キノは〜ふ!

七月夏喜

第1話 キノとマコ、突然登場! その1

 気がつくと空中を漂っている。白い霧のようなものが頭の頂点から足先に至るまで、体全体に取り巻いていた。目の前に光るものが浮かんでいる。

『ガンバれ……』

 幼い声が聞こえた。小さな手が伸びてくる。僕は思わず、その手を掴んだ。
 ここからが、全ての始まりだったのかもしれない。






 罰を受けるとしたら、それは突然なのか。そしてとんでもなく大変なことなのか。『奇跡』とか『悪夢』とかなんて、それまでずっとないと思っていた。ちょっとした悪戯程度はあったかも知れない。だが、少なくとも人様に迷惑を掛けるようなことなんてしなかった。
 だが今、突然にその平凡は去っている。降りかかって来たこの一大事は、『奇跡』なのか『悪夢』なのか。

「一体僕が何をした? 気がついたらこうなっていた? いつ? いつからか? さっき? 数十秒前?」

「おい! まだかよ! 早くしろよ!」

 扉を激しく叩く音がする。ここは男子トイレの中だ。便器が目の前にある。彼はこの星白学園に転校して初日だった。校門を入った直後、突然に吐き気がしてここに駆け込んだのだ。
 扉を叩く音が激しくなる。

「どうしちまったんだ、僕は……」

 扉にもたれながら頭を抱えた。ストレートで艶のあるクリーム色の細長い髪が、手から滑り落ちていく。明らかに今までと違う髪質に手が止まった。髪の長さは肩、いや手首まである。

「なっ! 長い!?」

 現状を把握したいのだが鏡がないのでわからない。ただ状況的に、このまま出ていけないのは確かだ。

「一体どうしたんだ?」

「いい加減に変わってくれ!」

 扉の向こう側には苛ついた男子がいる。

「出ていきたいのは、やまやまだけど……。」

 いきなりの絶体絶命の展開に対処方法を見つけられずにいた。

「あっ!?」

 目の前にスカートが現れた。さっきまで学生ズボンだったはずだった。

「何が起こっているんだ!? 夢か、これは夢かぁ!」

 揺れるスカートから、細長い色白の脚が露出してる。同時に胸の辺りの感触が明らかに違って迫り出してきている。恐る恐る両手で鷲掴みにすると、それは柔らかった。

「ひいぃ!」

 狭いトイレで仰け反り、扉で頭を打つ。
 そしてこれ以上無い最大の変身劇が襲う。彼は股間の違和感を覚え、手を当てた。

「はう!」

 涙が頬を伝っていく。それまで慣れ親しんだ『男』が忽然と消失していたのだ。

「そんな……、最悪だ。こんな急速な展開なんて、絶対ない」

 しばし呆然とし彼は沈黙する。

「まずいぞ……。泣いている場合じゃない」

 今度は額に汗が滲んでいる。

「もう、だめ……だ。てめぇ覚えていろよ」

 外の声が途絶えた。手をそっとノブに掛ける。

「ほそ!」

 叫んだ。明らかに手首や指が細くなっていた。ゆっくり扉を開け、頭だけ出して辺りを監視警戒する。トイレ内には誰もいなかった。先ほど執拗にノックしていた男子も違う場所にでも行ったのだろう。

 一息ついた。周囲に更に警戒を強めて出てくる。

「ど、どうなっている?」

 ゆっくりと洗面台の鏡に近づいた。

「うそ……」

 そこに写っていた者は、『男』ではなかった。『女』がそこにいた。

「自分の顔ぐらい知っている、見間違うなんて無い」

 手で頬をつねる。その手は鏡の女の頬をつねっていた。

「僕か? 突然、女になったのか!?」

 しかもただの『女』ではなかった。良く見ると端正な顔立ち、細い顎、白色の肌、長い睫毛に大きな透き通った目。クリーム色のストレートで細くしなやかな長い髪。しばらく鏡を見ていて、心を奪われる。

「なんて綺麗で、可愛い……」

 魔法にかかったように、鏡から離れられなかった。彼の指先が鏡に吸い寄せられる。鏡を触ろうとした瞬間だった。トイレの出入口に人の気配を感じた。

「キノ、ここにいるの?」


 キノ。僕はキノだ。今呼んだのは、幼なじみのマコ。


 マコが小さい声で呼んでいる。

「マコ、ここ。男子トイレの中……」

「早く出てきて」

「ちょ、ちょっと、ヤバイんだ。今出ていける状態じゃない」

「いいから早く出てきて」

 キノは、『女に変身した男』をどうやって説明すればいいのか、わからない。素直に状況だけ見ると、女装している変態がそこにいるだけた。

「今出てこないと他の男子が来ちゃう」

「マコ、今の僕の状態は、とんでもない状態になってる」

 マコは出入口の角から、様子を覗こうとしていた。廊下から声が、近づいてくる。

「男子が来たわ。キノ、早く出てきて!」

「でっ、でも……、とにかくこんな姿見せられない。だって、スカートだし」

「もう! 男でしょ!」

 マコは決死の表情で、男子トイレに入ってきた。

「わあぁあ! 見ないで!」

 キノは右手で顔、左手で大腿部を隠す。

 マコの動きが止まった。彼女の瞳が、キノに釘付けになっている。キノの顔は真っ赤だ。まるで裸を見られているようだった。

「こ、これは何かの間違いで……、いやこんな格好しているのは、変態でも何でもなくて……、いっ、いや、その、これには深い訳があって……」

「綺麗……」

 彼女の黒い瞳が、爛々と輝いている。この目は蔑んでいるのではなく、むしろ憧れに近かった。

「ええ!?」

「思ってた以上だわ、この姿は……」

 マコが両肩を持って、クルリと一回転させる。

「ヒャッ!」

 スカートが翻がえらせてキノは立ち止まり、マコの正面を向いた。

「マコ、こんなになった僕を見て、何故驚かないの? 思ってたって、どういう事?」

 キノは何だか訳がわからず戸惑っている。

「凄く、驚いているわ。まさか、こんな素敵で綺麗だなんて」

 マコは頭頂から足のつま先まで見て、微笑んだ。

「おっ、おんなー!」

 入ってきた男子が、思わずトイレで叫ぶ。

「キノ、行くわよ」

「うっ、うん」

 マコはキノの袖を取ってトイレから出た。一人の男子にマコはぶつかり、跳ね返ってキノに跳ね返る。キノの細い腕がマコを抱き止めた。
 キノの方がマコよりも背が高い。並ぶと丁度、唇がマコの頭になる。キノが抱き止めると、彼女の髪が鼻に触れた。キノの心臓の鼓動が高まる。こんなにも近くで、マコと接したのは初めてだった。彼女の髪の匂いが、ほのかに香る。

「早く!」

 マコはキノからすぐに離れると、体制を立て直し急いでその場を脱出した。男子が驚いて避け、二人は小走りしながら、廊下を走り出す。

「マコ、スカートって動きやすいけど、スースーして、股間が寒い」

 ゴチンとマコがキノの頭をぶった。

「もう! 男って!」


 程良く離れると、二人は立ち止まって、大きく息を吸う。すれ違う生徒たちが、何度も振り返った。

「マコ、どうして僕を見ても平気なんだ?」

「しっ!」

 マコは人指し指を立てて、キノの小さい艶のある唇に当てた。

「これは、あなたと私しか知らないのはず」

「ふぁい?」

 まだキノの唇に、マコの指が触れている。

「あなたが男だったってことを知っているのは、私しかいないってこと」

「男だったんじゃなくて、今でも男だ」

 ようやく指を外す。

「黙って。みんなが変な目で見るわ。あまりそのことを言っちゃダメよ。変態になるから」

「あう」

 周囲からは、じっとしていても、二人は目立っていた。

「おい、あの子たち誰だよ」

「マジ、可愛い」

「誰、どこのクラス?」

「スタイルいい」

「ほそーい、髪も綺麗」

「あの子、転校生?」

 囁かれる言葉にキノは耐えられない。顔が真っ赤だ。マコもため息が出る。

「でも、ちょっと目立っているかも」

「目立ちすぎだよ、僕ら。学校でくっつき過ぎだって」

「キノが目立ってんのよ。それに今は、男と女がくっついるわけじゃないのよ」

 マコは窘めた。

「そうか。女同士か」

 納得し、そしてキノは頭を垂れた。

「女かぁ……」

「とにかく今日は頑張って、一日過ごさないと」

「この格好で?」

 キノはスカートをつまんで、ヒラヒラと振る。マコはその手を払った。キノは不機嫌でつまらなさそうな顔になる。

「そう。女の子みたいに、しおらしくするのよ。男みたいに乱暴なのはダメよ。みんなから変な人と、思われないようにね」

 マコは念押した。

「今でも十分、変だよ」

「おい! 君たち。早く入りなさい」

 教室の扉が開いて、担任教師の声がする。二人はいそいそと、教室に入った。

「本日からの転校生だ」

 一斉に歓声と溜め息が教室を充満させる。担任教師は眼鏡を何度も掛け直して2人を凝視した。

「ありゃ? 女子2人だったかな?」


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