彼処に咲く桜のように

足立韋護

十二月二十五日(三)

 そのとき、公園にいた人々が徐々にざわめき立った。
 初めは無視していた誠司だったが、あまりにざわめきが大きかったために振り返る。そこには雪の日に不釣り合いな紺色のレインコートを羽織っている人物が立っていた。包丁を両手で持っている。


 その人物は目深に被っていたレインコートのフード部分を取った。見間違えるはずのない顔に、誠司とさくらは目を見開いた。


「御、影……?」


 御影言成は鼻息を荒くし、血走った目で誠司を睨みつけている。


「アァキィモォトォォ‼︎」


 突如こちらへと駆け出してきた。十メートル余りの距離を一気に縮めてくる。
 誠司は状況を整理するのに精一杯で、御影の突き出した包丁に反応できなかった。全てがスローになり、雪の粒が鮮明に見えた。
 視界の横から影が現れ、やがて視界全てを覆った。


────ドッという鈍い音で、誠司の意識は現実へ引き戻された。


 誠司の目の前に立っていたのは、両手を大きく横に広げたさくらだった。言成は呆然と立ち尽くしている。さくらの背後からでは状況が読み取れない。
 真横からさくらの胴体を見ると、包丁が腹部に突き刺さっていた。クリーム色のコートにじわりじわりと鮮血が滲んでいく。
 痛みに顔を歪めるさくらはその血を右手で触り、そして一歩、二歩と御影へと近寄っていった。そっと言成の頬に触れ、無理矢理に笑って見せる。


「ご……めんね……」


 さくらはそのまま膝をその場につき、傷口を庇うようにして横向きになってから、仰向けで倒れた。


「う、あ、あぁ……!」


 頬に血が付着した言成は、怯えながら走り去っていく。誠司と周囲の人々はただただ口を開けて状況を見守るのみだ。
 手足と口が動き出すのにそう時間はかからなかった。


「さ、さくらっ!」


 刺された時以上に出血していた。こんなときどうすれば良いか、頭の中で必死に考えを巡らせる。
 ふといつか保健室で見たポスターを思い出した。


「は、刃物は抜かず、刃物の周囲を……!」


 誠司は自らのコートを脱ぎ、その下に着ていた伸縮性のある長袖のティーシャツを脱いで、包丁の周囲に当て軽く押さえた。目に見えて出血の量は抑えることが出来たが、ずっとこのままというわけにもいかない。


「だ、誰か、誰か助けてください! 救急車!」


 しかし意外にも、こういう状況下ではなかなか勇気の一歩を踏み出す人間はいない。誠司は焦った。一人ではさくらを助けることができないとわかっていた。
 薄着一枚になった肌が寒い。しかし止血をやめるわけにもいかない。誠司の頭はすっかりパニックに陥っていた。


「あなた、救急車を呼びなさい。それくらいできるだろう」


 誠司の背後で老年の男性の声が聞こえてきた。傍観していた女性に指示を出しているようだ。背後から足音が近づいてくる。


「まさかまたこんな形で会うとは」


 誠司がちらと横を見ると、電車で不良と言い争っていた老人が難しい顔をして立っていた。


「助けてもらえませんか!」


 老人は腕捲りをし、手際良く応急処置を施していく。


「偶然にも私は医者だ、現役のな。見たところ傷口は深いが、止血出来ているようだ。救急車が来るまで保つな。君はそのままでいたまえ。私の病院で引き受ける」






────その後、救急車が来るまで何分とかからなかったらしい。俺がようやく時間の流れを認識し始めたのは、夜の十時過ぎだった。
 さくらの緊急手術が今もなお行われている。病室の前の長椅子に腰掛けてみたものの、することもなく、呆然と廊下の隅を見つめるのみだ。


 誠司は横に置かれていた鞄の中から、小さな箱を取り出した。可愛らしい包装紙に包まれたその箱は、誠司がクリスマスプレゼントとして用意したものだった。


「渡せなかったな……これ」


 この高場戸井たかばとい病院は老人の家系が運営している病院だそうで、運良くその院長があの老人であったらしい。正直、今の俺にそんなことをこぼす看護婦の気が知れない。
 最優先でさくらを運び込んでくれたが、生きるかどうかはまだわからない。
 どうして、こうなってしまったんだろう。


「さくら!」


 近くのエレベーターから、さくらの父親と母親の千春が血相変えて降りてきた。
 誠司の体は自然と動いた。床に正座し、深々と土下座した。


「さくらを守れなくて、ごめんなさい。さくらは、俺を庇って……止血はしたんですが……まだわからないようです」


 父親に怒鳴られ、叩かれるものと思ったが、父親は力なく椅子に座り込んだ。
 千春は瞳を潤ませながら、「誠司君のせいじゃない。だから謝らないで」と肩に手を置いて慰めた。




 結局、五時間にも及んだ手術は成功。さくらは一命を取り留めた。父親に「ひとまず今日は帰りなさい」と諭された。
 その後、院長であるあの老人が、さくらの両親をどこかへと連れて行っていた。


 帰りの道は知っていた。この高場戸井病院は新戸井駅からさほど遠くない位置にある。すでに外は明るく、昨日の雪が嘘のように晴れ渡っていた。それから数十分かけて、俺は家へと帰った。


 あらかじめ連絡を受けていたのか、葉月と正吉が出迎えてくれた。俺はひどい顔をしていたそうで、部屋へと付き添ってくれた。
 ベッドには放り投げてあった『不死の探偵』がある。それを手に握りしめながら、誠司は静かに眠りについた。

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