マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-011【砂紋を描く-参】

 傾き始めた陽を覆うほど、亭々たる王宮を臨む湖のほとりで、アクセルは周囲に構わず、一人黙々と腕立て伏せをしていた。鍛錬に抜かりを許せない彼は、同行者のことも忘れて、謹厳にして愚直に日課をこなす。

 周囲から見れば、その姿は異様だったのだろう。すると、一人の女が近づいてきた。

「もしもし、そこのお兄さん。もうすぐ日が暮れようかというのに、鍛錬ですか? とても精が出ますね!」

 息を切らしながら顔を上げると、短く切った黒髪で、一見少年と見紛う容貌をした女。だが、アクセルにとって見慣れた、目鼻立ちの整った令嬢が、前屈みで見下ろしていた。

「って、あれ……? アクセル君!?」

「エレイン様、お久しぶりです」

 アクセルがエレインと名前を呼んだ女は、ローエングリン家の三女であり、紅顔の美少年のような顔立ちが印象的な女だった。

 横にスリットが入った橙色のチュニックに、グラティア特有の翡翠色に染まったストールを巻き、くるぶしまで裾が長い深緑のサルエルパンツを穿く。足元は通気性の良い皮革を編み上げたサンダルを履いていた。

 年頃の女としては色香のある服装とは言えず、快活な少年のように動きやすい服装だった。

「アクセル君、久しぶりだね〜! まさか、こっちに来てるなんて、一言言ってくれれば良かったのにー」

「え? 僕はてっきり、ウルリカからお話しが通っていると思っていたのですが」

「ううん、なーんにも。って、え? 呼び捨て……? うっそ、もうそこまで進んでるんだ……」

 エレインは驚愕すると同時に、にやけ顔を止められないようだ。

「どうか、しましたか?」

 アクセルに悟られないよう、口元だけは隠して話を続ける。

「……あ、ううん、何でもないよ。実は、所定の時刻と場所で落ち合おうって内容だけの手紙が僕んちに届いててね。まさか、アクセル君まで居るだなんて思わなかったよ。だってアクセル君、前に国境駐屯兵に抜擢されたって聞いたよ? その仕事はどうしたの?」

 問い詰める、というよりは、不安げな聞き方と表情だった。

「ああ、そういう経緯でしたか。ウルリカは、まあ以前と変わらない調子で、と言いますか。突然駐屯先にハウスキーパーと共に現れて、為されるがまま首根っこを掴まれて同行することになりました。周囲には囃し立てられつつ、一応は卒業といった形で飛び出したのですけれど」

 アクセルは続けて、当時の事柄を克明に説明する。ウルリカの事、魔物襲来の事、そして――勇者の功業を成すための旅であることを。


―――


「そっか、勇者……かぁ。そうなんだ、あの子が……」

 アクセルの隣に座って、暮れなずむ夕日の色に染まった王宮を臨みながら話を聞いていたエレインは、独り言のようにそう呟いた。物思いに耽るような、嬉しさと寂しさが同居するような、判然としない複雑な表情を湛えていた。

 エレインはさり気なく懐中時計を取り出して、時間を確認する。そして、その表情は見る見るうちに青ざめていった。

「あ、アクセル君……! どうしよう、もう七時過ぎてるよ……! 僕が来てから二時間も経ってる……」

「え!? ですがまだ、陽は沈んでませんよ!?」

「南側のアウラと違って、こっちは今の時期、日が長いんだよ! 僕がちゃんと確認しとくべきだった……あぁぁぁぁ、ウルリカにこっぴどく怒られる……」

「……」

 四姉妹とアクセルがまだ故郷に居た頃から、時間に五月蝿いウルリカの性格には皆が気をつけていた。ほんの僅かでも定刻を過ぎれば、鉄拳制裁は免れない。

 ――十五分前行動はあらゆる作戦行動の要よ。イチ、事前対処。ニ、念には念を。サン、備えあれば憂いなし。それでも災難は降り掛かるものなんだから――

 これが一度目の遅刻者に対する、ウルリカの最大限の恩情ある言葉だった。以後、遅刻する者は殆ど居ない。何故なら、このように彼女が真剣な表情と厳しい口調で諭そうものなら、誰もが怖気づいてしまうからだ。

 そして、アクセルは考えた。当初の目的の成否に関わらず、果たしてこの都市を無事に抜けられるのだろうか、と。


―――


「アンタら、これだけ人を待たせておきながら仲良く散歩だなんて、随分といいご身分ね」

 壁に掛けてある振り子時計を指さす。時刻は八時を回っていた。約束から約二時間の遅刻。テーブルの上には、これ見よがしに置かれたカップの数がウルリカの憤怒の程を物語っていた。

「返す言葉もございません」

 反省として喫茶店内にも関わらず正座させられたエレインとアクセルは、俯きながら謝罪の弁を述べる。そんな二人を見下げながら、ウルリカは頭を抱えて深く溜息を吐いた。

「流石に憤死するかと思ったわ。本来なら落とし前つけてもらいたいところだけど、今回は見逃してあげる」

 二人はその言葉に心底ホッとして、互いの顔を見遣る。

「その代わりに――」

 すかさず、二人の表情は固まった。

「――エレイン、貴女もアクセル同様、あたしの勇者の功業に参列しなさい」

 エレインはその言葉にハッとして、ウルリカを見上げる。その表情は、希望に目を輝かせた無垢なる少年を思わせた。


―――


 公言を避けるべき話題のため、四人はウルリカ達の寝室へと場所を移した。幾何学模様に織り込まれたエスニックな柄のレースカーテンが靡く窓際。そこに置かれた簡素な木造りの円卓を囲んだ。席につくなりウルリカは、

「率直に言わせてもらえばエレイン、貴女という戦力はこの旅路においてはかなり重要なの」

 エレインの正面から、目を逸らさずに語りかけるウルリカ。その眼差しは真剣だった。

「来て頂戴。貴女がいなければ、成せるものも成せないわ」

「ウルリカ……」

 先ほどまで目を輝かせていたエレインの表情は、しかし次第に光を失っていく。

「君がそこまで評価してくれるなんて、何だか嬉しいよ。僕だけなら、今すぐにでも付いて行きたい……でも、やっぱり、僕にもお役目があるから……」

 エレインは思わず、顔を伏せる。ウルリカの突然の訪問、そして唐突な勧誘であるにも関わらず、彼女がここまで情緒を揺さぶられるのには理由があった。

「エレイン、貴女は元々勇者を志望していた――って話を父上から聞いてるわ」

「……!」

 その言葉に、エレインは当惑の色を露わにする。

「貴女は勇者に焦がれ、そして規則に負けた。どんなに優秀でも王の許しを得た血筋じゃなきゃなれない。貴女は家族同然、それでもローエングリンの血族じゃない」

 ウルリカは諭すように語る。それは、勇者という仕組みを知らないアクセルに配慮しての話だったのだろう。だがそれは事実、エレインという一人の女の人生を表す縮図でもあった。

「だからあたしは貴女を誘ったのよ。こんなこと、半端な奴らじゃ務まらないもの。単に腕っ節があるだけじゃ駄目。高潔な意志こそが大切なの。惜しむらくは縁に欠けた貴女の、その素質こそが必要なのよ」

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