雷鳴

増田朋美

雷鳴

私は、本当に雷が嫌いだ。あの音の大きさと言い、稲妻の気持ち悪さといい、何といい、本当に怖くてたまらない。特による雷が鳴れば一層の事である。
最近は、電化製品も電気を使う物が多く、落雷によって、すべて壊れてしまい、使えなくなる電化製品も多い。すぐに新しいものを買える家庭ならまだいいが、私の家のように、経済的に貧しい家はどうしたらいいのだろう?事実、私の家にある液晶テレビは、三年前の台風で壊滅したがまだ、新しい物を買うということができないでいる。なので、テレビは見ることができず、パソコンなどをテレビ代わりにして、私は楽しんでいる。
こんな生活で、ずいぶん貧しい生活をしていると思われるが、私はテレビのない生活が結構好きである。テレビは、例えばよほど大きな災害があって、画像が必要なときとかに使う道具、程度で丁度いい。ニュース何て、私たちが知らないでいいことが多すぎる。そんなこと、私たちが知って、何になるのだろうか?という事が非常に多い。例えば殺人事件をしらせるワイドショーなどはその典型例であり、殺人犯の経歴などを映画のように報道されても、私たちの生活に直接かかわってくるのではない。天気予報にしても、防災意識を高めるにはいいのかもしれないが、その程度で十分である。それ以上、余分なことはいらない。花粉情報や、遅霜予報などは、アレルギーの人、茶農家の人、それぞれ専門的にアプリでも作って、配信するようにすればよいと思う。すべての人に見せる必要はまるでない。天気予報は、そういう余分なことばかり放送し、いわば「予知夢」に近いものにさせてしまっている。事実天気予報をみないで外出すると、テレビをみなかったのか、なんて、馬鹿にされる可能性も高く、そうなると、テレビがないという事で劣等感を感じさせてしまう。
野球中継がみたいのなら、その野球をしている場へ見に行けばよい。コンサートに行きたいのなら、コンサート会場にいけばいい。たとえ入場料が高くとも、それを入手するために汗水垂らして働けば、そのほうがより感動は大きいだろう。そのほうが、より、野球やコンサートを楽しめるだろうし、経済的にも潤うのではないか。テレビの映像から、間接的に楽しんでも、せいぜいBGM程度で、何も楽しくはない。
ただ、テレビドラマというものがある。また映画とは違うのだが、テレビをとおして人間模様を描くものだ。かなり前から多くのテレビドラマが作られているが、このテレビドラマも今は劣化してしまっているのではないかと思わざるを得ない。およそ、恋愛とか、刑事ものとか、実生活にはまるで役に立たないものばかりがテレビドラマ化されてしまっている様に思う。大体のテレビドラマは、基本的にどこの局でやっている物も同じような結末を迎えてしまうことが多く、そこで残念に思えてしまう。
そうではなく、テレビドラマをもっと、個性的にしたらどうだろう。すべてハッピーエンドで終わらせるのではなく、バッドエンドでもいいから、それぞれの局によって全く違うものを作ってほしい。すべて同じではなく、登場人物の境遇や設定などをもっと多種多様にすること。これをテレビには使用してほしい。映像ほど、若い人たちにとって大きな刺激はなく、この中に何かしら「教訓」が含まれて入れば、テレビは素晴らしい道具になるのではないかと私は思う。勧善懲悪でなくてもいい。悪人にやっつけられておしまいでも構わない。というのは、現実世界はどうしても悪人のほうが勝るようにできているのだし。肝心なことは、そこからどう生きていくのか、を若い人が見つけていくことだと思う。もちろんテレビは娯楽道具という事も多少は理解できるが、せっかく映像を流すという素晴らしい技術がある以上、どう生きていくかの具体例が、示すことができるというのが、テレビの最高の長所であり、最も欠けている部分だと思う。
例えば、朝ドラというものがある。一人の女性の少女時代から、青年期、老年期までを描くものであるが、そもそもなぜ女性なのか。男性でもよいのではないか?勿論私自身も女性なので、女性がまだ活躍できなかったころに頑張るヒロイン像というのは多少理解できるのだが、男性であっても、苦労した人物はたくさんいる。それに、例外もある事にはあるが、朝ドラのヒロインは、大体家族に恵まれすぎるほど恵まれていることが多い。しかし、現実はそうとは限らない。そういうヒロインばかりではなくて、例えば親からの虐待などから立ち直った女性を主人公にしてみたらどうだろう?きっと多くの視聴者から反響が出てテレビはさらにおもしろくなると思う。また、主人公は大体商売人になることが多いが、それ以外の職業も取り上げてみたらどうだろう?こんな生き方もあるよ!とテレビが示してくれていれば、もう少し、生き方で悩む若い人たちの苦悩も減るかもしれないのだ。
また、多くの文学作品が次々にテレビドラマ化されているが、それはやめた方がいいと思う。文学は、映像の原案になるものではない。文学は動画ではないので、主人公やそれにまつわる人物の心情を十分に表現することができ、其れから読者が教訓を得るという素晴らしい利点があるからだ。矢鱈映像化してしまっては、それを読みとった時の感動が失われ、文学はただのテレビドラマの下地に過ぎないものになってしまう。
このように、日本のテレビ番組はまだまだ問題点が多い。テレビの持つ、「本当の力」をもう一度考えてほしい。テレビは、文学と違い、人物の感情や、心の動きを表現することはできない。でも、映像として「人生の具体例」を示すことは可能である。テレビと文学をしっかり切り離し、今一度、テレビの役割を、再考する時代がやってきているのではないだろうか。
今日もまた、雷鳴が聞こえる。たぶん、とどまることを知らない私たちの文化を、一度破壊して原点に戻させようと、誰かが雷鳴を起こしているのかもしれない。

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