異世界ヤクザ -獅子の刺青を背負って行け-
第70話/Cat
第70話/Cat
夜の事務所には、俺だけが残されていた。
「……あら、ユキ。まだ起きてたの?」
「ん?ああ、アプリコットか」
一人ソファに座る俺の所へやって来たのは、キャミソールにガウンを羽織ったアプリコットだった。
「どうしたんだよ。眠らないのか?」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「ははは。俺は今日は、特になにもしてないからな。疲れたのはきみの方だろう?」
「ん~、まあそうだけどね。気疲れというか、精神的に堪えたわ」
精神的……肉体的には、そんなにということか?男一人をねじ伏せたはずなのに?
俺はアプリコットをまじまじと見つめた。見たところ、体に傷はない。本当に怪我一つなく、あの場を切り抜けたのか……
「えっち」
「え……あ、いや、そうじゃないぞ!」
俺の視線に気付いたアプリコットが、半目で俺を睨んでいた。
「……あはは、冗談よ。わかってるわ、どうやってラミーの口を割らせたのか、でしょ?」
「……!」
ずばり、だった。やはり彼女は、ひどく頭が切れる。
「気になるわよね、分かってる。ちゃんと教えるわ……けどね、正直言うと、あんまりいい手段じゃないの。あんたやウィローみたく、豪快でもなければ、かっこよくもないわ」
「……別に、無理に言うことはないぞ。きみが嫌なら」
「ううん。隠し事はしたくないの。特にユキ、あんたにはね」
アプリコットは深く息を吸うと、キッと俺を見つめた。
「だけど、見たいと言った以上、責任はとって。絶対、目をそらさないでちょうだい。どんなものであっても」
「……わかった、約束するよ」
アプリコットはにこりと微笑むと、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
「……?」
アプリコットが俺の目の前に立つ。刺青を見せてくれるのか?
……あれ。その時になって思い出したが、アプリコットと初めて出会った時、俺は裸の彼女を見てるじゃないか。そしてその時、彼女の背中はおろか、どこにも刺青なんかなかったぞ……?
「えい!」
バサ。
アプリコットが、キャミソールの裾を思いっきりまくり上げた。
……え?
「どわ!ななな、なにを!」
「目をそらさないで!ちゃんと見るっていったでしょ!」
ぐっ。確かにそう言いはしたが……
アプリコットは軽くうつむいて、上目がちな目で俺をにらみつけた。ふーふー息をする彼女の手は、心なしか震えて見える。
「……お願いよ。その後だったら、どんなに嫌っても、気味悪がってもいいから。見もしないで、そんなこと言うのはやめて」
後半の言葉は、俺というよりは、過去に語り掛けるような口ぶりだった。
俺が逃げ出さないのを確認すると、アプリコットはさらに俺に近づく。そしてそのまま、ソファの上にのし上がった。
「お、おい……」
「黙って」
今や、彼女の股間が目と鼻の先にあった。下着に刻まれた細かなレースの模様までくっきり見える距離だ。
「いい?ゆっくり、ゆっくり右脚を見て。そう、その腿の付け根のところよ……」
俺は言われるがまま、そろそろと視線を向ける。
彼女の内腿、下着と肌の境目の所に、何かが刻まれてる。
刺青だ。複雑な模様で描かれた、猫の刺青がそこにあった。
「……っ!」
ドクン!
心臓がどくりと跳ねた。
体中の血が湧きたつ。顔から火が出るように、カーッと熱が集まっていくのを感じる。
「な、んだ、これ……」
沸騰する頭の中で、はっきりとわかることは一つだけ。
目の前の女性が、愛おしくて堪らないということだった。今すぐ抱きしめて、彼女を感じたい。彼女の愛を受けられるためなら、冗談抜きでなんだってやれる。
そして、それと同時に、耐え難い衝動が俺の理性を襲った。
目の前の彼女を無茶苦茶にしたい。彼女に欲望の丈をぶちまけて、彼女を汚してしまいたい。きっと彼女も許してくれる。それでこそ、彼女の愛を受けることができる……
「ハッ……ハッ……!」
俺は夢遊病者のように、ふらふらと手を差し伸べた。
目の前の彼女は、聖母のような慈愛に満ちた笑顔で俺を見つめてくれている。きっと俺が何をしたって、きっと彼女は受け入れてくれるだろう。
俺は彼女の絹のような肌に、手を這わせ……
「っ!」
……ようとした。
まて。俺は何をしているんだ。目の前の彼女は、俺のよく知る女は、そんな一時の劣情に流されていいような女だったか。
そうだ、彼女の名は……
「アプリコット!」
はじかれたように目が覚めた。
「……おどろいたわ。この刺青が効かないのは、あんたで二人目よ」
ぴょんと、アプリコットがソファから飛び降りた。キャミソールの裾を戻すと、ぽんぽんと手で整える。
「な、なにが……おこったんだ……?」
俺は全力疾走の後のように、ぜぇぜぇと荒い息をしていた。
「これが、あたしの刺青の能力。魅了の力(チャーム)よ」魅了の力(チャーム)よ」
チャーム?吸血鬼や夢魔が持つっていう、あれのことか?
「じゃ、じゃあ……俺は、それに掛かっていたのか?」
「そう。どうだった?あたしのこと、すっごく抱きたくならなかった?」
「だっ……!いや、それは……」
「あら、そうでもなかった?ふつう、一度この刺青に掛かったら、よほどのことが無い限り理性を失うんだけどね。あんたは自力で脱出できちゃったから、あんまり効かなかったのかしら」
襲い掛かる一歩手前だったとは、なかなか言いづらかった。あれは強烈だった……
「けど、これでわかったでしょ……あたしが、どうやってラミーの口を割らせたのか」
そうか。アプリコットは、この刺青を使ってラミーを倒錯状態にさせたんだ。
「猛烈な情欲と承認欲求でふらふらになった人間は、赤子も同然よ。手を捻るのなんてわけないわ」
だろうな。それに、あれは一種の催眠のような効果も持っているはずだ。アプリコットの頼みなら、なんだって聞いてしまうような……
「……汚いやり方でしょ。あたしはこうやって、何人もの人間をたぶらかしてきたの。そのくせ、自分の体は汚さないままでね」
「え……」
「驚いた?あたし、実は自分の体を売るようなことはしたことないのよ。たぶん処女じゃないとは思うんだけど、小さなころのことは覚えてないから」
「……」
「この刺青に掛かると、最終的には夢を見ているみたいになるの。相手は勝手に都合のいい夢を見て、目が覚めた時には勝手に満足してくれてるのよね。後はあたしが隣でおはようって言ってあげれば、一夜を過ごしたんだと信じて疑わないわ」
「じゃあ、チャックラック組は……?」
「ああ、ファンタンね。あいつはひどく用心深かったわ、さながら猫を恐れる鼠みたいに」
俺は、あの小太りの男の、痩せた鼠の刺青を思い出した。
あの時、ファンタンは言っていた。『ワタシは直接手を出してはいない』と……
「刺青のカラクリに気づいたのか、絶対にあたしの肌を見ようとしなかった。部下にあたしを痛めつけさせるだけだったの。けどその様子は必ず他の組員にも見せて、上下関係をはっきりさせてた。もし少しでも欲を出してれば、あの首に噛みついてあげたのに……食えない奴だったわ」
「そうだったのか……」
「この猫の刺青はね、相手が興奮してないと効果が薄れるの。自分から股を開いても、警戒されてちゃ通用しないわ。ほんと、どうしようもない力……」
アプリコットは俺の隣に腰掛けると、ひざの間に顔を埋めた。
「……勘違いしないでほしいんだけど。あたし、自分の体を使うのをとやかく言いたいわけじゃないの。むしろ、肯定的に捉えてるわ」
「……ああ」
だって彼女は、“風俗街のボス”だから。
「プラムドンナの子たちも、風俗街のみんなも、そこで働いてたルゥだって、否定する気はない。自分の体で稼いで、自分の魅力を武器にする。みんな好きでやってるわけじゃないかもしれないけど、生きるために一生懸命よ」
自分の性を売り物にする彼ら、彼女たち。その在り方を否定するのは、彼らの居場所を奪うことと同義だ。
「それをモラルだとか、常識だとかいう、恵まれたやつらが一方的に押し付けてくるクソみたいな価値観で!…………ごめんなさい、頭に血が上ったわ」
アプリコットは、ふーっと、長い息を吐いた。
「とにかく、あの子たちは立派よ。ちゃんと自分の体で、額に汗水たらして頑張ってる。けれど、あたしはどう?この呪いみたいな力で、一人だけ楽してる。一線を越えるのが怖くて、結局踏み出せずにいる臆病者よ。風俗街のボスが、聞いて呆れるわ」
「……アプリコット。そんなふうに自分を言うな」
「ううん……やっぱりあたしは、ずるい女よ。あたし、あのままユキが抱いてくれればいいのにと思ってた」
「ぃえ!?」
「そうすれば、みんなと同じになれるんじゃないかって……最低よね。ユキのことまで利用して」
「いや、なんというか……」
「しかも断られるし……」
「それはしかたないだろ!?」
俺は鼻の頭をぽりぽりかくと、ゆっくり口を開いた。
「アプリコット。きみは、在り方を否定するのは間違ってるって言いたいんだろ?」
アプリコットは顔だけ持ち上げて、こちらを見た。
「俺だって、ルゥやレットを否定する気はないよ。けど、ルゥが嫌だっていうなら、ルゥを風俗で働かせはしない。もし否定するなら、それしか選べない状況そのものが間違ってるんだ」
「……けど、それが世間一般ってもんだわ」
「そうかもな。だから、俺たちで変えていくしかないんじゃないか」
アプリコットは、なにも言わない。
「きみが自分を否定しちゃ、俺たちだって変われないだろ。だから、そんなことは言うなよ」
「……そうね、そうかもしれないわ」
アプリコットは、すとんと立ち上がった。
「もう少し考えてみるわ。いますぐぱっと変えられるような、かわいい性格してないから」
「ああ。知ってるよ」
「あら、ひどいわね」
アプリコットはくすくす笑うと、くるりと背を向けた。
「……あ、そうだわ。一つ聞きたいんだけど」
「うん?」
「あんたって、もしかして不能なの?」
「……」
すごい流れの変わり様だな。
「……なんでそうなるんだよ?」
「だぁって、こんないい女が誘ってるのに襲わないんだもの。それかすごい変な性癖とか?」
「バカ……俺だってギリギリだったさ」
「あ、そ、そうなの?……ふぅん」
アプリコットはなにかごにょごにょつぶやくと、ごほんと咳払いした。
「でも……結局、あたしも誰かに愛されたかっただけかもしれないわ」
「愛、か?」
「ええ。そういうのって、究極的な愛の形じゃない?」
「えぇ?そんな刹那的な……」
「そりゃ、全部が全部そうじゃないでしょうけど。あんたなら……ね」
……ん?それってどういう……
「ま、けど踏みとどまってくれてよかったわ!あんなだまし討ちみたいなんじゃ、のちのち後悔しそうだしね」
「ん、それはそうだな。ちゃんといい相手を見つけろよ」
「そうね。こんどは真っ向勝負で突き崩してあげるから、覚悟なさい。それじゃ、おやすみ!」
アプリコットはたたたっと二階へ駆け上がっていった。
……最後の会話、微妙に食い違っていたような気がするんだが、気のせいだろうか。
「……ん?」
かたん。小さな物音がした。視界の端に、ちらりと何かが映る。
今……誰か、いたか?そういえば、この前ここで幽霊じみたものを見たような……
「けど……」
さっきの人影、見間違いじゃなければ、ウィローに見えた気がしたんだが……?
つづく
夜の事務所には、俺だけが残されていた。
「……あら、ユキ。まだ起きてたの?」
「ん?ああ、アプリコットか」
一人ソファに座る俺の所へやって来たのは、キャミソールにガウンを羽織ったアプリコットだった。
「どうしたんだよ。眠らないのか?」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「ははは。俺は今日は、特になにもしてないからな。疲れたのはきみの方だろう?」
「ん~、まあそうだけどね。気疲れというか、精神的に堪えたわ」
精神的……肉体的には、そんなにということか?男一人をねじ伏せたはずなのに?
俺はアプリコットをまじまじと見つめた。見たところ、体に傷はない。本当に怪我一つなく、あの場を切り抜けたのか……
「えっち」
「え……あ、いや、そうじゃないぞ!」
俺の視線に気付いたアプリコットが、半目で俺を睨んでいた。
「……あはは、冗談よ。わかってるわ、どうやってラミーの口を割らせたのか、でしょ?」
「……!」
ずばり、だった。やはり彼女は、ひどく頭が切れる。
「気になるわよね、分かってる。ちゃんと教えるわ……けどね、正直言うと、あんまりいい手段じゃないの。あんたやウィローみたく、豪快でもなければ、かっこよくもないわ」
「……別に、無理に言うことはないぞ。きみが嫌なら」
「ううん。隠し事はしたくないの。特にユキ、あんたにはね」
アプリコットは深く息を吸うと、キッと俺を見つめた。
「だけど、見たいと言った以上、責任はとって。絶対、目をそらさないでちょうだい。どんなものであっても」
「……わかった、約束するよ」
アプリコットはにこりと微笑むと、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
「……?」
アプリコットが俺の目の前に立つ。刺青を見せてくれるのか?
……あれ。その時になって思い出したが、アプリコットと初めて出会った時、俺は裸の彼女を見てるじゃないか。そしてその時、彼女の背中はおろか、どこにも刺青なんかなかったぞ……?
「えい!」
バサ。
アプリコットが、キャミソールの裾を思いっきりまくり上げた。
……え?
「どわ!ななな、なにを!」
「目をそらさないで!ちゃんと見るっていったでしょ!」
ぐっ。確かにそう言いはしたが……
アプリコットは軽くうつむいて、上目がちな目で俺をにらみつけた。ふーふー息をする彼女の手は、心なしか震えて見える。
「……お願いよ。その後だったら、どんなに嫌っても、気味悪がってもいいから。見もしないで、そんなこと言うのはやめて」
後半の言葉は、俺というよりは、過去に語り掛けるような口ぶりだった。
俺が逃げ出さないのを確認すると、アプリコットはさらに俺に近づく。そしてそのまま、ソファの上にのし上がった。
「お、おい……」
「黙って」
今や、彼女の股間が目と鼻の先にあった。下着に刻まれた細かなレースの模様までくっきり見える距離だ。
「いい?ゆっくり、ゆっくり右脚を見て。そう、その腿の付け根のところよ……」
俺は言われるがまま、そろそろと視線を向ける。
彼女の内腿、下着と肌の境目の所に、何かが刻まれてる。
刺青だ。複雑な模様で描かれた、猫の刺青がそこにあった。
「……っ!」
ドクン!
心臓がどくりと跳ねた。
体中の血が湧きたつ。顔から火が出るように、カーッと熱が集まっていくのを感じる。
「な、んだ、これ……」
沸騰する頭の中で、はっきりとわかることは一つだけ。
目の前の女性が、愛おしくて堪らないということだった。今すぐ抱きしめて、彼女を感じたい。彼女の愛を受けられるためなら、冗談抜きでなんだってやれる。
そして、それと同時に、耐え難い衝動が俺の理性を襲った。
目の前の彼女を無茶苦茶にしたい。彼女に欲望の丈をぶちまけて、彼女を汚してしまいたい。きっと彼女も許してくれる。それでこそ、彼女の愛を受けることができる……
「ハッ……ハッ……!」
俺は夢遊病者のように、ふらふらと手を差し伸べた。
目の前の彼女は、聖母のような慈愛に満ちた笑顔で俺を見つめてくれている。きっと俺が何をしたって、きっと彼女は受け入れてくれるだろう。
俺は彼女の絹のような肌に、手を這わせ……
「っ!」
……ようとした。
まて。俺は何をしているんだ。目の前の彼女は、俺のよく知る女は、そんな一時の劣情に流されていいような女だったか。
そうだ、彼女の名は……
「アプリコット!」
はじかれたように目が覚めた。
「……おどろいたわ。この刺青が効かないのは、あんたで二人目よ」
ぴょんと、アプリコットがソファから飛び降りた。キャミソールの裾を戻すと、ぽんぽんと手で整える。
「な、なにが……おこったんだ……?」
俺は全力疾走の後のように、ぜぇぜぇと荒い息をしていた。
「これが、あたしの刺青の能力。魅了の力(チャーム)よ」魅了の力(チャーム)よ」
チャーム?吸血鬼や夢魔が持つっていう、あれのことか?
「じゃ、じゃあ……俺は、それに掛かっていたのか?」
「そう。どうだった?あたしのこと、すっごく抱きたくならなかった?」
「だっ……!いや、それは……」
「あら、そうでもなかった?ふつう、一度この刺青に掛かったら、よほどのことが無い限り理性を失うんだけどね。あんたは自力で脱出できちゃったから、あんまり効かなかったのかしら」
襲い掛かる一歩手前だったとは、なかなか言いづらかった。あれは強烈だった……
「けど、これでわかったでしょ……あたしが、どうやってラミーの口を割らせたのか」
そうか。アプリコットは、この刺青を使ってラミーを倒錯状態にさせたんだ。
「猛烈な情欲と承認欲求でふらふらになった人間は、赤子も同然よ。手を捻るのなんてわけないわ」
だろうな。それに、あれは一種の催眠のような効果も持っているはずだ。アプリコットの頼みなら、なんだって聞いてしまうような……
「……汚いやり方でしょ。あたしはこうやって、何人もの人間をたぶらかしてきたの。そのくせ、自分の体は汚さないままでね」
「え……」
「驚いた?あたし、実は自分の体を売るようなことはしたことないのよ。たぶん処女じゃないとは思うんだけど、小さなころのことは覚えてないから」
「……」
「この刺青に掛かると、最終的には夢を見ているみたいになるの。相手は勝手に都合のいい夢を見て、目が覚めた時には勝手に満足してくれてるのよね。後はあたしが隣でおはようって言ってあげれば、一夜を過ごしたんだと信じて疑わないわ」
「じゃあ、チャックラック組は……?」
「ああ、ファンタンね。あいつはひどく用心深かったわ、さながら猫を恐れる鼠みたいに」
俺は、あの小太りの男の、痩せた鼠の刺青を思い出した。
あの時、ファンタンは言っていた。『ワタシは直接手を出してはいない』と……
「刺青のカラクリに気づいたのか、絶対にあたしの肌を見ようとしなかった。部下にあたしを痛めつけさせるだけだったの。けどその様子は必ず他の組員にも見せて、上下関係をはっきりさせてた。もし少しでも欲を出してれば、あの首に噛みついてあげたのに……食えない奴だったわ」
「そうだったのか……」
「この猫の刺青はね、相手が興奮してないと効果が薄れるの。自分から股を開いても、警戒されてちゃ通用しないわ。ほんと、どうしようもない力……」
アプリコットは俺の隣に腰掛けると、ひざの間に顔を埋めた。
「……勘違いしないでほしいんだけど。あたし、自分の体を使うのをとやかく言いたいわけじゃないの。むしろ、肯定的に捉えてるわ」
「……ああ」
だって彼女は、“風俗街のボス”だから。
「プラムドンナの子たちも、風俗街のみんなも、そこで働いてたルゥだって、否定する気はない。自分の体で稼いで、自分の魅力を武器にする。みんな好きでやってるわけじゃないかもしれないけど、生きるために一生懸命よ」
自分の性を売り物にする彼ら、彼女たち。その在り方を否定するのは、彼らの居場所を奪うことと同義だ。
「それをモラルだとか、常識だとかいう、恵まれたやつらが一方的に押し付けてくるクソみたいな価値観で!…………ごめんなさい、頭に血が上ったわ」
アプリコットは、ふーっと、長い息を吐いた。
「とにかく、あの子たちは立派よ。ちゃんと自分の体で、額に汗水たらして頑張ってる。けれど、あたしはどう?この呪いみたいな力で、一人だけ楽してる。一線を越えるのが怖くて、結局踏み出せずにいる臆病者よ。風俗街のボスが、聞いて呆れるわ」
「……アプリコット。そんなふうに自分を言うな」
「ううん……やっぱりあたしは、ずるい女よ。あたし、あのままユキが抱いてくれればいいのにと思ってた」
「ぃえ!?」
「そうすれば、みんなと同じになれるんじゃないかって……最低よね。ユキのことまで利用して」
「いや、なんというか……」
「しかも断られるし……」
「それはしかたないだろ!?」
俺は鼻の頭をぽりぽりかくと、ゆっくり口を開いた。
「アプリコット。きみは、在り方を否定するのは間違ってるって言いたいんだろ?」
アプリコットは顔だけ持ち上げて、こちらを見た。
「俺だって、ルゥやレットを否定する気はないよ。けど、ルゥが嫌だっていうなら、ルゥを風俗で働かせはしない。もし否定するなら、それしか選べない状況そのものが間違ってるんだ」
「……けど、それが世間一般ってもんだわ」
「そうかもな。だから、俺たちで変えていくしかないんじゃないか」
アプリコットは、なにも言わない。
「きみが自分を否定しちゃ、俺たちだって変われないだろ。だから、そんなことは言うなよ」
「……そうね、そうかもしれないわ」
アプリコットは、すとんと立ち上がった。
「もう少し考えてみるわ。いますぐぱっと変えられるような、かわいい性格してないから」
「ああ。知ってるよ」
「あら、ひどいわね」
アプリコットはくすくす笑うと、くるりと背を向けた。
「……あ、そうだわ。一つ聞きたいんだけど」
「うん?」
「あんたって、もしかして不能なの?」
「……」
すごい流れの変わり様だな。
「……なんでそうなるんだよ?」
「だぁって、こんないい女が誘ってるのに襲わないんだもの。それかすごい変な性癖とか?」
「バカ……俺だってギリギリだったさ」
「あ、そ、そうなの?……ふぅん」
アプリコットはなにかごにょごにょつぶやくと、ごほんと咳払いした。
「でも……結局、あたしも誰かに愛されたかっただけかもしれないわ」
「愛、か?」
「ええ。そういうのって、究極的な愛の形じゃない?」
「えぇ?そんな刹那的な……」
「そりゃ、全部が全部そうじゃないでしょうけど。あんたなら……ね」
……ん?それってどういう……
「ま、けど踏みとどまってくれてよかったわ!あんなだまし討ちみたいなんじゃ、のちのち後悔しそうだしね」
「ん、それはそうだな。ちゃんといい相手を見つけろよ」
「そうね。こんどは真っ向勝負で突き崩してあげるから、覚悟なさい。それじゃ、おやすみ!」
アプリコットはたたたっと二階へ駆け上がっていった。
……最後の会話、微妙に食い違っていたような気がするんだが、気のせいだろうか。
「……ん?」
かたん。小さな物音がした。視界の端に、ちらりと何かが映る。
今……誰か、いたか?そういえば、この前ここで幽霊じみたものを見たような……
「けど……」
さっきの人影、見間違いじゃなければ、ウィローに見えた気がしたんだが……?
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