっくりと打ち開かれていく様を眼前に見る。それは、異様という他ない。極低温下でへばりついてしまった口唇に注意を払うこともなく、引き千切れていく筋繊維から鮮血を撒き散らしながら、瀝青に塗れた口腔が顔を覗かせるのだから。

「『略式、発火イグニッション!!』」

 ウルリカは片手から噴流を放って推進力を倍増し、もう一方の手から伸びた蜘蛛の糸をゼンマイ仕掛けのように急速に巻き取って、長く長く伸びた糸の先に繋がるアクセルを強引に引っ張る。すると、徐々に降下軌道がずれていく――だが遅い、間に合わない。破狼ハロウの口吻は既に、人一人分の受容態勢を完了していた。

「クッ、一か八か……ッ!」

 振りかぶった剣に、魔力を込める。渾身の力で相搏てば、活路が開けるかも知れない――その時、

「『息吹止み、地に伏す、星羅せいらの胎動。芽吹く露華、列なる霜剣そうけん雪花装花せっかそうか雪時雨ゆきしぐれ空界氷河グレイシア・インターヴァル』」

 ――呪文を唱えるは、イングリッドの寒々しいほど冷徹れいてつな声色。詠唱の履行りこうと共に現れたるは、大地から出でて、天をも衝く氷柱。大狼の足下から瞬く間に伸びた氷の柱は、アクセルを飲み込まんとする残忍なる顎を突き破り、頂点捕食者の思惑を阻止する。

「ナイス! 申し分ないわイングリッド!」

 これ以上ないほどのタイミングでの妨害に、激賞を贈るウルリカ。そのままアクセルを凧のように操って、破狼ハロウの側面へと回る。

「行くぞ大狼! ここだァッ!」

 艶めく白銀が鬱蒼と生えた断崖に、魔力を込めた剣を突き刺す。吹き飛ばされそうになる身体を、突き立てた剣にしがみついて堪える。触れると鋭利な剃刀かみそりのような銀毛が、アクセルの肉体を切り刻んでいく。だが所詮、掠り傷が関の山だ、気にしている暇はない。手袋が所々破けて、隙間から覗く鋼の義手で、銀毛を鷲掴わしづかむ。大狼の表皮に突き刺した剣を足掛かりにして、体勢を整えた。

「鬼が出るか蛇が出るか……さあ持ち堪えてくれ、僕の身体……ッ!」

 左手の手袋を口で咥えて取り外す、皮膚を突き刺してくる銀毛をものともせず、茂みを掻き分けて、藪の中に頭をねじ込み、漆黒に染まる掌で――破狼ハロウの表皮に触れる。

 ――その瞬間だった。天地の鼓動が鳴り響く。それはあたかも、縮退魔境エルゴプリズムが生み出す超重力の如く。破壊とは異なる、沈み込むような力の奔流が渦巻いた。大気は乱れ、大狼を目として巻き上がる旋風。認識しただけで背筋が凍るほど甚大な魔力が、一点に集中していく。

「……恒常の指輪は、もう持たない。これが、恐らく最期……」

 アクセルの奮闘を見下ろしながら、そう独り言を呟くウルリカ。彼女は初めから、保険を掛けていた。彼が危うい存在であるということを、予め推測していた。グラティアで手渡した銀の指輪は、彼が楔へと完全に接続してしまわないための保険だった。

 ウルリカの言う『恒常の指輪』とは、魔力の異常な高下を抑制し一定に保つ呪物ウィッチガイド。アクセルが我を失った時に、制限装置として働いたものだ。もしこの指輪が存在しなければ、彼女がどれほど働きかけようとも、彼が自我を取り戻すことなど出来なかっただろう。

「グッ……! くっ……! まだ……ッ! まだだ……ッ!!」

 今はまだ、正常に働いていた。アクセル自身も肌身の感触を通して、薄々と感づいていた。銀色に輝くその指輪が、乱れ狂わんとする己を正常に保たせていることを。そして、次第に限界が近づいていることを。だから彼は、この時機を逃すまいと、己が身を挺した戦術を提案したのだ。

 だが、アクセルが破狼ハロウから吸い上げた魔力量は、彼の肉体が許容できる量をとっくに超過していた。旋風となって荒れ狂う魔力は、彼の肉体から氾濫したもの。大狼から急激に吸い上げた魔力が、彼の魔脈から溢れ出したもの。それは決して、人一人の肉体で担える所業ではない。

「うっ……グッ……ガハッ! 駄目だ……まだだ、まだ持ってくれ……!」

 細胞組織が、魔脈が、精神が瓦解がかいを始め、吐血するアクセル。眼窩から、耳孔から、大狼の銀毛で負った傷口から、鮮血が溢れ出す。血染めとなった彼は、最早死に最も近い戦士だった。

 ――しかし、それでもアクセルは、破狼ハロウの侵食を止めない。なぜなら、大狼は確実に、目に見えて、弱ってきているからだ。

 己が肉体の異変に気付いてから、大狼は蚤のように張り付いたアクセルを振り払おうと、暴れ回っていた。それを連盟部隊が総力を挙げて抑え込む。まずアレクシアとジェラルドの部隊が、渦巻く旋風をものともせず、鋭利な得物で大狼の脚部を穿ち、砕いた。鈍重となった足運びに、すかさずイングリッドとエレインの部隊が、脚を凍てつかせる氷結魔術と捕縄の呪物ウィッチガイドで抑留する。始めは激しい抵抗があった、だが次第に、破狼ハロウの威力は衰えを見せた。動きは緩慢かんまんとなり、咆哮ほうこうは冴えず、心悸は激しさを増す。それは、獣なりの危機感が、脳裏を支配しているかのようだ。

 だからアクセルは、周囲の音が遠くなり、焦点が合わず、意識が朦朧もうろうとしようとも、決して大狼から離れようとはしなかった。諦めて宙に身を投げ出せば、きっとウルリカが糸を牽引して助けてくれるだろう。だが、それでは意味が無い。かつて命辛々打倒を果たした夭之大蛇ワカジニノオロチのように、この魔物も撃てば撃つほど、その強靱さを増していくはずだ。ならば、未だ手を付けられぬほどには至っていないこの時機に、首を斬り落せるだけ弱らせなければ。

 心身の限界は疾うに超えている。アクセルを突き動かしているのは、ウルリカに誓った信念だけ。彼女の身を護り、その信念を護り抜く。意識は擦り切れても、覚悟は折れていない。気を失うのが先か、破狼ハロウを滅ぼすのが先か、はたまた、命を落とすのが先か。

 漆黒に染まる腕も、頬にまで漆黒が迫る顔も、足場として大狼の表皮に突き立てた剣も、紅く血に塗れた、その時だった。

 ――それは、慟哭どうこくにも似た、咆哮ほうこう。それは、果てしない星霜を経た、諦観ていかん

「……貴方を……知っている……」

 ――切り離された二つの魂が、すれ違う。かつて同じモノだった両者の意思が、混じり合う。

「……貴方は、僕だ……忘れていた……こんなにも、当然を……」

 ――此岸と彼岸、死線が分かつ二人の己。対峙たいじするは、由来を同じくする自我同士。

 意識失われつつあるアクセルの脳裏に、双子のそれよりもなお親しい――だが未だに得体の知れぬ――存在がささやく。それは、義手装着手術の際に暴走を引き起こしてしまったあの時、彼の脳裏に現れたモノと同じ存在だった。だが、その時の記憶は、今の今まで封印されていたようだ。まるで、思い出してはならぬ記憶のように。だからアクセルは、身体中を蝕む苦痛が吹き飛ぶほど――全身に怖気が走った。脳裏に現れた存在との融和こそが、かつての暴走の引き金だったから。

「……駄目だ……たとえ貴方が……僕だったとしても……共に在ることは……滅びの道だけ……」

 必死の抵抗を見せるアクセル。しかし、一度接近してしまった磁石は、否が応でも重なり合おうとするもの。それを引き剥がすだけの力が、最早彼には残されていなかった。混濁こんだくした意識の果てに待つのは、決して制御など出来ぬ、極大なる力の渦。セプテムを飲み込むほどの、甚大な魔力。きっと、そこに身を委ねてしまえば、この苦しみも、痛みも、罪も、何もかも……

 ――を厭わず、を尽くし、に背かず。

 あらゆる諦観ていかんが支配していた脳裏に、嗚呼ああ……愛しき人の声が、介入してきた。

 ――あたしはこれを勇者として生きると誓った時、胸に刻み込んだわ。

 嗚呼ああ……その声は、貴女を護ると誓った、その人のものだ。この胸に去来する、思い出のことごとくだ。

 ――あんたも死の衝動に駆られる度、思い出しなさい。

 嗚呼ああ……なぜ僕は、僕の全てに優先されるこの想いを、頭の片隅に追い遣っていたんだ。

 迷いも、恐怖も、情愛の突風が吹き飛ばす。意識はクリアになる。視界は明るく広がる。漆黒に染まる手に輝く指輪はか細くも、未だその光を絶やさない。失われていた聴覚をつんざくは、破狼ハロウ苦悶くもんするうなり声と、連盟部隊の絶え間ない喊声。そして、

「――アクセルッ!!」

 遠く空の彼方から、張り裂けそうな声で叫ぶ、愛しき人の声。それを耳にして、アクセルの意識は今や、完全なる覚醒を見る。

 なぜ、瓦解がかい寸前だった肉体が精気を取り戻したのかは、分からない。だが彼は、ここに至って、確かに復活した。脳裏に渦巻いていたあらゆる思考は、時間にして些かもなかったようだ。その一瞬のうちに、アクセルは確かに力を取り戻したのだ。

「まだだ、僕はまだ戦える、破狼ハロウ! その魔力、貰い受けるッ!!」

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