彼処に咲く桜のように
十二月二十五日
それから二日後。十二月二十五日、曇り。昼過ぎには身支度を済ませた誠司は髪型や身なりを気にしつつ、そわそわと自分の部屋の壁掛け時計を何度も確認する。
数ヶ月前までがらんとしていた部屋には、カーペット、折りたたみテーブル、座椅子など、少しずつ物が増えていた。
「今から出れば早すぎる……だがやることもない……」
気持ちを落ち着かせるために、学生鞄に入れていた『不死の探偵』を取り出し、適当にページをめくっていく。当時心揺さぶられていた言葉の数々に、今は何も感じない。
ふと物語終盤、主人公が放つ言葉に目が留まった。主人公の名前が初めて明らかになるシーンで、かつその瞬間に主人公が死ぬシーンでもあった。
『不死の探偵になる覚悟があるなら、俺の不死の力をくれてやる。ただしその代わり、ミゾルテの名と俺の思いを、志を継いでもらう。俺が死んだ後お前の中にそれは根付き続ける。心は人の全て。不死の力以上に役に立つ。
────よし、三代目の誕生だ』
不死の力は引き継げる特性を持っていたんだよな。そして、助手へとその力と思いを繋いでいく。『不死の探偵』とはそんな物語だ。
二代目ミゾルテはこの後すぐに不死の力の反動によって息絶え、助手であった男の三代目ミゾルテが物語を進めていくようになる。俺は二代目ミゾルテの哀愁漂う感じが好きだったため、そこから先のシリーズは読んでいない。
誠司がふと時計を見ると、家から出る予定時間を過ぎていた。『不死の探偵』をベッドに放る。焦りながらドタドタと部屋を飛び出し、玄関で靴を履き始めた。
「今日はデートかしら?」
足音を聞きつけた葉月が笑顔で見送りに来てくれた。
「はい、頑張ってきます」
誠司が振り向くと葉月は一瞬驚いてから、静かに微笑んだ。
「誠司君、顔が緩んでるわよ」
ハッとして自分の口から頬にかけて手を触れた。誠司の頬骨と口の端は自然と上がっていた。
誠司は意識して戻そうとするが、少し油断するとまたニヤついてしまう。
「良いのよ、笑っていても。誠司君、実は笑った顔のほうが可愛いんだから」
「そ、そんなことは……」
「ほら遅刻しちゃう! 行ってらっしゃいな」
「ああそうだった。行ってきます」
葉月へと一礼してから、誠司は斜め掛けの鞄の中身を確認して玄関から出て行った。
それを見送った葉月は、笑顔になりながら涙を流した。
「ほんと、成長して……。私ったら相変わらず泣き虫ね」
新戸井駅から戸井駅への一駅の間だけでも、待ち遠しかった。電車内には休みだからか多くの若いカップルが乗車していた。
車窓から見える雑多なビル群にも、その下を歩くごま粒のような人々にも、散々鬱陶しく思っていた日々が懐かしい。下を歩く彼らは今も生きている。あのビルも誰かが生きた証。どれもかけがえのないものだ。
そんなことを思っていたとき、体が横に揺さぶられた。急停止したようだ。車内にアナウンスが流れる。
「お客様にお知らせ致します。えー、この先を走る電車で人身事故が発生したため、現在確認作業を行っております。今しばらくお待ちください」
とんでもない時間に来てしまったな。時間に余裕を持っているから間に合うだろうが、こんなことならもっと早めに出ていればよかったか。
誠司がぼーっと窓の外を眺めていると、近くにいたカップルのうちの一組が苛立ち始めた。
「あーもう昼に予約してた店間に合わなねぇよこれクソ」
「はぁー? 人身事故とかマジ死ねよぉ。ってもう死んでるか」
「なにそれ面白っ! これ以上どう死ねってんだよ」
その真面目そうな見た目からは想像もできないような言葉を大声で発していた。誠司はチラと一瞥するのみで、別段睨みつけるようなこともない。そのカップルはいまだにそんな会話を続けている。
近くの席に座っていた白髪の老人が、カップルのほうへ顔を向けた。威厳のある顔立ちだ。
「君達、人が死んでいるかもしれないんだ。口を慎みなさい」
「はぁ? あんたには関係ないでしょ?」
「少なくとも、君達の会話を聞いていた周りの人達は、不快に思っているはずだ」
「どんな証拠があんだよ。ほら、誰も言ってこねぇだろ」
カップルの男のほうが老人へと詰め寄った。誠司はすぐさま近寄っていき、二人の間に割り込む。
「俺は不快に思いましたよ。それより、こんなに詰め寄って何かするつもりですか。場合によっては駅員を呼びますけど」
「はっ? 何もしねぇよ! 胸糞悪りぃな……」
カップルはブツブツと恨み言を呟きながら別の車両へ移って行った。
誠司が一息つくと、先程の老人が袖を軽く引っ張った。
「助かったよ。私も引き下がれなかったから、あのまま続けていたら拳を食らっていたかもしれない」
「いえ、不快に思ったのは確かなので」
「逆上してしまった人間は何をするかわからない。ちゃんと言わせておくれ。ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
電車が再び動き始めた。数分もしないうちに戸井駅へと着いた。
降りようとした誠司の隣に、先程の老人が立っていた。
「お爺さんも、この駅に?」
「ああ。仕事でね。ちなみに私は老けて見えるだろうが五十五歳。お爺さんと呼ぶにはまだ少し早い現役だよ」
「あ、そ、それは失礼しました」
誠司が車内の時計を見ると、待ち合わせ時間の三分前だった。老人を待たずに電車から飛び出し、小走りで構内を駆け出す。
改札の向こうにはさくらの面影が見え、足に力が入る。
数ヶ月前までがらんとしていた部屋には、カーペット、折りたたみテーブル、座椅子など、少しずつ物が増えていた。
「今から出れば早すぎる……だがやることもない……」
気持ちを落ち着かせるために、学生鞄に入れていた『不死の探偵』を取り出し、適当にページをめくっていく。当時心揺さぶられていた言葉の数々に、今は何も感じない。
ふと物語終盤、主人公が放つ言葉に目が留まった。主人公の名前が初めて明らかになるシーンで、かつその瞬間に主人公が死ぬシーンでもあった。
『不死の探偵になる覚悟があるなら、俺の不死の力をくれてやる。ただしその代わり、ミゾルテの名と俺の思いを、志を継いでもらう。俺が死んだ後お前の中にそれは根付き続ける。心は人の全て。不死の力以上に役に立つ。
────よし、三代目の誕生だ』
不死の力は引き継げる特性を持っていたんだよな。そして、助手へとその力と思いを繋いでいく。『不死の探偵』とはそんな物語だ。
二代目ミゾルテはこの後すぐに不死の力の反動によって息絶え、助手であった男の三代目ミゾルテが物語を進めていくようになる。俺は二代目ミゾルテの哀愁漂う感じが好きだったため、そこから先のシリーズは読んでいない。
誠司がふと時計を見ると、家から出る予定時間を過ぎていた。『不死の探偵』をベッドに放る。焦りながらドタドタと部屋を飛び出し、玄関で靴を履き始めた。
「今日はデートかしら?」
足音を聞きつけた葉月が笑顔で見送りに来てくれた。
「はい、頑張ってきます」
誠司が振り向くと葉月は一瞬驚いてから、静かに微笑んだ。
「誠司君、顔が緩んでるわよ」
ハッとして自分の口から頬にかけて手を触れた。誠司の頬骨と口の端は自然と上がっていた。
誠司は意識して戻そうとするが、少し油断するとまたニヤついてしまう。
「良いのよ、笑っていても。誠司君、実は笑った顔のほうが可愛いんだから」
「そ、そんなことは……」
「ほら遅刻しちゃう! 行ってらっしゃいな」
「ああそうだった。行ってきます」
葉月へと一礼してから、誠司は斜め掛けの鞄の中身を確認して玄関から出て行った。
それを見送った葉月は、笑顔になりながら涙を流した。
「ほんと、成長して……。私ったら相変わらず泣き虫ね」
新戸井駅から戸井駅への一駅の間だけでも、待ち遠しかった。電車内には休みだからか多くの若いカップルが乗車していた。
車窓から見える雑多なビル群にも、その下を歩くごま粒のような人々にも、散々鬱陶しく思っていた日々が懐かしい。下を歩く彼らは今も生きている。あのビルも誰かが生きた証。どれもかけがえのないものだ。
そんなことを思っていたとき、体が横に揺さぶられた。急停止したようだ。車内にアナウンスが流れる。
「お客様にお知らせ致します。えー、この先を走る電車で人身事故が発生したため、現在確認作業を行っております。今しばらくお待ちください」
とんでもない時間に来てしまったな。時間に余裕を持っているから間に合うだろうが、こんなことならもっと早めに出ていればよかったか。
誠司がぼーっと窓の外を眺めていると、近くにいたカップルのうちの一組が苛立ち始めた。
「あーもう昼に予約してた店間に合わなねぇよこれクソ」
「はぁー? 人身事故とかマジ死ねよぉ。ってもう死んでるか」
「なにそれ面白っ! これ以上どう死ねってんだよ」
その真面目そうな見た目からは想像もできないような言葉を大声で発していた。誠司はチラと一瞥するのみで、別段睨みつけるようなこともない。そのカップルはいまだにそんな会話を続けている。
近くの席に座っていた白髪の老人が、カップルのほうへ顔を向けた。威厳のある顔立ちだ。
「君達、人が死んでいるかもしれないんだ。口を慎みなさい」
「はぁ? あんたには関係ないでしょ?」
「少なくとも、君達の会話を聞いていた周りの人達は、不快に思っているはずだ」
「どんな証拠があんだよ。ほら、誰も言ってこねぇだろ」
カップルの男のほうが老人へと詰め寄った。誠司はすぐさま近寄っていき、二人の間に割り込む。
「俺は不快に思いましたよ。それより、こんなに詰め寄って何かするつもりですか。場合によっては駅員を呼びますけど」
「はっ? 何もしねぇよ! 胸糞悪りぃな……」
カップルはブツブツと恨み言を呟きながら別の車両へ移って行った。
誠司が一息つくと、先程の老人が袖を軽く引っ張った。
「助かったよ。私も引き下がれなかったから、あのまま続けていたら拳を食らっていたかもしれない」
「いえ、不快に思ったのは確かなので」
「逆上してしまった人間は何をするかわからない。ちゃんと言わせておくれ。ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
電車が再び動き始めた。数分もしないうちに戸井駅へと着いた。
降りようとした誠司の隣に、先程の老人が立っていた。
「お爺さんも、この駅に?」
「ああ。仕事でね。ちなみに私は老けて見えるだろうが五十五歳。お爺さんと呼ぶにはまだ少し早い現役だよ」
「あ、そ、それは失礼しました」
誠司が車内の時計を見ると、待ち合わせ時間の三分前だった。老人を待たずに電車から飛び出し、小走りで構内を駆け出す。
改札の向こうにはさくらの面影が見え、足に力が入る。
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