ある男の年末セレナーデ

七月夏喜

その2




 窓の外から朝日が差し込んできた。今日も良い天気だ。定時の出かける時間まであと一時間。沸いたお湯で熱いお茶をいれる。湯気が立ち上った。口に含むと、苦みの効いた味が喉元まで広がる。


 小鳥のさえずる声が聞こえていた。


 この小鳥と自分もさして変わりがない。いてもいなくても今日という日はやってくる。時間だけは皆に平等に与えられているのだ。


 昨日の残りのおにぎりを朝食代わりにして食べる。現場の近くのたばこ屋のおばあさんが「寒いのに大変」と、缶コーヒーとおにぎりを差し入れしてくれたのだ。


 一口お茶を啜る。吐く息が白い。


 男は立ち上がり、身支度をし始めた。今日は冷え込んでいる。中にセーターを着込み、交通警備の制服に着替えた。マフラーを首に巻き、外に出る。凛とした冷たさだ。


 この時間だから仕方がないが、人や車の往来はまばらだ。確かに大晦日なのだ。みんな帰省してしまったのか。空を見上げると、先ほどまで明るかったのが、曇ってきていた。このまま冷えていくと、今晩は雪が降るかも知れない。


 男はコートの襟を立てた。地下鉄の駅に向かい、現場までの切符を買う。もう現場には十二月から通っていた。改札の年輩職員とは顔なじみになっていたが、話したことはない。軽く会釈し、改札を通る。


「あんた、郷里くにには帰えらんのかね」


 突然に質問が飛んできた。


 いつ、そんな声を掛けられてもおかしくなかったろう。男ははにかみ、首を横に振った。


 男に郷里はないという訳ではない。ただ家族と死に別れて以来、中学卒業まで親戚にやっかいなった。義務教育を終えるとその里を出て、転々としてきた。この場所には長く、三年居る。


「そうか」


 改札員はある意味、事情の想像をしたらしかった。


 どう想像したのかわからないが、それでいい。説明など時間の無駄だからだ。


 電車がホームに入ってきた。男は急いで階段を掛け降りていった。









 昼間になると朝と違って、人や車が多くなった。明日の準備のためかだろうか。みんないつもより急いているようだ。人がまだこんなにも居たことに驚いた。今日はみんな家から出てきているに違いない。男は苦笑した。ざわざわとした雰囲気が物々しさを語っている。


 昼の休憩のために現場近くのコンビニで弁当を買い、折り畳み椅子を広げて座った。近くにはドラム缶の中で暖を取るための焚き火が燃え盛っている。熱いお茶を飲み、一息つく。やはり風が冷たく気温も下がっているようだ。今日勤務しているのは、交通整理係としては三人だ。いつもの従業員は昨日までで、年末年始の休暇となっている。きっと里帰りしているに違いない。仕事が三十日に終わるや否や、飛んで帰っていったからだ。来年の四日に逢えることだろう。


 今日の三人は言わば、この正月に何処にも行くあてがない者だ。結構同年齢だと思う。若い人たちはこんな寒空の下で仕事をすることを好まないだろう。


 パチパチと火の粉が音を立てて舞い上がる。燃え上がっていく煤を見つめながら男は、どこまでも遠くを見ていた。ビルの谷間でカラスが鳴いている。男はもう一口、冷えかかっているお茶を啜った。


 午後になると一層車が増え、交通整理も忙しくなった。いよいよ年末であるという気分が高まる。買い物姿の家族連れが、前を通り過ぎていく。工事も午後三時頃に終わる予定だ。それ以降は、警告灯だけがネオンのように点滅する。意外なことにこの景色は、空港の誘導灯のように見えるから面白い。


 突然クラクションが鳴り響いた。


 振り返ると、人が通り過ぎているのに、無理に通ろうとしている車がいる。男はため息を吐いて、誘導灯を振り回した。大晦日という日が、先を急がせ、皆を苛立つかせる。男は手際よく間合いを取り、頭を下げて、うまく双方を宥めた。こんな日に嫌な思いもしたくない。


 皆、平穏無事に新年を迎えた方が良い。男は細く微笑んだ。その顔は車の者も道行く者も気づかなかった。


 日が陰り始める。この時分はニ時ぐらいが一日のピークで、その後は次第に日が陰り、冷えを伴って暗くなるのも早い。日の終わりを伝えてくるようで、もの寂しさが募ってくる。


 カラスが鳴いた。ビルの谷間にたむろしているそれらは、何処から来て、何処に帰るのか。そもそも帰る場所などあるのか。


 生まれた事は生きることであり、生きる為に何をすべきか。彼らはわかっている。人が煙たがるカラスは生きているのだ。生きるために餌を食べれるときに採っておく。食べられない時もあるのだ。何日も。何も出来なければ、後は死が待っているだけだ。誰も助けてはくれない。人は生きることが保証された上で、快楽を求めている。死がないから、生きる実感を得るためにイベントを持っているのだろうか。






4


 四時を過ぎ、もう辺りは暗く、寒さも厳しさを増した。何気に男は空を見上げる。まだ降ってはいない。現場の班長が男たちを呼ぶ。三人が焚き火のそばに集まった。パチパチと音を立てて、薪が燃え盛る。暖かい炎が顔を火照らす。


「えー。今日の勤務、ご苦労さまでした。本日の給金を支払います」


 班長はそう言うと、一人一人に茶封筒に入った給与袋を手渡した。


「それと、はいこれ」


 彼はコンビニの袋から取り出し、小さい清酒パックを配った。


「みなさん。来年も怪我がないように、またここで一緒に仕事しましょう。よいお年をお迎え下さい」


 照れくさそうに若い彼は言った。男は最後に何故か配った清酒を見入っていた。酒も煙草もしない者にとって、これはたいしたものではない。しかし、このちょっとした気遣いが嬉しく、このような日もあってもいいと男はひとりごちした。


 ふと清酒に白い綿が付いて、まもなく消える。また付いたものが雫になっていった。空を見上げると、幾つもの大きな綿雪が男の顔に張り付く。






 街に雪が降り始めた。



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