彼処に咲く桜のように

足立韋護

六月三十日(三)

 駅の横を通る国道を突っ切り、右、左、少し進んで右へと曲がると、小さな脇道にその家は見えてきた。変に大きいわけでも小さいわけでもなく、立派な洋の雰囲気を感じさせる二階建て一軒家であった。その表札にはちゃんと大月と刻まれてあり、誠司のような複雑な事情も特にはなさそうだ。


「立派な家……。さて、俺はここまでだ」


「待って、誠司君」


「ん?」


 なおも降り続く雨の音が、しばらくの間その場を支配した。


「……少し部屋上がってく?」


「……え?」


「い、いや、変な意味はないんだよ? お礼にお茶でも、ね、ね!」


「き、気持ちは嬉しいんだが、悪いが、俺はこれからバイトなんだ。本当に嬉しいんだがな」


「あっ、そ、そうだった。忘れてたよ、ごめんね! じゃあ、ここでね!」


 目を左右に忙しく泳がしているさくらは、それが苦笑いとわかるほど引きつった笑みのまま、徐々に後退していく。傘の外へ出ると、素早く玄関を開け、中へと逃げ込むように入って行った。誠司はその場に一人、取り残された。


「なんだったんだ……」


────アルバイト先での誠司は、至って真面目であった。バックヤードから売り場まで無理せず確実に作業をこなす。しかし誠司を嫌うその場を仕切る社員が、多少のミスでも発見した日には、餌に飛びつきそれを貪る肉食獣のように、誠司いびりを始める。


 誠司はそれが嫌かと言われれば、そうと答える他なかったが、ひとたびアルバイトをやめてしまえば、叔父の正吉に何か嫌味を言われることは明らかだ。それに何より、叔母の葉月を心配させることは絶対にしたくはなかった。


「あぁきぃもぃとぉ、まーたお前か!」


「すみません」


 ほんの些細な失敗にもここぞとばかりにいびり始める沼崎に、ひたすら頭を下げる。普通と同じでいるためには、仕方のないことだと諦めていた。むしろ学校に楽しみがある分、以前より些か耐えられるようになった。


「……ふん、気をつけろよ」


「すみません」


 しかし……今日はさくらの誘いを断ってしまった。部屋に誘う……変な意味に捉える奴らもいるだろうが、高校生の俺達にとって部屋とは、そんなやましい空間ではないのだ。さくらは妙なところでませているためか、俺の誘われたことへの驚きを、他のことだと勘違いしてしまったのかもしれない。
 プラトニックなんていう死語を意識してはいないが、それをしたところで何になるわけでもない。興味がないわけでもないが、特別にそういったことをしたいわけでもない。さくらが求めるなら、考えなくはないが……。


 漠然とした考えに支配されながら、誠司は淡々と作業をこなしていく。手際良く作業するその様は、パートの主婦達をつくづく感心させていた。そんなことは知らない誠司の頭には、とにかくさくらについて考えることしか出来なかった。
 自分でも気がついていた。この高校二年生こそが、人生において大きな転換点になるであろうことを。


 そんなことより、殺しを受け入れてくれたさくらには感謝しなければならない。まず殺しを認めることすら出来ない人間だっているのに、彼女は受け入れ、さらに道まで示してくれた。だから俺も、約束を守らねばならない。期待を裏切ってはならない。小さなとこからコツコツとやらねばならない。きっとそれが雨雲を突き抜ける塔ほどまでに積み上がるその時まで、さくらが待ってくれていると信じて。

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