気分は下剋上 アメリカ学会編

こうやまみか

10

「教授、肩に糸がついています」
 というのはもちろん嘘で、密着するための方便だった。
「そろそろ、抜け出しますが、ラインで居場所を送ります、ね」
 存在しない糸くずを指でそれらしく掴みながら薄紅色の耳朶みみたぶにそう囁いた。
 最愛の人は若木のような肢体が微風そよかぜに吹かれたような感じでわずかに傾いだ。
 了解と怜悧でいながら艶めいた眼差しで送ってきた。
「では、教授を始めとして医局の皆様のご期待に添うように頑張って参ります。このような壮行会まで開いて頂きまして本当に有り難うございます」
 わざとらしく腕時計を見ながら大きな声で辞去の挨拶をした。
 万雷の拍手と「頑張れ!」とか「土産期待しているぞ」とかの和やかな声が会議室に響き渡った。アルコールは一滴も入っていないのに、何だか皆の盛り上がりはアルコール摂取をした人々のようだった。
「では、田中先生の学会の発表の成功と、次に遠藤先生を呼んでもらうミッションが成功することを祈って一本締めでお開きと致しましょう。
 なお、この会場はこのまま好きなだけ使えますので、時間が有る方は引き続き歓談をお愉しみ下さい。
 教授が腹黒タヌキ……もとい偉大なる斉藤病院長に呼ばれているのは残念ですが、それは次の機会にご期待下さい」
 最愛の人が薄い唇に淡い苦笑いを浮かべている、そして僅かな罪の意識めいたものも。
 嘘も方便だと割り切っている祐樹とは異なり、良心の呵責かしゃくを覚える最愛の人の律義さも愛おしい。
「祐樹、待ったか?」
 JRの改札口に現れた最愛の人は何だか一泊程度の出張に向かうエリートサラリーマンといった風情だった。着ているスーツは「色々店舗を回るのが面倒だ」という合理主義と教授職として無難なブランドという二点から凱旋がいせん帰国からずっと同じフランスの名だたる老舗のを利用しているのは知っている。
 ただ、出勤時の手荷物は少ないので――日によっては手ぶらということもある――少し不審に思った。
「いえ、そんなに待っていませんよ。私が着いたのは約4分前ですから」
 最愛の人は、安心したように頷いた。
「では行こうか?祐樹もそのスーツとても良く似合うな……」
 涼しげな眼差しが感嘆の色で煌めいていた。
「ええ、他ならぬ貴方のセレクトですからね」
 ちなみに黒のスーツに白いワイシャツ、そして赤を基調にしたネクタイという出で立ちだった。
 すると。

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