彼処に咲く桜のように
十一月十六日
昨日の曇天が嘘のように消え、空は清々しく晴れ渡っていた。雨風が温暖な空気を運んで行ったかのように、気温は秋から冬のものとなっていた。
教室にさくらの姿はない。担任の田場に聞いてみたところ、熱があるとのことだった。嫌な顔一つせず教えてくれたのには、さくらと付き合っていることと、誠司の最近の生活態度が間違いなく影響していた。
熱……昨日は元気だったのにな。ずいぶん前に体が弱いと言っていたが、大丈夫だろうか。
見舞い、行ってみるか。
放課後。薄暗くなった路地を誠司は歩いていた。その手には駅前のビルで購入したリンゴが二つ、ビニール袋にぶら下げられている。
「駅前、警察がずいぶん多かったが……」
久々に訪れたさくらの家からは、生活感のある明かりが漏れていた。二階まである一戸建てのごく一般的な家屋の表札には『大月』と書かれてある。
カメラ付きのインターホンを鳴らすと、スピーカーから大人びた女性の声が聞こえてきた。
「はい、どなたでしょう?」
「あ、あの、秋元誠司と申します。大月さくらさんが、風邪と聞いたので……」と誠司は買ってきたリンゴをカメラに見せつけた。
「あっ! あなたが誠司君ね! いつも話は聞いてるよ。今玄関まで行くからね!」
「あ、はい」
俺と知った途端に声色が変わった。
玄関から出てきたさくらの母親は、さくらをそのまま成長させたような、見目麗しい細身の女性であった。
「あらやだぁ、本物だ」
「あの、さくらさんは、平気ですか?」
玄関の奥をちらちらと見ていると、階段からカラフルな花柄パジャマ姿のさくらが降りてきたのを確認できた。寝起きなのか髪の毛はところどころ跳ね、段を降りるたびふわふわと上下している。
「あ、ちょうど良かった! さくら、彼氏さん来てる来てる!」
誠司と目が合ったさくらは、みるみる顔を赤らめていき二階へと駆け上がって行ってしまった。
何も声をかけられなかった誠司は唖然とした。
「あの子恥ずかしがっちゃってぇ。ほら、後追いかけて!」
「え、あ、いや……」
「ほら早くっ!」
母親に招き入れられた誠司は戸惑いつつも革靴を脱ぎ、二階へと駆け上がった。まだ厄介な父親は帰宅していないようだった。
二階には三つ部屋があり、その一つに桜の木のステッカーが貼られたドアを見つけた。間違いなく、この奥にさくらがいるという確信を得た。
「さくら、見舞いに来てみたんだ」
「……う、うんっ」
ドア越しに聞こえる声は、若干上ずっていた。
誠司はフローリングの床とドアノブを交互に見て、言葉を詰まらせながらさくらに話しかける。
「突然、すまない。昨日は元気だったものだから……。リンゴ、買ってきたんだ。お母さんに渡しておくから体調良くなったら食べてくれ。じ、じゃあ……また」
思えば、まだ体調が悪いのかもしれない相手に見舞いなんて、迷惑この上ないじゃないか。これだから慣れないことはすべきじゃなかった。
肩を落としながら階段を降りようとしたところで、背後からドアノブの捻る音が聞こえてきた。ドアの隙間から顔を見せたのは、まだ顔を赤らめているさくらだった。
「……少しだけ、部屋でお話ししよう?」
「部屋、良いのか……?」
さくらはこくりと頷き、ドアを開けっ放しにして奥に戻って行った。
階下に立つ母親のにやけ面に見送られながら、初めてさくらの部屋へと入った。部屋に入ってからドアを閉めると、何故だか余計に緊張する。
ふんわりとさくらの匂いが香ってきて、頭がクラクラした。
「適当なところ、座って良いよ」
さくらは木製のベッドの上に横たわり、淡い桃色の掛け布団で鼻下まで隠している。誠司がカーペットの上に座り、失礼を承知で部屋中を見回す。
桃色を基調とした甘い印象の部屋で、タンスの上には熊のぬいぐるみではなく、何故か木彫りの熊が堂々飾られている。
腰ほどまでの書棚には時代小説から絵本まで様々な種類の本が並べられていた。どの本がより夢想させてくれるか、悩んだ経緯が感じ取れた。
液晶テレビが一台。その横に学習机があり、机の上にはページを継ぎ足し過ぎたであろう過去の手帳が開かれている。
「手帳太すぎやしないか」
「貧乏性でね、古紙とかついつい継ぎ足したくなるんだ」
「俺も貧乏性だがここまではさすがにしないな……。それはそうと、体のほうは大丈夫か?」
「うん、もうだいぶ熱も下がったよ。昨日雨に濡れちゃって、それが原因だと思う」
「そうか……」
「リンゴ、ありがとうね!」
「ああ。元気そうで良かった」
さくらが、何の気なしに枕元のリモコンを操作してテレビをつけた。テレビからは夕方のニュースが流れ始めた。
「ニュース……そういえば今日の戸井駅辺り、やけに警察が多かった」
「何かあったのかな?」
ニュースから聞き覚えのある地名が流れたため、途中から内容が耳に入ってきた。
『────戸井駅周辺で、昨日夕方、三人の男女が通りすがりの男に包丁のような刃物で刺され、死傷する事件が発生しました。犯人は未だ逃走中で、警視庁は先月の通り魔事件との関連も調査しつつ、警戒態勢を強めています』
画面には被害者三人の名前が表示されている。
『死亡、斎藤亮治さん。
重傷、君島慶子さん。
軽傷、武藤達郎さん』
さくらはわざわざ体を起こし、その画面に釘付けになった。
「リョウジ……ケイコ……?」
「知り合いなのか?」
「かも、しれない……」
「今は警察官が駅前をウロウロしてるからまだ安全だろうが、さくらも登下校は注意しておくべきだ」
「……うんっ」
部屋にニュースの音声だけが流れる。話題がなくなったわけではない。さくらの知り合いが亡くなったことを知った誠司が、多少気遣って黙りこくったのだった。
「もし気になったなら机の上の手帳、見ても良いよ」
さくらが指差したのは、机の上にあった手帳だ。先程見つけたのを知っていたらしい。
さくらが「入院してた時の」と付け加えたことで、俄然興味が湧いた。
誠司は扱いに気をつけながら分厚い手帳を手に取り、さくらの顔を一瞥し、最初のページから飛ばしつつ中身を読み始める。
そこには今のさくらからは想像もつかないような、温かみのない文字が幼い字で刻まれていた。
『十九年。七月二十日。晴れ。
医者にかけと言われたからかき始めた。正直に今日の出来ごとや思ったことをかいたほうが良いらしい。あと、ぶあいそになっちゃうから、もっとにこにこしてって。もう笑い方もわすれたよ』
『十九年。九月一日。雨。
まどから見える私と同じ小学生たち。楽しげに歩いてる人たち。どうしてさくらはあそこにいないのかな。
今日本当は雨なんてふってない。だってさくらはここに閉じこめられてるのに、外の人たちは自由なんだ。だから雨にでもふられちゃえばいいと思った』
『十九年。十一月二日。晴れ。
ちりょうは気もちわるい。水を飲みすぎると、はだがふくれてくる。ちりょうを受けてるさくらも気もちわるい。気もちわるい』
『十九年。十二月二十五日。雪。
クリスマス。さくらに恋人ができる日なんてこないと思う。さくらはふつうじゃないから。ふつうじゃないなら、どうして生まれてきちゃったのかな』
『二十年。三月十五日。雨。
たん生日。生まれてきた意味もわからないのに、楽しいわけがない』
『二十年。四月四日。晴れ。
死んだらみんなにわすれられちゃうから生きるんだって、生きてわすれられないものをのこして死んでいくんだって、小説にかいてあった。
さくらは、わすれられたくない』
『二十年。五月二日。曇り。
たくさんの人達に迷惑をかけて、お父さんやお母さんを心配させて。でもわすれられるのはイヤだから、死にたくない。だから迷惑も心配もかける。悔しい』
「昔、こんなふうだったのか」
誠司の言葉にさくらは、自嘲気味に掛け布団を見つめ俯いた。
小学生からこんなにも真剣に人生や生き方と向き合っていれば、ある程度の理解があるのも納得できる。ただ、ここまで暗い性格だったのは意外だった。
教室にさくらの姿はない。担任の田場に聞いてみたところ、熱があるとのことだった。嫌な顔一つせず教えてくれたのには、さくらと付き合っていることと、誠司の最近の生活態度が間違いなく影響していた。
熱……昨日は元気だったのにな。ずいぶん前に体が弱いと言っていたが、大丈夫だろうか。
見舞い、行ってみるか。
放課後。薄暗くなった路地を誠司は歩いていた。その手には駅前のビルで購入したリンゴが二つ、ビニール袋にぶら下げられている。
「駅前、警察がずいぶん多かったが……」
久々に訪れたさくらの家からは、生活感のある明かりが漏れていた。二階まである一戸建てのごく一般的な家屋の表札には『大月』と書かれてある。
カメラ付きのインターホンを鳴らすと、スピーカーから大人びた女性の声が聞こえてきた。
「はい、どなたでしょう?」
「あ、あの、秋元誠司と申します。大月さくらさんが、風邪と聞いたので……」と誠司は買ってきたリンゴをカメラに見せつけた。
「あっ! あなたが誠司君ね! いつも話は聞いてるよ。今玄関まで行くからね!」
「あ、はい」
俺と知った途端に声色が変わった。
玄関から出てきたさくらの母親は、さくらをそのまま成長させたような、見目麗しい細身の女性であった。
「あらやだぁ、本物だ」
「あの、さくらさんは、平気ですか?」
玄関の奥をちらちらと見ていると、階段からカラフルな花柄パジャマ姿のさくらが降りてきたのを確認できた。寝起きなのか髪の毛はところどころ跳ね、段を降りるたびふわふわと上下している。
「あ、ちょうど良かった! さくら、彼氏さん来てる来てる!」
誠司と目が合ったさくらは、みるみる顔を赤らめていき二階へと駆け上がって行ってしまった。
何も声をかけられなかった誠司は唖然とした。
「あの子恥ずかしがっちゃってぇ。ほら、後追いかけて!」
「え、あ、いや……」
「ほら早くっ!」
母親に招き入れられた誠司は戸惑いつつも革靴を脱ぎ、二階へと駆け上がった。まだ厄介な父親は帰宅していないようだった。
二階には三つ部屋があり、その一つに桜の木のステッカーが貼られたドアを見つけた。間違いなく、この奥にさくらがいるという確信を得た。
「さくら、見舞いに来てみたんだ」
「……う、うんっ」
ドア越しに聞こえる声は、若干上ずっていた。
誠司はフローリングの床とドアノブを交互に見て、言葉を詰まらせながらさくらに話しかける。
「突然、すまない。昨日は元気だったものだから……。リンゴ、買ってきたんだ。お母さんに渡しておくから体調良くなったら食べてくれ。じ、じゃあ……また」
思えば、まだ体調が悪いのかもしれない相手に見舞いなんて、迷惑この上ないじゃないか。これだから慣れないことはすべきじゃなかった。
肩を落としながら階段を降りようとしたところで、背後からドアノブの捻る音が聞こえてきた。ドアの隙間から顔を見せたのは、まだ顔を赤らめているさくらだった。
「……少しだけ、部屋でお話ししよう?」
「部屋、良いのか……?」
さくらはこくりと頷き、ドアを開けっ放しにして奥に戻って行った。
階下に立つ母親のにやけ面に見送られながら、初めてさくらの部屋へと入った。部屋に入ってからドアを閉めると、何故だか余計に緊張する。
ふんわりとさくらの匂いが香ってきて、頭がクラクラした。
「適当なところ、座って良いよ」
さくらは木製のベッドの上に横たわり、淡い桃色の掛け布団で鼻下まで隠している。誠司がカーペットの上に座り、失礼を承知で部屋中を見回す。
桃色を基調とした甘い印象の部屋で、タンスの上には熊のぬいぐるみではなく、何故か木彫りの熊が堂々飾られている。
腰ほどまでの書棚には時代小説から絵本まで様々な種類の本が並べられていた。どの本がより夢想させてくれるか、悩んだ経緯が感じ取れた。
液晶テレビが一台。その横に学習机があり、机の上にはページを継ぎ足し過ぎたであろう過去の手帳が開かれている。
「手帳太すぎやしないか」
「貧乏性でね、古紙とかついつい継ぎ足したくなるんだ」
「俺も貧乏性だがここまではさすがにしないな……。それはそうと、体のほうは大丈夫か?」
「うん、もうだいぶ熱も下がったよ。昨日雨に濡れちゃって、それが原因だと思う」
「そうか……」
「リンゴ、ありがとうね!」
「ああ。元気そうで良かった」
さくらが、何の気なしに枕元のリモコンを操作してテレビをつけた。テレビからは夕方のニュースが流れ始めた。
「ニュース……そういえば今日の戸井駅辺り、やけに警察が多かった」
「何かあったのかな?」
ニュースから聞き覚えのある地名が流れたため、途中から内容が耳に入ってきた。
『────戸井駅周辺で、昨日夕方、三人の男女が通りすがりの男に包丁のような刃物で刺され、死傷する事件が発生しました。犯人は未だ逃走中で、警視庁は先月の通り魔事件との関連も調査しつつ、警戒態勢を強めています』
画面には被害者三人の名前が表示されている。
『死亡、斎藤亮治さん。
重傷、君島慶子さん。
軽傷、武藤達郎さん』
さくらはわざわざ体を起こし、その画面に釘付けになった。
「リョウジ……ケイコ……?」
「知り合いなのか?」
「かも、しれない……」
「今は警察官が駅前をウロウロしてるからまだ安全だろうが、さくらも登下校は注意しておくべきだ」
「……うんっ」
部屋にニュースの音声だけが流れる。話題がなくなったわけではない。さくらの知り合いが亡くなったことを知った誠司が、多少気遣って黙りこくったのだった。
「もし気になったなら机の上の手帳、見ても良いよ」
さくらが指差したのは、机の上にあった手帳だ。先程見つけたのを知っていたらしい。
さくらが「入院してた時の」と付け加えたことで、俄然興味が湧いた。
誠司は扱いに気をつけながら分厚い手帳を手に取り、さくらの顔を一瞥し、最初のページから飛ばしつつ中身を読み始める。
そこには今のさくらからは想像もつかないような、温かみのない文字が幼い字で刻まれていた。
『十九年。七月二十日。晴れ。
医者にかけと言われたからかき始めた。正直に今日の出来ごとや思ったことをかいたほうが良いらしい。あと、ぶあいそになっちゃうから、もっとにこにこしてって。もう笑い方もわすれたよ』
『十九年。九月一日。雨。
まどから見える私と同じ小学生たち。楽しげに歩いてる人たち。どうしてさくらはあそこにいないのかな。
今日本当は雨なんてふってない。だってさくらはここに閉じこめられてるのに、外の人たちは自由なんだ。だから雨にでもふられちゃえばいいと思った』
『十九年。十一月二日。晴れ。
ちりょうは気もちわるい。水を飲みすぎると、はだがふくれてくる。ちりょうを受けてるさくらも気もちわるい。気もちわるい』
『十九年。十二月二十五日。雪。
クリスマス。さくらに恋人ができる日なんてこないと思う。さくらはふつうじゃないから。ふつうじゃないなら、どうして生まれてきちゃったのかな』
『二十年。三月十五日。雨。
たん生日。生まれてきた意味もわからないのに、楽しいわけがない』
『二十年。四月四日。晴れ。
死んだらみんなにわすれられちゃうから生きるんだって、生きてわすれられないものをのこして死んでいくんだって、小説にかいてあった。
さくらは、わすれられたくない』
『二十年。五月二日。曇り。
たくさんの人達に迷惑をかけて、お父さんやお母さんを心配させて。でもわすれられるのはイヤだから、死にたくない。だから迷惑も心配もかける。悔しい』
「昔、こんなふうだったのか」
誠司の言葉にさくらは、自嘲気味に掛け布団を見つめ俯いた。
小学生からこんなにも真剣に人生や生き方と向き合っていれば、ある程度の理解があるのも納得できる。ただ、ここまで暗い性格だったのは意外だった。
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