行き当たりばったりの総理と愉快な仲間たち
第十九話
桜花がいなくなってから、早くも一週間が経過していた。
彼女がいなくなった、という事実を受け止めるまでに三日くらいかかった気がする。
死んでしまったとかではなく、最初からいなかったということになっているのか、誰も桜花のことを知る人間はいない。
ただ一人、僕を除いては。
あの日僕は感情の昂ぶりから気を失い、病院には行かずに済んだ様だが医者に来てもらって、絶対安静という診断を受けた。
その時僕を診てくれた医者が、幸いにも先日桜花と一緒に行った時の医者だったので、もちろん桜花のことを聞いてみた。
『その時一緒にいらっしゃったのは、そちらの奥様とお子様だったかと思いますが』
この答えに、僕は絶望した。
何がどうなったら、あんな強烈な女がいなくなってすんなり収まるんだよ。
そう思う一方で、いきなり姿を現すんじゃないか、とかありもしないことを考えて、絶対安静と言われているのにも関わらず、戸棚の中とかクローゼットの中とか、様々なところを覗き回っている時に怜美に見つかって叱られたりもした。
心がよくならないのであれば、僕に未来はない。
桜花がいなくては、僕は何も出来ない。
なのに桜花はここにいない。
そう考えると、心が沈んでしまう。
そしてそんな調子だから、またも怜美と穂乃花には心配をかけてしまっていた。
それでも見捨てないでいてくれているのには、本当に頭が下がる思いだ。
だけど、僕にあの女を忘れることなんかできない。
僕に様々なことを教えてくれた女。
あの怜美でさえもできなかった、恋愛感情なんていうものまで、僕に植え付けていった女。
怜美や穂乃花を愛していないというわけではもちろんない。
しかし、僕にとって……僕の人生において、もう彼女は欠かせない存在になってしまっていた。
なのに何で……何も言わずにいなくなったのか。
わからないことだらけだ。
にも関わらず、休みが明ける日まであと二日に迫っている。
そして当然、これだけ日にちが経っていても怜美も穂乃花も桜花のことを思い出すことはなかった。
「少しは落ち着いた? 今日からまたお仕事なんだけど、出られそう?」
「……ああ、問題ない。行こうか」
桜花がいなくなってから九日。
当然状況は変わらないまま、僕は復帰の日を迎えることとなった。
この日はひとまずの記者会見を開き、国民に心配をかけてしまったことを詫びた。
会見の最中、僕を驚かせようと何処かに桜花が潜んでたりしないか、なんて思って不自然にならない程度に周りを見回してみたが、当然のごとく姿は見当たらなかった。
「あんたね、さすがに仕事に集中しなさいよね」
「…………」
何故バレたのか。
毎日見てるんだから、わかるに決まっているとの答えを頂き、僕としてはこいつらもいなくなったら困る存在だよな、なんて考えが浮かんでくる。
もちろん、怜美だって穂乃花だって、朱里だってかけがえのない存在であることに違いはない。
だけど、そうじゃないんだ。
僕をここまで導いてくれたのは、他でもない桜花だ。
これからも導いてくれると思っていたし、僕だって桜花の為に何かできるなら、と思ったこともある。
あいつにそんな助けなんて必要がないことくらい、重々承知していたがそれでも力になりたい、そう思えたのはきっと、今まで生きてきて桜花だけだったんだと思う。
僕が怜美や穂乃花に対して不誠実なことをしているという自覚はもちろんある。
だけど、そう思っても振り切ることが出来ないから今も僕は暇さえあれば彼女を探しているし、人を使ってまで調べさせているのだ。
これに関しても、お察しの通り成果なんてものはなく、桜花の行方はわからないままだ。
「ねぇ、その桜花さんって人のこと、聞かせてよ」
「は? 何言ってんだお前……」
あんだけ世話になっておいて忘れてるくせに、と思うとつい言葉がきつくなってしまう。
しかしもしかしたら怜美に気を遣わせてしまっているのかもしれない、と考えると無碍にも出来ない。
「総理、もしよかったら私にもお聞かせ頂けませんか? 私も気になります」
穂乃花もやってきて、僕はそこまで言うなら、と桜花との出会いから九日前のことまでの全てを語る。
もちろん、多分に主観が混ざった話ではあるから、彼女たちの記憶が残っているとしても合致するかどうかは怪しいが、もしかしたら話すことでわかることもあるかもしれない。
気分が晴れることもあるかもしれない。
そう思って、僕は赤裸々に、ありったけの感情を込めて桜花のことを話した。
「……それ、アニメのキャラとかじゃないのよね?」
「んなわけないだろ……僕を総理として迎えにきたのも桜花だし、僕の色んな初めてを持ってったのも桜花なんだよ。それに穂乃花に関しては、桜花が手配したからヘリでここまで来たんだぞ?」
「確かに今のお話を聞いて、おかしいなって思うところはあるんです。私や施設のみんなが、どうやってここに来たのかとか。そういうのが全く思い出せなくて、もどかしい気持ちはありました。しかしお話したら総理の具合に障るかと思いまして……」
「それにしてもあんた、本当にその桜花って人のこと好きなのね。結婚して子ども生んでまで、こんな妬ましい気持ちになるなんて、考えたこともなかったな」
そう言って顔を伏せた怜美は、寂しそうに見えたが何処か嬉しそうだ。
どういうことなんだろうか。
あの嫉妬の権化とも言えそうな、怜美が?
「だけどね、秀一が初めて自分の本音を話してくれたって、それに対して嬉しく思う気持ちもあるの。だから、私も探すのは協力したい」
「とは言ってもな……プロに頼んでも見つからない様な相手だし……段々自分の記憶に自信がなくなってきそうだよ」
「ダメですよ、総理。桜花さんという方が、総理にとって大事なのであればそれはきっと本物です。絶対に、何処かにいるはずなんです。だから、諦めたりなさらないでください」
考えてみれば、穂乃花のこの話し方も桜花が仕込んだものだったと思う。
少し似ているし、抑揚は桜花よりもある気がするけど。
だけどあの物静かなくせに存在感たっぷりな女を、本当にこの二人は忘れてしまっているのだろうか。
だとしたらもう、常識じゃ計り知れない様な何かが動いているとか、そんな妄想も甚だしいことを考えてしまうのは仕方ないことだと思う。
「ねぇ秀一、恥ずかしいかもしれないんだけど……私を迎えに来た時のこととか、もっと覚えてる限り事細かに話してもらえない?」
「私も、私たちがここに来るに至った経緯をお願いします」
「それでお前たちが、桜花を思い出せるんだったら……確かに恥ずかしいけど、話しておこうか」
それから僕は翌日が週末でもあることから、夜を徹して桜花のことを語った。
先ほど話した時よりも、更に細かく思い出せる限りのことを。
「そうだよ……あれだ」
「ん?」
「初夜は二人きりだったけど、二回目以降でお前ともう一人、一緒にいた女に覚えはないか?」
「ちょ、ちょっと何言ってんのよあんた!」
「落ち着けよ、大事なことなんだ、思い出してくれ。あとで相手でも何でもしてやるから」
「……そこまで言うなら……」
そう言って、怜美が考え込む。
そしてその間に、穂乃花にも同じ様なことを聞いてみる。
「穂乃花はどうだ? 同じ様に最初は二人でえーと……ハッスルしてたけど、翌日以降は怜美と、もう一人女がいなかったか?」
「ええと……」
穂乃花も顔を赤くしながら考えこむ。
正直こんなことで思い出せるものなのか、と思ったりするものだが、すぐに成果は出たと言える。
何故なら次第に、二人の顔が険しいものに変わっていくのを感じたからだ。
「いたわ、いたわよ確かに」
「い、いましたね。あの凄くスタイルの良い……」
「そう、めちゃくちゃなテクニックを持ってる女……」
「施設で総理が倒れて、私たち確かにあの人にヘリに乗せられました」
「私の家に挨拶に来た時も、給料の話とか、してたわ。あの抑揚のない声……」
二人が呟く。
その呟きを聞いているうちに、僕の中にこみ上げてくるものを感じた。
「って……秀一? 泣いてるの?」
「え?」
「総理……」
この三年……いやもっと前からか。
僕は泣いた経験なんかなかった。
桜花がいなくなっても尚、僕は涙をずっと堪えていたし、人知れず泣いた、ということも一切ない。
だけど、二人が徐々に桜花を思い出し、その記憶が共有されるにつれて、僕の目からは堪えようもないほどに涙が溢れ出していた。
「何で忘れてたのかしら。そういえば秀一の休みを宣言するとき……あの直前に秀一を殴ったのも、桜花さんだったわよね」
「ああ、そうだな」
今でこそ腫れは引いているが、あの時は本当に、痛かった。
だけど、あれがあったから、僕は戻ってこられたんだって今でも思っている。
「総理、ごめんなさい。こんな大事なことを……総理にとっても、私たちにとっても大事なことだったはずなのに」
穂乃花はそう言って泣きながら謝ってきたが、僕にはどうにも二人が悪いとは思えなかった。
だって、現に今二人は思い出してる。
思い出せているということは、確かに存在したということだろう。
しかし、あんなにも大勢の人間が桜花のことを一斉に忘れるなんてことがあるだろうか。
やはり、僕らの常識では計り知れない様な、何か超常的な力が働いているとしか思えない。
かねてからこいつ人間か? なんて冗談めかして思っていたことはあったが、そのことが現実味を帯び始めている気がした。
「穂乃花も怜美も、悪くないよ。あいつは何処か普通じゃなかった。僕らに……というか、もしかしたら国民全員とか途方もない範囲で記憶の消去が出来る様な、何か特別な方法があったのかもしれないから」
「ふむ……普段なら何言ってんの? ってなるんだけど……実際に全く思い出せない期間があったし。さすがに一蹴できる話じゃない気がしてくるわね」
「そうですね……でも、探すにしても手掛かりもゼロなんですよね?」
「ああ、そうだな。だが、あいつは死んではいないと思う……根拠はないけど、死ぬ様なやつじゃない。そして僕も一瞬だったけど忘れさせられていたからね。やっぱりどう考えても普通じゃないよ」
あの時。
桜花はいなくなる直前に、何か変わったことをしなかったか?
僕は、何か大事なことを桜花に伝えた気がする。
なのにどうしても、それが思い出せない。
ここまで出かかって、なんて良く聞いたもんだが何処までだよ、とその時は思ったものだ。
しかし、ここへきてそんなくだらないことが理解できてしまうのだから困った。
「総理? どうかなさいましたか?」
「あ、いや……そういえば僕は、桜花に最後に会った時に何か伝えたことがあった様な気がして」
「何かって?」
「それを今必死で思い出してるところなんじゃないか」
病床の僕に、あの時桜花は何て言っていた?
どんなことをしていた?
考えるほどに思い出せなくて、沼に嵌る様な感覚があった。
「まさかあんた、病気で寝てたくせにその桜花さんって人とラブラブチュッチュしてたんじゃないでしょうね」
「れ、怜美さん……その言い方はもうやめてください……。私、幼かったとは言っても恥ずかしいんですから」
「え? いいじゃない、今でも普通に可愛いんだから。もう一度聞かせてもらってもいいのよ、チュッチュしてもいいんですか? って」
「もう!」
「……あ」
二人の会話を聞いて、不意に思い出す唇の感触。
あの儚げだと感じた感触。
僕は、全てを思い出した気がした。
「どうしたの? 思い出せたの?」
「ああ……思い出した」
「何があったんですか? 聞いても大丈夫な内容でしょうか」
「えっと……」
ああ、思い出した。
何を血迷ったのか、口走ったあの言葉。
そして血迷って混乱していたのに応えてくれた、桜花の言葉も。
『総理……私も、あなたを愛していますよ』
そうだ、あの時の儚げな言葉に続いての口づけ。
何でこんなことを、僕は忘れていた?
「総理、私もあなたを愛していますよ……ですよね?」
「っ!?」
「え!!」
背後から、この十日の間、ずっと聞きたかった声が聞こえた。
凛と響く様な、落ち着いた声音。
「お……」
「桜花……」
僕が全てを思い出した時、桜花はその姿を再び見せた。
あの時と何一つ変わらない、しかし約十日ぶりに見る誰よりも会いたかった相手、桜花。
僕も怜美も穂乃花も、恥も外聞もなく桜花に泣きながら抱き着いて、桜花は優しく僕たちを受け止めた。
彼女がいなくなった、という事実を受け止めるまでに三日くらいかかった気がする。
死んでしまったとかではなく、最初からいなかったということになっているのか、誰も桜花のことを知る人間はいない。
ただ一人、僕を除いては。
あの日僕は感情の昂ぶりから気を失い、病院には行かずに済んだ様だが医者に来てもらって、絶対安静という診断を受けた。
その時僕を診てくれた医者が、幸いにも先日桜花と一緒に行った時の医者だったので、もちろん桜花のことを聞いてみた。
『その時一緒にいらっしゃったのは、そちらの奥様とお子様だったかと思いますが』
この答えに、僕は絶望した。
何がどうなったら、あんな強烈な女がいなくなってすんなり収まるんだよ。
そう思う一方で、いきなり姿を現すんじゃないか、とかありもしないことを考えて、絶対安静と言われているのにも関わらず、戸棚の中とかクローゼットの中とか、様々なところを覗き回っている時に怜美に見つかって叱られたりもした。
心がよくならないのであれば、僕に未来はない。
桜花がいなくては、僕は何も出来ない。
なのに桜花はここにいない。
そう考えると、心が沈んでしまう。
そしてそんな調子だから、またも怜美と穂乃花には心配をかけてしまっていた。
それでも見捨てないでいてくれているのには、本当に頭が下がる思いだ。
だけど、僕にあの女を忘れることなんかできない。
僕に様々なことを教えてくれた女。
あの怜美でさえもできなかった、恋愛感情なんていうものまで、僕に植え付けていった女。
怜美や穂乃花を愛していないというわけではもちろんない。
しかし、僕にとって……僕の人生において、もう彼女は欠かせない存在になってしまっていた。
なのに何で……何も言わずにいなくなったのか。
わからないことだらけだ。
にも関わらず、休みが明ける日まであと二日に迫っている。
そして当然、これだけ日にちが経っていても怜美も穂乃花も桜花のことを思い出すことはなかった。
「少しは落ち着いた? 今日からまたお仕事なんだけど、出られそう?」
「……ああ、問題ない。行こうか」
桜花がいなくなってから九日。
当然状況は変わらないまま、僕は復帰の日を迎えることとなった。
この日はひとまずの記者会見を開き、国民に心配をかけてしまったことを詫びた。
会見の最中、僕を驚かせようと何処かに桜花が潜んでたりしないか、なんて思って不自然にならない程度に周りを見回してみたが、当然のごとく姿は見当たらなかった。
「あんたね、さすがに仕事に集中しなさいよね」
「…………」
何故バレたのか。
毎日見てるんだから、わかるに決まっているとの答えを頂き、僕としてはこいつらもいなくなったら困る存在だよな、なんて考えが浮かんでくる。
もちろん、怜美だって穂乃花だって、朱里だってかけがえのない存在であることに違いはない。
だけど、そうじゃないんだ。
僕をここまで導いてくれたのは、他でもない桜花だ。
これからも導いてくれると思っていたし、僕だって桜花の為に何かできるなら、と思ったこともある。
あいつにそんな助けなんて必要がないことくらい、重々承知していたがそれでも力になりたい、そう思えたのはきっと、今まで生きてきて桜花だけだったんだと思う。
僕が怜美や穂乃花に対して不誠実なことをしているという自覚はもちろんある。
だけど、そう思っても振り切ることが出来ないから今も僕は暇さえあれば彼女を探しているし、人を使ってまで調べさせているのだ。
これに関しても、お察しの通り成果なんてものはなく、桜花の行方はわからないままだ。
「ねぇ、その桜花さんって人のこと、聞かせてよ」
「は? 何言ってんだお前……」
あんだけ世話になっておいて忘れてるくせに、と思うとつい言葉がきつくなってしまう。
しかしもしかしたら怜美に気を遣わせてしまっているのかもしれない、と考えると無碍にも出来ない。
「総理、もしよかったら私にもお聞かせ頂けませんか? 私も気になります」
穂乃花もやってきて、僕はそこまで言うなら、と桜花との出会いから九日前のことまでの全てを語る。
もちろん、多分に主観が混ざった話ではあるから、彼女たちの記憶が残っているとしても合致するかどうかは怪しいが、もしかしたら話すことでわかることもあるかもしれない。
気分が晴れることもあるかもしれない。
そう思って、僕は赤裸々に、ありったけの感情を込めて桜花のことを話した。
「……それ、アニメのキャラとかじゃないのよね?」
「んなわけないだろ……僕を総理として迎えにきたのも桜花だし、僕の色んな初めてを持ってったのも桜花なんだよ。それに穂乃花に関しては、桜花が手配したからヘリでここまで来たんだぞ?」
「確かに今のお話を聞いて、おかしいなって思うところはあるんです。私や施設のみんなが、どうやってここに来たのかとか。そういうのが全く思い出せなくて、もどかしい気持ちはありました。しかしお話したら総理の具合に障るかと思いまして……」
「それにしてもあんた、本当にその桜花って人のこと好きなのね。結婚して子ども生んでまで、こんな妬ましい気持ちになるなんて、考えたこともなかったな」
そう言って顔を伏せた怜美は、寂しそうに見えたが何処か嬉しそうだ。
どういうことなんだろうか。
あの嫉妬の権化とも言えそうな、怜美が?
「だけどね、秀一が初めて自分の本音を話してくれたって、それに対して嬉しく思う気持ちもあるの。だから、私も探すのは協力したい」
「とは言ってもな……プロに頼んでも見つからない様な相手だし……段々自分の記憶に自信がなくなってきそうだよ」
「ダメですよ、総理。桜花さんという方が、総理にとって大事なのであればそれはきっと本物です。絶対に、何処かにいるはずなんです。だから、諦めたりなさらないでください」
考えてみれば、穂乃花のこの話し方も桜花が仕込んだものだったと思う。
少し似ているし、抑揚は桜花よりもある気がするけど。
だけどあの物静かなくせに存在感たっぷりな女を、本当にこの二人は忘れてしまっているのだろうか。
だとしたらもう、常識じゃ計り知れない様な何かが動いているとか、そんな妄想も甚だしいことを考えてしまうのは仕方ないことだと思う。
「ねぇ秀一、恥ずかしいかもしれないんだけど……私を迎えに来た時のこととか、もっと覚えてる限り事細かに話してもらえない?」
「私も、私たちがここに来るに至った経緯をお願いします」
「それでお前たちが、桜花を思い出せるんだったら……確かに恥ずかしいけど、話しておこうか」
それから僕は翌日が週末でもあることから、夜を徹して桜花のことを語った。
先ほど話した時よりも、更に細かく思い出せる限りのことを。
「そうだよ……あれだ」
「ん?」
「初夜は二人きりだったけど、二回目以降でお前ともう一人、一緒にいた女に覚えはないか?」
「ちょ、ちょっと何言ってんのよあんた!」
「落ち着けよ、大事なことなんだ、思い出してくれ。あとで相手でも何でもしてやるから」
「……そこまで言うなら……」
そう言って、怜美が考え込む。
そしてその間に、穂乃花にも同じ様なことを聞いてみる。
「穂乃花はどうだ? 同じ様に最初は二人でえーと……ハッスルしてたけど、翌日以降は怜美と、もう一人女がいなかったか?」
「ええと……」
穂乃花も顔を赤くしながら考えこむ。
正直こんなことで思い出せるものなのか、と思ったりするものだが、すぐに成果は出たと言える。
何故なら次第に、二人の顔が険しいものに変わっていくのを感じたからだ。
「いたわ、いたわよ確かに」
「い、いましたね。あの凄くスタイルの良い……」
「そう、めちゃくちゃなテクニックを持ってる女……」
「施設で総理が倒れて、私たち確かにあの人にヘリに乗せられました」
「私の家に挨拶に来た時も、給料の話とか、してたわ。あの抑揚のない声……」
二人が呟く。
その呟きを聞いているうちに、僕の中にこみ上げてくるものを感じた。
「って……秀一? 泣いてるの?」
「え?」
「総理……」
この三年……いやもっと前からか。
僕は泣いた経験なんかなかった。
桜花がいなくなっても尚、僕は涙をずっと堪えていたし、人知れず泣いた、ということも一切ない。
だけど、二人が徐々に桜花を思い出し、その記憶が共有されるにつれて、僕の目からは堪えようもないほどに涙が溢れ出していた。
「何で忘れてたのかしら。そういえば秀一の休みを宣言するとき……あの直前に秀一を殴ったのも、桜花さんだったわよね」
「ああ、そうだな」
今でこそ腫れは引いているが、あの時は本当に、痛かった。
だけど、あれがあったから、僕は戻ってこられたんだって今でも思っている。
「総理、ごめんなさい。こんな大事なことを……総理にとっても、私たちにとっても大事なことだったはずなのに」
穂乃花はそう言って泣きながら謝ってきたが、僕にはどうにも二人が悪いとは思えなかった。
だって、現に今二人は思い出してる。
思い出せているということは、確かに存在したということだろう。
しかし、あんなにも大勢の人間が桜花のことを一斉に忘れるなんてことがあるだろうか。
やはり、僕らの常識では計り知れない様な、何か超常的な力が働いているとしか思えない。
かねてからこいつ人間か? なんて冗談めかして思っていたことはあったが、そのことが現実味を帯び始めている気がした。
「穂乃花も怜美も、悪くないよ。あいつは何処か普通じゃなかった。僕らに……というか、もしかしたら国民全員とか途方もない範囲で記憶の消去が出来る様な、何か特別な方法があったのかもしれないから」
「ふむ……普段なら何言ってんの? ってなるんだけど……実際に全く思い出せない期間があったし。さすがに一蹴できる話じゃない気がしてくるわね」
「そうですね……でも、探すにしても手掛かりもゼロなんですよね?」
「ああ、そうだな。だが、あいつは死んではいないと思う……根拠はないけど、死ぬ様なやつじゃない。そして僕も一瞬だったけど忘れさせられていたからね。やっぱりどう考えても普通じゃないよ」
あの時。
桜花はいなくなる直前に、何か変わったことをしなかったか?
僕は、何か大事なことを桜花に伝えた気がする。
なのにどうしても、それが思い出せない。
ここまで出かかって、なんて良く聞いたもんだが何処までだよ、とその時は思ったものだ。
しかし、ここへきてそんなくだらないことが理解できてしまうのだから困った。
「総理? どうかなさいましたか?」
「あ、いや……そういえば僕は、桜花に最後に会った時に何か伝えたことがあった様な気がして」
「何かって?」
「それを今必死で思い出してるところなんじゃないか」
病床の僕に、あの時桜花は何て言っていた?
どんなことをしていた?
考えるほどに思い出せなくて、沼に嵌る様な感覚があった。
「まさかあんた、病気で寝てたくせにその桜花さんって人とラブラブチュッチュしてたんじゃないでしょうね」
「れ、怜美さん……その言い方はもうやめてください……。私、幼かったとは言っても恥ずかしいんですから」
「え? いいじゃない、今でも普通に可愛いんだから。もう一度聞かせてもらってもいいのよ、チュッチュしてもいいんですか? って」
「もう!」
「……あ」
二人の会話を聞いて、不意に思い出す唇の感触。
あの儚げだと感じた感触。
僕は、全てを思い出した気がした。
「どうしたの? 思い出せたの?」
「ああ……思い出した」
「何があったんですか? 聞いても大丈夫な内容でしょうか」
「えっと……」
ああ、思い出した。
何を血迷ったのか、口走ったあの言葉。
そして血迷って混乱していたのに応えてくれた、桜花の言葉も。
『総理……私も、あなたを愛していますよ』
そうだ、あの時の儚げな言葉に続いての口づけ。
何でこんなことを、僕は忘れていた?
「総理、私もあなたを愛していますよ……ですよね?」
「っ!?」
「え!!」
背後から、この十日の間、ずっと聞きたかった声が聞こえた。
凛と響く様な、落ち着いた声音。
「お……」
「桜花……」
僕が全てを思い出した時、桜花はその姿を再び見せた。
あの時と何一つ変わらない、しかし約十日ぶりに見る誰よりも会いたかった相手、桜花。
僕も怜美も穂乃花も、恥も外聞もなく桜花に泣きながら抱き着いて、桜花は優しく僕たちを受け止めた。
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