マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-026【神童の深き谷底-弐】

 ――男がこの少女に出会ったのは、ほんの一年前。

 当時、男が所属していた集団は、少女率いる集団とは対立関係にあった。少女の集団はこの界隈ではまだ数ヶ月しか活動していない、謂わば全くのルーキーだ。対立の理由は至極単純、目に付いたから。

 そんなある日、その件の少女が単身、男が所属する集団の根城にやってきた。しかし、男は臆病だったため、物陰に隠れて見ていたようだ。その判断は正しかった、決着は瞬く間についた。そう、年端もいかない少女が、たったの一人で、男の所属する集団を屈服させたのだ。

 男は後に知ることとなるが、少女の集団は、集団とは名ばかりで、彼女は単身で切り盛りし、その勢力を伸ばしていた。所属している他の人間など、彼女にとっては戦力として数えておらず、単なる手足という認識。

 そして、男はその時、初めて正当な魔術なるものを目にした。

 男のように社会から排斥はいせきされた者は、当然全うな教育を修められないため、魔術という概念に対しては全くの無知に等しい。庶民以下でも扱える極めて児戯的な魔術や、力を込めるだけで事象を引き起こす魔石などは扱えるものの、それを魔術と呼んでいいものなのかは甚だ疑問だった。

 しかし、この少女のものは端的に言って、次元が違った。

 男の人生の中で、魔術師が魔術を行使する、などという場面に遭遇したことは確かにあった、数える程度だが。しかし、そのかつて目にしてきたものが、まるで稚拙ちせつと感じられるほど、少女が見せた神秘的なまでの魔術を目の当たりにして――敵う道理がないと悟ったのだ。

 この男のように、その神秘に魅せられて少女の下に集う者。また、あまりにかけ離れた力の前にこの裏社会を去った者。それでも己の反抗心に従い、更に大きな集団へと移籍した者。様々な道を選ぶ者が現れた。

 年端もいかぬ少女が、たった一人で、たった一度の抗争で、一集団を完膚なきまでに壊滅させた。そんな逸話が、界隈にそれだけの影響を与えたのだ。彼女の噂が広まるのは時間の問題だった。恐らくは今後、面倒なことになるのだろう、と男は本能的に感じ取っていた。

「……姐さん、手伝うことはあるか?」

「無いわ。今日は帰ってもらって結構よ」

 彼女はいつも素っ気ない。いつでも誰に対しても、ぶっきらぼうで無愛想。どんな冗談にも付き合おうとはせず、どんな問題や局面においても冷静に対処する。

 自分が感じるそこはかとない危機感に対しても、彼女にとっては明確な像として浮かんでいるのだろう。これから何が起きてどう対応すれば良いのかを、すでに掌の盤上で描き切っているのだろう、と男は理解していた。

 そんな彼女だったが、たった一度だけ、彼女が人前で笑った瞬間を、男は見たことがあった。


―――


 それは、男がいつものように、本来は家畜の飼料としてパン屋が備蓄しているパンくずを、タダ同然の値段で購入しようと、市街地から街外れへと繋がる薄暗い路地に進み行った時の事。

 一人分ほどしかない狭い道を、男は耳を澄まし、息を殺して歩くのが習慣となっていた。それは彼なりの裏社会での処世術だったが、今回に限ってはそれが奇妙な方向に働いたようだ。

 道中では度々路地が十字になり、都市部の大通りへと続く小路と、市外へと続く小路に分かれていた。男はいつも通り、市外へと歩を進めていた、その折、聞き覚えのある声が聞こえてきた。それは大通りへと続く小路からだった。

 男はいつもの癖で物陰に身を隠し、息を潜める。耳を澄まして、その声を手繰り寄せる。

 それは、男が心酔する、彼女の声だった。

「アンタ、一々面倒くさいのよ。あたしが何をしようと勝手だし、家の援助なく自活できてるわ。いいから、あたしは居ないものと思って頂戴」

「そうはいきません!」

 少女の声に応えたのは、少し歳が離れているのだろう、少年の声だった。

 生真面目そうなその声に、少女は億劫な感情をむき出しにした溜息を吐く。

「家族の誰もが心配しております。確かに貴女は一人でなんだってできますでしょうし、巷に出没する並の悪漢では太刀打ちできるべくもないことは重々承知です」

「いや、並の悪漢って何よ……」

「しかしです! それとこれとは別の話。家族は一つ屋根の下、寝食を共にするのが凡庸な幸せ。そんな当たり前の幸福を分かち合えていない家族の一人を、心から心配するのは当然じゃありませんか!」

 その言葉は天涯孤独のこの男にとって、心底苛立たせるものだった。しかし、確かにそれは苛立たしい言葉だったが、家族を持たない侘びしさを知る彼にとっては、そんな陽だまりのような温もりを放棄してしまうのは、勿体無いとも感じていた。

「声が大きい……! はぁ……分かったわよ。まあ、前向きに考えさせてもらうわ」

 男は、意外だと思った。彼女が他人の言葉を受け入れるなど、今まで抱いてきた印象からは考えられなかったからだ。

 思えば、彼女がこのような光の当たらない世界に踏み込んできてからというもの、一度として穏やかな時間を過ごすことなどなかっただろう。その実、この男がそうだった。

 天性の素質や周囲の環境、生まれ落ちてから現在に至るまで、あらゆるものに恵まれていただろう彼女が、何のためにこの世界へと足を踏み入れたかなど、推し量るべくもないが、彼女もまた一人のか弱い人間だったということなのだろうか。

 はたまた、それは話し相手である少年の影響によるものなのかもしれない――そう考えると、男は不思議な感情を抱いた。生まれてこの方、感じたこともない、一つの感情が芽生えていた。

「……ただ、一つだけ条件があるわ」

「条件?」

「あと一年は見過ごして頂戴。その後に今後のことを考えるから」

「一年!? そんな条件飲み込めませんよ!」

「一々声が大きいわね……でもこの条件を飲めないなら、一生帰らないわよ」

「……」

 少年は押し黙った。必死に思考を巡らせているのか、唸り声を上げる。

 男は息を殺しながら、今か今かと少年の返事を待つ。彼はなぜだか緊張していた。その理由は分からない。ただ、胸の拍動は確かに大きく脈打っていた。

「……分かりました。使用人アクセル、この身を以て旦那様に直訴致しましょう。全ては一家の平穏のために」

「全く、大袈裟よ。アンタの命がどんなに安くたって、父上が無碍むげに扱うわけないでしょ」

「無論承知しております。ただウルリカ様のためならば、この命、惜しくないことには変わりません」

「……フン」

 男は僅かな落胆と共に、確かな安堵を感じていた。感情が起伏する理由は依然として分からなかったが、分析するほどの興味も湧かなかった。

 そしてその時初めて、忠誠を誓った少女の名が、ウルリカということを知った。それを知ることで、彼の気持ちは満たされた。知識欲? それともただの好奇心? 感応の理由がそのどちらでなくとも、男にとってはさして興味がなかった。

「但し、こちらも条件があります」

「随分と生意気ね。……言ってみなさいよ」

「無事に帰ってきてください」

「……」

 一寸の間があった。男は不思議に思い、物陰から僅かに顔を出す。

 すると、思いもよらない光景を目の当たりにした。少女が――ウルリカが次第に顔を緩ませて、微笑んでいるではないか。

「あははは、アンタっていつも大袈裟よね。戦争に行くわけでも、魔物を倒しに行くわけでもないってのに、そんな辛気臭い顔で、そんな台詞吐くんだもの。苛立つのを通り越して滑稽こっけいだわ」

 そもそもこの男は、表情を顔に出すウルリカを見たことがなかった。彼女は絶えず無愛想で、極めて合理的。明確な年齢は知る由もなかったが、恐らくその歳にしてはあまりにも似つかわしくない孤高を持していた。そんな彼女が、その時ばかりは歳相応の少女だったのだ。

「……いいわ、その程度じゃ制約にすらなってない、ただの前提でしかないってことを証明してあげるわ。それにどうせ、お目付け役としていつもあたしを監視してるんでしょ? ルイーサ?」

 ウルリカがそう言うと、どこからともなく一人の女が現れた。

「全く、これじゃ日がな一日落ち着くこともできないじゃない……まあいいわ。自由の代償ってことで理解してあげる」

「ウルリカ様。失礼を承知の上で、レンブラント様の命により引き続き監視を継続致します」

「構わないわ。まあ、貴女のお世話になることはないでしょうし、安心して見届けて頂戴」

 そう言った彼女は、得意気な笑みを湛えていた。

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