彼処に咲く桜のように

足立韋護

五月二十八日(三)

 誠司、さくら、葵、咲を部屋に入れた太一は、四人を残して冷蔵庫の飲み物を取りにリビングへと向かった。冷蔵庫の前には、髪が肩ほどまで伸びきった若い男が、灰色のスウェット姿で立っていた。冷蔵庫から牛乳を取り出しているようだ。


「あ……悪い……」


「兄貴か。飲んだらさっさと上戻れよ」


 その顔は、やつれていてもどこか太一に似ていた。目には生気が宿っておらず、誠司とはまた違う種類の、何もかもに絶望した瞳をしていた。
 のそのそと動いた太一の兄は、太一とすれ違ってから、リビングの横にある階段を上って行った。ため息をつき、飲み物を取ってから振り向くと、そこにはさくらが申し訳なさそうに立っていた。思わず太一は、言葉を詰まらせる。


「あ、あ、さくらちゃん。どうしたんだ?」


「お手洗いどこかなって聞こうと思って、追いかけて来たんだ」


「……ああ、廊下の角のドアだぜ。最初に説明しときゃ良かったか!」


 笑って見せる太一に笑い返したさくらは、一つ礼を述べてから、歩いて行こうとする。しかし、何故かそこでピタリと止まった。


「さっきの太一君、少し怖かったよ」


「聞いてたのか……。はは、参ったなー!」


「何か、もし何か困ったときは、私達がいるからね」


 さくらの華奢な背中を眺める太一は、自分が引きつった笑顔をしていることに気がついた。そして笑うことを諦めた。暗いリビングに、沈黙する二人が佇んでいる。


「あんがとよ」


 そう一言だけ呟くと、さくらはこくりと頷き、駆け足でトイレに入って行った。太一は緊張がほぐれたように、肩の力が抜けていくのがわかる。深々と息を吐き、飲み物とコップをトレイに乗せて部屋へと戻って行った。
 勉強を始めているのかと思いながら部屋に戻ると、誠司に襲いかかっている咲の姿があった。その顔面を手で押さえつけている誠司は、甚だ迷惑そうである。奥には、葵が腹を抱えながら大笑いしていた。


「大月がいない間に! 唇、唇だけで良いから〜!」


「寄るな変態! 太一、助けろ! あの生徒会長は使い物にならないっ」


 太一は葵の側に回り込み、ニヤつきながら傍観し始めた。その光景を見た誠司は、戸井高校の生徒会が終末へ向かっていることを確信した。拒否すればするほど猛進してくる咲の処理に困っていた時、再び部屋のドアが開かれた。
 ハンカチで手を拭いているさくらが、面食らった様子で見下ろしている。ぱちくりと瞬きさせた瞳は、途端につり上がった。


「ダメだよ倉嶋さん!」


 咲の背後から腕を固め、誠司から引き剥がしていく。
 その後、二人で協力し、咲の手足を太一から借りたタオルでキツく縛り付けておいた。しかしそれは、反省するどころか咲を更に興奮させてしまっている。誠司はつくづく、咲とは相性が悪いと頭を抱えた。


 それからしばらくして、ようやく皆は勉強する姿勢に入っていた。誠司は一人黙々と進め、わからないところがあればさくらへと質問している。そのさくらは、既にテスト勉強は済んでいるようで、勉強をしてこなかった咲に付きっきりで教えていた。残る太一と葵であったが、こちらも葵が太一に教えるというパターンで、今回の勉強会は落ち着いていた。


「大月ィ〜なんだよここ。これ全部覚えんの?」


「ここは、丸暗記するしかないね。さっき言った、反復練習をして覚えようかな。まずは一緒に三点倒立して、キーワードを繰り返そう?」


「なんで三点倒立なんかすんだよ」


「頭に血が上るとね、色々考えられるし、色々覚えられるんだ。とある偉い漫画家さんだって、物語で悩んだ時には逆立ちをしてたそうだよ? だから一緒にやってみよう!」


「仕方ねェな」


 先程、謝った効果もあるのか、さくらと咲の相性は上手く噛み合っていた。そんな姿を見た誠司は、なるべく顔を真っ赤にして三点倒立をするこの二人の邪魔をしないよう、質問すべき箇所は後回しにするよう心がけた。そしてほんの少し、心の中に充実感や、幸福感に似た何かを感じていた。




「スカート捲り上がってるぞ、さくら」


「あ、わわわぁー! 見ないでー!」

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