ダイバー

空空 空

始まりの空

 体が質量を失ったようにふわふわしている。温度も感じない。ただ足の裏の硬い地面の感覚だけがはっきりとしていた。
 視界を埋め尽くすのは闇。
足元は路地裏と同様に、膝から下が濃密な闇に埋もれ、見えなくなっている。
 突然、雲の切れ間から太陽が覗く様に、光が差し込む。暗闇に慣れた目には少し負担だった。
 その光が照らし出すのは、半透明の六角形のプレートで作り出された床。
 そして......。
「イヅル......」
「来たんだな......」
また目が上を向く。
「ヒビキ」
「......?」
 乾いた、無関心を固めて作り上げた様な瞳がこちらを向く。
「ぼくの名前だよ......」
 イヅルは少し笑って、それから
「ありがとう......覚えたよ」
とだけ言う。
 いきなり軟化した態度に毒気を抜かれる。こう言うところが気に入らない訳だけど。
「じゃあ、僕はもう行くよ......」
 そう言いながら手をヒラヒラさせる。
「行くって......どこに?」
「すぐに分かるさ」
 そう言うイヅルの手には、いつの間にか、大きな鎌が握られていた。それこそ、ゲームでしか見たことが無いような代物だ。その鋭い刃は、触れただけで骨まで届きそうだった。
 言葉と大鎌の冷たく硬質な印象を置き去りにして、またイヅルは姿を消してしまう。あたりには青い粒子が埃みたいに、キラキラ輝いていた。
 一人になって、改めて辺りを見回す。
 どこまでも続く半透明の床。それ以外には何もない。まるで雲の上に居るようだ。
  つま先で床を蹴る。
まるでピアノの音みたいな、澄んだ高い音が鳴った。
 しばらく、床を蹴って遊んでいると、唐突に声が聞こえてくる。
「一度に......二人のダイバー......ですか」
 女の人の声だ。
 声の正体を探すが、見つからない。
 そんなぼくの困惑はどこ吹く風と、声は続ける。
「私は、女神ハイドランジア。この斜陽が照らす世界の守護者です」
「......女神!?」
「はい。今、この世界“プリント”は魔女の手によって危機にさらされています。どうか、ここを訪れた旅人、ダイバーには、世界を救っていただきたいのです。もし、それが出来れば、どんな願いでも叶えて見せましょう」
 理解の範囲を完全に超えていた。ぼくが信じてきた常識と全く噛み合わない。願いなんて急に言われても分からない。
 ただ......。
イヅルは魔女に挑むことを選んだ。それだけはなんとなく分かった。
 だったら、退く選択肢なんて、ぼくには無いのだった。
 「決まったようですね」
 ぼくが何も言わない内に、女神が応える。
「あなたに、精神基盤アーキタイプを与えます。それはあなたの心そのもの。魔女を倒せる唯一無二の道具です。その武器と共に、どうか私たちを救ってください」
 手のひらに、少しざらついた感触と、確かな重量を感じる。
 見ると、ぼくの右手には一振りの片手剣が握られていた。
 それは、どういうわけか木製で、刃もついてなく、それでいてやたらと重かった。
 二の腕の筋肉を震わせながら、自分の目の高さまで持ち上げる。
「これ......?」
「はい」
 何と言うか......。
「これって......別のに変えられないの?」
「アーキタイプは所有者の心そのもの。唯一無二です」
 とりあえず、水平に一度振ってみる。
「......」
 重さで、手のひらからすっぽ抜けそうだった。
 この使い勝手の悪さ......。なるほど確かにぼくの心だ。
旅人ダイバーよ。最後に名前を教えてください」
「ヒビキ......これがぼくの名前だよ」
 もう聞き飽きた自分の声で、もう聞き飽きた自分の名前を告げた。
「ヒビキ......どうか私たちに未来を......」
 その言葉と共に、体が光に包まれる。さっきの粒子と同じ、青い色だ。
 次第に強くなる光に、目を開けていられなくなる。足の裏の床の感覚も消失する。
 光が消えた時には、既に風を切る音が鼓膜を激しく揺らしていた。
 「これ......おち、落ちて......るぅぅぅう......っつぅ......!?」
 舌を噛んでしまい、無意識のうちに口が閉じる。のどの奥では声にならない「ん゛んっー」と言う声が情けなく溢れていた。
 目の端に溜まった涙も拭えないまま、ゆっくりと目を開く。
 光の残滓を纏ったぼくは、案の定落ちていた。
 アーキタイプを抱き抱え、空を見る。
 始まりの空は、ぼくの住む街とは、比べ物にならない量の星たちで埋め尽くされていた。
 

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