鬼哭迷世のフェルネグラート

トンテキ

二十六話 ひと時の……平穏?


 結局、と言っていいのか、何故かしばらくは平穏な日々が続いた。これまではほぼ毎日と言っていいレベルの頻度であった為、特戦課のメンバーはこの機を利用し、英気を養っていた。一部を除いて、だが。

「はーい、あと五周」

 広い九十九第一学舎のグラウンドで、その中央にはトラックが敷かれている。その上を淡々と走らされる莉緒。この頃になると、阿弥はもう真剣に莉緒を見るつもりは無いようで、彼が一人で走っているのを遠くから眺めるに留まっている。それも、自分の訓練を同時に行いながら、だ。莉緒をどれだけ扱いたところで、彼女の興味に触れるようなものは無いのだろう。実際、莉緒は言われた事は全てこなしてきた。文句ひとつ溢さず、それこそ今走っているのと同じで淡々と。
 それを見て、阿弥はともかく最初は周りで囃し立てていた他のメンバーに関してもすぐに興味を失っていき、最終的には自分達の訓練に集中していた。

「これで……終わり……」

 荒い息を整えながら、事前に用意していたペットボトルに口を付ける。着ているシャツに汗が滴る。しかし、そこまでの運動量をこなしておきながら、その顔からはあまり疲労を感じられない。もともとこういった運動は得意だったのか、蘭と沙羅の為に陽動を引き受けた時といい、時折常人では考えられないものを見せる。これもまた、これまでの経験の産物と言えるのだろうか。親が小さい頃に蒸発した事を考えると、それなりに苦労はしているようだが。

「終わったよ」
「んー? あ、そう」

 面倒見がいい、とはよく言ったものだ。ここ数十分程、阿弥の目が莉緒に止まった事は無かった。興味を失せているのなら、さっさと開放してくれればいい、と思うのは決しておかしい事では無いだろう。
 とはいえ、彼女自身にも都合があるのは事実だ。むしろ、訓練を始めたばかりとの時、趣味に走っていたとはいえ、莉緒に付きっきりだった事の方がおかしいくらいだろう。
 そんな彼女に向ける無機質な目は、本人から返答が無いと分かると、溜息一つ吐かず、その場で足を別の方向へと向けた。その足で向かったのは、一つの建物だ。表札には、運動部部活棟と書かれている。一応、莉緒はそこの施設を利用する事を許可されている。
 掻いた汗を流し服を着替えると、ふと自身の携帯端末が光っているのが目に映る。ここにいる間は、電源こそ付けてはいるものの、使用する必要が無い為、常に貴重品と共に閉まっており、例え着信やメッセージが来たところで分からない。……まぁ、そもそも莉緒にメッセージを送って来る知り合い自体、片手で数えられるほどしかいないわけだが。
 画面を見ると、どうやら明日の予定の事らしい。そういえば、先日佳樹に週末は空けておくように、と言われた事をここに来て思い出したようだ。誰が見ても、完全に頭から抜けていた、と言える様子だ。

「ま、いっか」

 それは佳樹との約束に対して、では無い。世間的には休みであるが、特戦課は土日関係無く動いている。常に全員が常駐しているわけでは無いが、シフトというものは存在し、明日は阿弥や皐月が担当となっていた筈だ。阿弥がいる、という事はそれ即ち明日もまた訓練に来るように言われるだろうが、十中八九莉緒はすっぽかすだろう。効果があるかどうか分からない訓練などよりも、友人の方が大切なのは、彼にとっても変わらない事実だ。

「莉緒さん、明日の予定ですが……」

 案の定、部活棟から出てくる莉緒待ち構えていた皐月の口から出たのは、明日の話。

「明日は無理だよ」
「出来れば朝一に……はい?」
「だから、明日は無理」
「……」

 まさかの先手を打たれた事に、皐月はただ唖然とするしかない。しかも、特に理由も言わずに、ただ無理だとしか口にしない。

「無理」

 満面の笑みでそう続ける莉緒。彼女にとっては珍しい莉緒の笑顔ではあったが、口にしている言葉や、その笑みが好意から来ているものではない事を知っているからか、その表情は非常に渋い。人間、見た事の無いものに出くわした場合、好奇心が先行する者と、警戒心を抱く者がいる。皐月は後者のようだ。

「……そんな顔をされても、はいそうですか、と納得は出来ませんよ。これは莉緒さんの為でもあるんですから」
「俺の為、と言う割には、延々と走り続けさせられてるだけの気もするけど? 俺を長距離走の選手にでもするつもり?」
「あれは莉緒さんの基礎体力向上の為の……」
「だったら、今の状態を見て、それが必要かどうか、判断くらいは出来るよね?」
「……そうですね。三綴先輩には言っておきます。ですので、明日からはそれを……」
「言ったでしょ? 明日は無理」

 方向性を変えれば、少しは気が変わるかとでも思っていたのだろう。しかし、やはり莉緒の返答は同じだ。

「明日は用事があるんだよ。だから、ただでさえ効果があるのかどうか分からないような事に時間を使うつもりは無いよ」
「……それは私達の訓練そのものに言っているんですか?」

 文脈を考えれば、莉緒の言葉の対象が延々と走らされる事であるというのが分かるだろう。しかし、ここ最近莉緒と皐月の関係は悪化の一途を辿っている。例え意図的では無くとも、彼女が莉緒の言葉をマイナス方面に考えるのは十分にあり得る話だ。だからといって、ここまで飛躍するのはどうかと思うが。

「そうだよ」

 だが、莉緒はその質問にあっさりと頷いて見せた。一切の誤魔化しも、嘘も見られない。彼女の認識が一つとして間違っていない、そう言いたげに。
 莉緒の肯定の意思を見た皐月は何も言わない。ただジッと、莉緒の顔を、これまで見たことの無いような表情……いや、無表情で見つめている。その目はどこか、阿弥と同じものを感じさせた。

「分かりました。では、明日からは好きにすればいいです」

 それだけ言うと、皐月は踵を返す。一瞥もせず、莉緒の事など、もはや知った事かとでも言いたげに。
 実際、彼女は明日から・・、と言った。それはつまり、今後ここに来る必要は無い、という事だろう。莉緒にとっては願ったり叶ったりだが、そもそも莉緒がここにいる理由は魔人に狙われる可能性がある、というものだ。万が一、明日以降に莉緒が魔人から攻撃を受け、その結果命を落とす結果になればどうするつもりなのだろうか。

「……新聞の見出しに大きく出るだろうなぁ。特戦課、一般人を死なせる、とか」

 しかし、莉緒の口調からはそれでもいい、と受け取りかねないニュアンスを感じさせる。事実、そのようにして自身が命を落としたとて、悲しむ人間などこの世にはおらず、むしろ居候がいなくなる事で保泉家は両手を上げて歓迎するだろう。
 ……実際にそんな事を考えているとすれば、相当に捻くれているか、壮絶な過去があるかのどちらかだろう。だが、莉緒に限ってそれは無い、とも言いきれない。
 何にしろ、明日の自由が約束された莉緒は、少し軽い足取りで帰路に着くのだった。



「遅ぇ!!」
「ま、まぁまぁ……逸原君、落ち着いて」
「そうだよ~、すぐ怒る男はモテないよ~。あ、そっか、逸原は男が好きなんだっけ?」
「あ゛ぁ゛?」

 佳樹、奏、奈央のいつもの三人組が顔を合わせて、これまたいつもと変わらないやり取りをしている。傍から見れば微笑ましい光景ではあるものの、三人の目的がここにはいないもう一人の為である事を考えれば、佳樹の怒りも妥当なものだし、むしろ彼を諫めている奏も、本来であれば怒っても良い立場のはずだ。

「いや~ごめんね。なかなか布団が離してくれなくて……」
「てめぇ! 今何時だと思ってやがる!?」
「ぐえぇ……」

 胸倉を掴まれて苦しそうにしているが……十中八九演技だろう。実際、佳樹は本当に苦しくなるほど絞めている訳では無い。

「あんだけ遅れるな、って言わせておいてこれか!?
「いや待って、聞いて。歩道橋で大量に荷物持ったお婆さんがいてさ。その人を手伝ってたら……」
「んなベッタベタな言い訳が通用するとでも思ってんのか!!」
「わ、ワンチャンあるかなって……」
「あるわけねぇだろ……」

 怒りを通り越して呆れ果てた佳樹は、頭痛を抑えているかのように頭に手を当てている。

「高血圧? 駄目だよ、食生活はちゃんとしなきゃ」
「お前ちょっと一回殴らせろ」
「どうどうお爺ちゃん。怒るとまた血圧上がるよ~?」
「八重代も便乗するな!! マジで頭の血管が切れそうだ……」

 佳樹が怒り、莉緒がからかい、奈央がそれに乗っかる。その鮮やかなチームプレーは、傍で見ていた奏をも驚嘆させる程だ。……まぁ、無関係を装う事も出来ず、苦笑いを浮かべる事しか出来ない状態になっているだけなのだが。

「怒り狂う逸原は置いておいて、早速行こうよ」
「誰のせいだと……」
「どうどう。だから、保泉んにそんな事言っても無駄だって言ったじゃん。極度のマイペースと、自分の世界に生きる不思議ちゃんなんだから」
「それはそれで酷くねぇか……?」

 奈央も奈央で今日も言葉の刃の切れ味は絶好調と言ったところだろう。流石に見かねた奏が声をかけるまで、莉緒の生活スタンスに対する議論が止まる事は無かった。

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