やり直し女神と、ハーレムじゃないと生きられない彼の奮闘記
第32話
『大輝くん、春喜です。今何処にいる?』
何でそんなことをこんな時間に……決まっている。
何でこんな時間に電話なんか、っていうことと照らし合わせれば……。
いや、まだ決まったわけじゃない。
なんていうことを考えながらも俺の頭に浮かぶのは、最悪の事態ばかりだ。
降り出した雨が余計にその考えを深めていく様に思える。
「し、施設の……近くです、見舞いの帰りでして」
『そうか、ならすぐに合流できるかもしれないな。大輝くん、どうか落ち着いて聞いてほしい』
いつになく真剣な調子の春喜さんの声。
聞いた瞬間に心臓がドクンと跳ねて、聴覚までも支配されそうな感覚になる。
嫌だ、やめてくれ。
聞きたくない。
体が、心が、その続きを聞くことを拒絶している。
手足や顎の震えがやがて全身に伝わって、立っていることすら覚束なくなってくるのがわかる。
『春海の容態が、急変した』
無慈悲に、残酷に告げられるその答え。
目の前が一瞬暗くなった気がした。
雨が降っているとはいえ、街灯の光があるのに目の前の暗さで俺の足元は更に危うさを増す。
春喜さんが何やら言ったあと電話を切って、濡れるのも構わず俺はその場で蹲ってしまっていた。
上手く呼吸ができない気がする。
容態が急変……いや、以前からその可能性については何度も考えてきていたはずだ。
だけどそんなもので春海が倒れるわけがないって、自分を誤魔化して今日まできてしまったのはほかでもない俺だ。
本当なら十分に考えてその上で受け止めていなければならなかったはずの現状から、俺は目を背けて逃げてきてしまった。
そしてその瞬間はもう、目の前に迫ってきている。
「大輝くん、こんな時だけど一つ頼みたい」
「何でしょう……?」
「春海の友達に連絡は取れないだろうか?こんな時間だし非常識なのはわかっているが、出来るなら会わせてやりたいんだ」
迎えに来てもらった車中でぼんやりしていると、春喜さんから声がかかる。
仕事で来られる機会が少なかったことを悔いているのか、春喜さんの表情は暗い。
頷く秀美さんの顔からも、もはや希望という文字は読み取れなかった。
二人くらいしか心当たりがないことを伝えた上で、俺は野口と宮本に連絡を入れる。
同じ中学でもあった野口の家は俺の住む施設と近いので、こちらから春喜さんの車で迎えに行くことにした。
宮本に関してはこちらから迎えに行くよりも、家の車で向かった方が早いという話だったので、独自に向かってもらうことになった。
間に合え……そう思ってふと自分がもう春海のことを諦め始めてしまっているのでは、と気付いてしまう。
しかしあの春海の姿から元の元気な姿に復活する様子を、誰が想像できる?
不意に理解してしまう。
最近俺が感じていた不安の正体は、おそらくそのことへの恐怖。
死という未知のものへの恐怖だ。
「大輝くん、大丈夫か?」
自分だって絶対辛いに決まっているのに、俺なんかを気遣って春喜さんは声をかけてくれる。
「しっかりしてくれ。春海をがっかりさせたくはないだろう?」
そうだ、俺はしっかりしていなければ。
そう考えていたところで野口の家の前に到着。
雨の中外で待っていた彼女を乗せて、車は再び走り出す。
運転する春喜さんはかなりの速度で飛ばしている。
結果としてパトカーに追われることもなく病院へ着くことができたのは、僥倖というやつかもしれない。
しかし駐車場を出て病院に入っても、まだ宮本の姿は見えないが……。
「すみません、ご連絡いただきました姫沢春海の父です」
春喜さんが受付に呼びかけると、中から当直の看護師が顔を出した。
「お待ちしておりました、こちらです」
そう言って看護師が俺たちを案内しようとしたところで、宮本が走ってくるのが見えた。
「はぁ……はぁ……ご、ごめんなさい……。ギリギリ、間に合ったかしら……」
息も絶え絶えの様子の宮本だったが、俺は構わずエレベーターに乗る様言って手招きする。
少しふらつきながら宮本もエレベーターに乗り込んで、ドアが閉められた。
春海の病室がある階に到着するまでの間、誰一人口を開かない。
おそらく誰もがもう覚悟を決めてしまっているんだと感じた。
この時点で一番覚悟が足りなかったのはきっと、俺なんだろうと思う。
エレベーターが到着するまでの時間が、やたら長く感じる。
このまま到着しなければ、俺は非情な現実を見なくて済むのかも、なんて考えが浮かんでしまう。
しかしそんな俺の考えを嘲笑うかの様にエレベーターはその口を開いて、俺に出ろと言っている様に思えた。
エレベーターを全員で降りて病室へ向かう廊下で、少し慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
春海の病室だろうか。
病室の前に着くとその予感が正しかったということがわかってしまった。
春喜さんも秀美さんも、野口も宮本も、全員の表情が固い。
どれも俺の知る普段の顔ではなかった。
入っても良いのかと考えていると看護師が病室のドアをノックする。
「開けます」
そう言って看護師がドアを開ける。
中ではあの女医さんが看護師に何やら指示をして、それを聞いた看護師が慌ただしく動き回っている。
「いらっしゃいましたか!!どうぞ中へ……春海さん、聞こえますか!?ご両親とお友達が見えましたよ!!」
女医さんが春海に必死で呼びかける。
春海に意識がないのか、春海はピクリとも動かない。
まさか……いや、心電図だかの波形は乱れて見えるが、動いている。
しかし、俺の足は入口から中へ進むことを拒んでいるかの様に固まって動かない。
「大輝くん、どうしたんだ?中に入りなさい」
春喜さんに促されるも、脚がどうしても前に進んでくれない。
この期に及んで、俺の体は心の底からビビってしまっている。
「ダメだ……入れない……」
「……ちょっと?」
宮本の声が聞こえる。
こんな時に何を、と思われているんだろう。
「……ダメだ……」
そのまま入口で蹲ってしまいそうになったその時、俺の体は宮本によって方向転換させられた。
宮本が俺の襟首を掴んで、その目はほとんど涙目で、俺を睨んでいる。
そして宮本の口元が歯を食いしばる様な動作をしたのが見えた直後、左頬へ衝撃が走った。
バァン!!という鋭い音と共に頬へ熱がこもるのを感じる。
ああ、殴られたのか……と理解するまでに数秒かかった。
そのまま俺はそこにへたり込んでしまった。
「しっかり……しなさいよ……!!」
宮本が右手を抑えながら言う、その目は怒りに燃えている様に見えた。
そうか、俺は宮本に引っぱたかれたのか。
「姫沢さんの彼氏は誰なの!?姫沢さんが、今一番……この瞬間に会いたいと思っているのは、間違いなくあなたよ!!私でも野口さんでもなく、ご両親をも差し置いて、姫沢さんが会いたいと思っているのはあなたなの!!そのあなたが、ここでへたり込んでいて!それでいいと思っているわけ!?早く立ちなさい、宇堂大輝!!」
俺は宮本のあまりの剣幕に気圧されて、身動きが取れなくなった。
そんな俺の様子を見かねて、宮本が再度俺の襟首を掴む。
そして、俺はそのまま立ち上がらされた。
「ちゃんと……自分の足で立って歩きなさいよ。あなたには、あなた自身の意志で彼女の前に立つ義務がある」
涙に濡れたその顔を俺から逸らし、宮本は俯く。
すっと動く影が見えて、それが野口だとわかった時、野口は俺の背後に回っていた。
「宮本さん、手離していいよ」
そう言って宮本が手を離し、俺から離れる。
次の瞬間、今度は背中に衝撃があって、俺はよろよろと病室へ足を踏み入れることになった。
野口が文字通り背中を押してくれたのだ。
「は、春海……」
「大輝……待ってたよ……」
意識が戻ったのか、弱弱しく言葉を紡ぐ春海の口元に赤いものが見える。
その赤は口元から胸元までを濡らしていて、それが彼女の血であることはすぐに理解できた。
「パパ……ママ……それに野口さんに宮本さんも……」
「春海ちゃん……」
「姫沢さん、ヘタレの彼氏を連れてきたわ。言いたいこと、言っちゃいなさいよ」
そう言われた春海が俺を見てふっと笑う。
消えかけているはずの命の、その最後の力。
全てを振り絞って頑張っている春海がいて、俺は何をしていたんだろう。
「大輝は……相変わらずだなぁ……」
「っ……ごめん……」
「でも、ちゃんと……こうして来てくれたから……いいよ……」
そう言いながら春海が、俺に向かって左腕を伸ばす。
その腕は春海のものとは思えないほどに細く、震えていた。
俺は恐る恐る手を伸ばして、血の気の失せ始めているその手を掴む。
折れてしまわない様に、努めて優しく。
「大輝は……いつでも温かいなぁ……赤ちゃんみたい……」
以前にもそんなことを聞いた覚えがあって、春海との思い出が蘇るのを感じた。
走馬燈の様に、出会いからの様々な瞬間が頭の中を駆け巡っていく。
「こんな時まで……何言ってんだよお前は……」
「パパ……ママ……」
「……何だい?」
「どうしたの、春海」
俺の手を離さず、そのまま両親に呼びかける。
春海としても、言いたいことが沢山あるはずだ。
そして、残された時間はもう僅かなんだということが、手に触れてわかってしまった気がした。
「今までごめんね……沢山我儘言ったと思う……」
息を切らしながら、切れ切れに言葉を紡いでいく。
春海自身もおそらくその瞬間をもう自覚してしまっているのだろう。
顔から生気を感じることは、もうできなくなっている。
「春海……そんなの、全然だよ。春海は他の家の子に比べたら、手のかからない子だったんだから」
「そうよ、逆に何か我慢させたりしてないか、って心配だったくらいなのよ……」
我慢していたであろう両親も、とうとう溢れ出す涙を抑えきれなくなった様だ。
もはや、我慢する時は終わったと思ったのかもしれない。
「今日までありがとう……二人の子どもで……良かった……」
「春海っ……!!」
春喜さんも秀美さんも、声を我慢することなく泣いていた。
そんな二人を見ても、俺は未だに涙を流せずにいる。
いつから俺は、こんな冷血人間になってしまったのか。
「野口さん、宮本さん……」
「何?春海ちゃん、何でも言って?」
野口が俺の脇から春海に声をかける。
宮本も野口の反対側から春海を見つめていた。
「今まで……仲良くしてくれて……本当にありがとう。すごく……楽しい時間だったよ……」
「お互い様だよ!!私だって、春海ちゃんと宇堂くんのおかげでどれだけ楽しかったか……!」
「クラスで浮き気味だった私に……初めてまともに話しかけてくれたのは、姫沢さんだったわ。その時から、私の高校生活は色を変えたの。お礼を言わないといけないのは、私の方だわ……」
言いながら野口と宮本も涙を止められない様子だった。
そして二人はベッドの反対側に回り、俺が握っていない方の、右手を握る。
「最後に、大輝……」
「やめろ……最後なんて言うな……」
そう言っている俺も、もうすぐ目の前にその瞬間は迫っていることを理解してしまっていた。
春海の目が、もう光を持っていなかった。
その目からはほとんど視力が失われているのかもしれない。
「大輝……抱っこ……」
そう言って春海が、体を起こそうとする。
俺たちはその手を離して見守っていたが、体に上手く力が入らないのかもしれない。
「……これで、いいか?」
二人に促される形で春海の上半身を起こし、その体を抱きしめる。
お前、こんなにも細くなっちまってたんだな……。
まるで別人みたいだよ、本当……。
「ずっと、こうしたかった……」
「バカだな、俺だってそうだよ……何ならお姫様抱っこだって……」
春海が入院することになったあの日、お姫様抱っこを断念したことを今になって後悔した。
あの時、最後のチャンスだったのに、何で俺はそんなこともしてやらなかったのか。
「ありがとう、でももう十分だよ……だって、また必ず会えるから……」
俺に抱きしめられながら、耳元で弱弱しく紡がれる言葉。
さっきも言っていたことだが、全くもって意味がわからない。
俺は今、これからもお前と一緒にいたいんだ。
だから、行かないでくれ!!
俺はまだお前に何もしてやれていない!!
俺たち、まだこれからのはずだろう!?
いずれの言葉も心に浮かぶのみで、口にしたいのに喉が詰まった様になって声にならない。
なのにここまで来ても尚、俺はまだ涙を流すことができなかった。
「大輝……」
俺を呼ぶその声と共に、春海の腕から……体から、力が抜けていくのを感じた。
「大好き」
これが、彼女の……春海の最後の言葉になった。
最後のこのセリフだけは、今までの様な弱弱しさを感じさせない、はっきりとした発音だった。
そんな彼女の寝顔は、安らかであると言えるのだろうか。
少なくとも、俺には笑顔に見える。
言いたいことは言えた、という満足げな顔。
俺が愛した、春海の笑顔そのものだ。
「午後十一時二十三分、ご臨終です」
女医さんが口にした、テレビなんかでよく聞いたセリフ。
実はここまで全部芝居だったんじゃないのか?なんて考えてしまう。
しかし、それまで騒がしかった病室が、水を打った様に静かになって現実であることを思い知らされる。
俺の腕の中で息絶えた彼女の体からはすっかりと力が抜けて、全体重がかかっているはずなのに重さを感じない。
人が死ぬと、ニュートリノ以下の幽子と呼ばれる分の質量だけ体から抜けて軽くなるとか言うが、関係があるのだろうか。
どうでもいいか、そんなこと……それよりお前、痩せすぎだぞ。
前はこんなに軽くなかった。
もう少し柔らかさを持っていた。
首が重力に負けてぶら下がる様になるのを、慌てて左手で支える。
そしてそれまでそれなりに熱を持っていたはずの春海の体から、熱がどんどん奪われて行って、生命活動を終えてしまっているんだということを実感する。
もうどうにもできるはずもなく、わかりきっていることなのに、俺は温めたら何とかなるんじゃないか、なんていう謎の使命感に支配されて今までよりも強く、春海の体を抱きしめた。
「宇堂くん……」
宮本の心配そうな声が聞こえた。
「春海が……春海の体が冷たくなってきてるんだ……」
「大輝くん……」
秀美さんの涙声が聞こえる。
「温めてやらないと……だって、あいつはまた会えるって……」
「ダメだよ、宇堂くん!!」
泣き叫びながら、野口が俺を春海から引きはがそうとする。
「だってあいつは!!また会えるって言ったんだ!!だから!!」
「もう、休ませてあげようよ!春海ちゃん、私たちが来るまで頑張っててくれたんだから!!」
「だけど!!春海は!!」
「大輝くん!!」
春喜さんが俺の体を力づくで抑えて春海から引きはがし、野口と宮本が春海の体をベッドに戻す。
俺も、もはや何をしているのか、何がしたいのかわからなかった。
春海の体に触れた野口と宮本が、その体から感じた冷たさに息を呑んだ。
看護師が前に出て、春海の衣服を直しているのが、俺の病院で見た最後の光景だ。
以前から感じていた感情はすっかりと消え失せ、俺は気づけば病室を出ていた。
何処をどう歩いたのか、ほとんど無意識で俺は施設に歩いて戻った。
かかった時間なんかどうでも良い。
俺にはこれで、何もなくなってしまった。
春海がいなければ俺は、もう何の価値もない抜け殻みたいなものだ。
春海が俺に、生きる意味や楽しさを、教えてくれていた。
なのに俺は結局、春海に何もしてやれなかった。
そして朋美の様な理解者はもう、こっちにはいない。
連絡だけでもしておけば良かったのに……俺は一体何をしていたんだろうか。
正直朋美に会わせる顔がないと思う。
あの時誰も追ってこなかったのはきっと、漸く俺をみんなが見放してくれたんだと思って、微かに笑いが漏れる。
こんなことが贖罪になるとも思えないが、春海の意志でもあった朋美への連絡だけでもしておこうか。
こうなってしまったら……もう、正直に言うしかないよな。
『しばらく連絡できなくて悪かった。春海が死んだよ』
これだけ打って送信して、俺は携帯を床に置いた。
そして俺自身も、壁にもたれかかる様にして自室でへたり込んだ。
俺にとってもまた全てであったはずの春海がいなくなって、俺は本格的に一人になってしまった。
春海は俺とまた会えると何度も言った。
どうやったら、俺は春海にまた会えるんだろう。
そんなことを考えながら、俺は意識を手放す。
携帯がメールを送った直後から着信を知らせているが、俺には出る気力も勇気もなかった。
何でそんなことをこんな時間に……決まっている。
何でこんな時間に電話なんか、っていうことと照らし合わせれば……。
いや、まだ決まったわけじゃない。
なんていうことを考えながらも俺の頭に浮かぶのは、最悪の事態ばかりだ。
降り出した雨が余計にその考えを深めていく様に思える。
「し、施設の……近くです、見舞いの帰りでして」
『そうか、ならすぐに合流できるかもしれないな。大輝くん、どうか落ち着いて聞いてほしい』
いつになく真剣な調子の春喜さんの声。
聞いた瞬間に心臓がドクンと跳ねて、聴覚までも支配されそうな感覚になる。
嫌だ、やめてくれ。
聞きたくない。
体が、心が、その続きを聞くことを拒絶している。
手足や顎の震えがやがて全身に伝わって、立っていることすら覚束なくなってくるのがわかる。
『春海の容態が、急変した』
無慈悲に、残酷に告げられるその答え。
目の前が一瞬暗くなった気がした。
雨が降っているとはいえ、街灯の光があるのに目の前の暗さで俺の足元は更に危うさを増す。
春喜さんが何やら言ったあと電話を切って、濡れるのも構わず俺はその場で蹲ってしまっていた。
上手く呼吸ができない気がする。
容態が急変……いや、以前からその可能性については何度も考えてきていたはずだ。
だけどそんなもので春海が倒れるわけがないって、自分を誤魔化して今日まできてしまったのはほかでもない俺だ。
本当なら十分に考えてその上で受け止めていなければならなかったはずの現状から、俺は目を背けて逃げてきてしまった。
そしてその瞬間はもう、目の前に迫ってきている。
「大輝くん、こんな時だけど一つ頼みたい」
「何でしょう……?」
「春海の友達に連絡は取れないだろうか?こんな時間だし非常識なのはわかっているが、出来るなら会わせてやりたいんだ」
迎えに来てもらった車中でぼんやりしていると、春喜さんから声がかかる。
仕事で来られる機会が少なかったことを悔いているのか、春喜さんの表情は暗い。
頷く秀美さんの顔からも、もはや希望という文字は読み取れなかった。
二人くらいしか心当たりがないことを伝えた上で、俺は野口と宮本に連絡を入れる。
同じ中学でもあった野口の家は俺の住む施設と近いので、こちらから春喜さんの車で迎えに行くことにした。
宮本に関してはこちらから迎えに行くよりも、家の車で向かった方が早いという話だったので、独自に向かってもらうことになった。
間に合え……そう思ってふと自分がもう春海のことを諦め始めてしまっているのでは、と気付いてしまう。
しかしあの春海の姿から元の元気な姿に復活する様子を、誰が想像できる?
不意に理解してしまう。
最近俺が感じていた不安の正体は、おそらくそのことへの恐怖。
死という未知のものへの恐怖だ。
「大輝くん、大丈夫か?」
自分だって絶対辛いに決まっているのに、俺なんかを気遣って春喜さんは声をかけてくれる。
「しっかりしてくれ。春海をがっかりさせたくはないだろう?」
そうだ、俺はしっかりしていなければ。
そう考えていたところで野口の家の前に到着。
雨の中外で待っていた彼女を乗せて、車は再び走り出す。
運転する春喜さんはかなりの速度で飛ばしている。
結果としてパトカーに追われることもなく病院へ着くことができたのは、僥倖というやつかもしれない。
しかし駐車場を出て病院に入っても、まだ宮本の姿は見えないが……。
「すみません、ご連絡いただきました姫沢春海の父です」
春喜さんが受付に呼びかけると、中から当直の看護師が顔を出した。
「お待ちしておりました、こちらです」
そう言って看護師が俺たちを案内しようとしたところで、宮本が走ってくるのが見えた。
「はぁ……はぁ……ご、ごめんなさい……。ギリギリ、間に合ったかしら……」
息も絶え絶えの様子の宮本だったが、俺は構わずエレベーターに乗る様言って手招きする。
少しふらつきながら宮本もエレベーターに乗り込んで、ドアが閉められた。
春海の病室がある階に到着するまでの間、誰一人口を開かない。
おそらく誰もがもう覚悟を決めてしまっているんだと感じた。
この時点で一番覚悟が足りなかったのはきっと、俺なんだろうと思う。
エレベーターが到着するまでの時間が、やたら長く感じる。
このまま到着しなければ、俺は非情な現実を見なくて済むのかも、なんて考えが浮かんでしまう。
しかしそんな俺の考えを嘲笑うかの様にエレベーターはその口を開いて、俺に出ろと言っている様に思えた。
エレベーターを全員で降りて病室へ向かう廊下で、少し慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
春海の病室だろうか。
病室の前に着くとその予感が正しかったということがわかってしまった。
春喜さんも秀美さんも、野口も宮本も、全員の表情が固い。
どれも俺の知る普段の顔ではなかった。
入っても良いのかと考えていると看護師が病室のドアをノックする。
「開けます」
そう言って看護師がドアを開ける。
中ではあの女医さんが看護師に何やら指示をして、それを聞いた看護師が慌ただしく動き回っている。
「いらっしゃいましたか!!どうぞ中へ……春海さん、聞こえますか!?ご両親とお友達が見えましたよ!!」
女医さんが春海に必死で呼びかける。
春海に意識がないのか、春海はピクリとも動かない。
まさか……いや、心電図だかの波形は乱れて見えるが、動いている。
しかし、俺の足は入口から中へ進むことを拒んでいるかの様に固まって動かない。
「大輝くん、どうしたんだ?中に入りなさい」
春喜さんに促されるも、脚がどうしても前に進んでくれない。
この期に及んで、俺の体は心の底からビビってしまっている。
「ダメだ……入れない……」
「……ちょっと?」
宮本の声が聞こえる。
こんな時に何を、と思われているんだろう。
「……ダメだ……」
そのまま入口で蹲ってしまいそうになったその時、俺の体は宮本によって方向転換させられた。
宮本が俺の襟首を掴んで、その目はほとんど涙目で、俺を睨んでいる。
そして宮本の口元が歯を食いしばる様な動作をしたのが見えた直後、左頬へ衝撃が走った。
バァン!!という鋭い音と共に頬へ熱がこもるのを感じる。
ああ、殴られたのか……と理解するまでに数秒かかった。
そのまま俺はそこにへたり込んでしまった。
「しっかり……しなさいよ……!!」
宮本が右手を抑えながら言う、その目は怒りに燃えている様に見えた。
そうか、俺は宮本に引っぱたかれたのか。
「姫沢さんの彼氏は誰なの!?姫沢さんが、今一番……この瞬間に会いたいと思っているのは、間違いなくあなたよ!!私でも野口さんでもなく、ご両親をも差し置いて、姫沢さんが会いたいと思っているのはあなたなの!!そのあなたが、ここでへたり込んでいて!それでいいと思っているわけ!?早く立ちなさい、宇堂大輝!!」
俺は宮本のあまりの剣幕に気圧されて、身動きが取れなくなった。
そんな俺の様子を見かねて、宮本が再度俺の襟首を掴む。
そして、俺はそのまま立ち上がらされた。
「ちゃんと……自分の足で立って歩きなさいよ。あなたには、あなた自身の意志で彼女の前に立つ義務がある」
涙に濡れたその顔を俺から逸らし、宮本は俯く。
すっと動く影が見えて、それが野口だとわかった時、野口は俺の背後に回っていた。
「宮本さん、手離していいよ」
そう言って宮本が手を離し、俺から離れる。
次の瞬間、今度は背中に衝撃があって、俺はよろよろと病室へ足を踏み入れることになった。
野口が文字通り背中を押してくれたのだ。
「は、春海……」
「大輝……待ってたよ……」
意識が戻ったのか、弱弱しく言葉を紡ぐ春海の口元に赤いものが見える。
その赤は口元から胸元までを濡らしていて、それが彼女の血であることはすぐに理解できた。
「パパ……ママ……それに野口さんに宮本さんも……」
「春海ちゃん……」
「姫沢さん、ヘタレの彼氏を連れてきたわ。言いたいこと、言っちゃいなさいよ」
そう言われた春海が俺を見てふっと笑う。
消えかけているはずの命の、その最後の力。
全てを振り絞って頑張っている春海がいて、俺は何をしていたんだろう。
「大輝は……相変わらずだなぁ……」
「っ……ごめん……」
「でも、ちゃんと……こうして来てくれたから……いいよ……」
そう言いながら春海が、俺に向かって左腕を伸ばす。
その腕は春海のものとは思えないほどに細く、震えていた。
俺は恐る恐る手を伸ばして、血の気の失せ始めているその手を掴む。
折れてしまわない様に、努めて優しく。
「大輝は……いつでも温かいなぁ……赤ちゃんみたい……」
以前にもそんなことを聞いた覚えがあって、春海との思い出が蘇るのを感じた。
走馬燈の様に、出会いからの様々な瞬間が頭の中を駆け巡っていく。
「こんな時まで……何言ってんだよお前は……」
「パパ……ママ……」
「……何だい?」
「どうしたの、春海」
俺の手を離さず、そのまま両親に呼びかける。
春海としても、言いたいことが沢山あるはずだ。
そして、残された時間はもう僅かなんだということが、手に触れてわかってしまった気がした。
「今までごめんね……沢山我儘言ったと思う……」
息を切らしながら、切れ切れに言葉を紡いでいく。
春海自身もおそらくその瞬間をもう自覚してしまっているのだろう。
顔から生気を感じることは、もうできなくなっている。
「春海……そんなの、全然だよ。春海は他の家の子に比べたら、手のかからない子だったんだから」
「そうよ、逆に何か我慢させたりしてないか、って心配だったくらいなのよ……」
我慢していたであろう両親も、とうとう溢れ出す涙を抑えきれなくなった様だ。
もはや、我慢する時は終わったと思ったのかもしれない。
「今日までありがとう……二人の子どもで……良かった……」
「春海っ……!!」
春喜さんも秀美さんも、声を我慢することなく泣いていた。
そんな二人を見ても、俺は未だに涙を流せずにいる。
いつから俺は、こんな冷血人間になってしまったのか。
「野口さん、宮本さん……」
「何?春海ちゃん、何でも言って?」
野口が俺の脇から春海に声をかける。
宮本も野口の反対側から春海を見つめていた。
「今まで……仲良くしてくれて……本当にありがとう。すごく……楽しい時間だったよ……」
「お互い様だよ!!私だって、春海ちゃんと宇堂くんのおかげでどれだけ楽しかったか……!」
「クラスで浮き気味だった私に……初めてまともに話しかけてくれたのは、姫沢さんだったわ。その時から、私の高校生活は色を変えたの。お礼を言わないといけないのは、私の方だわ……」
言いながら野口と宮本も涙を止められない様子だった。
そして二人はベッドの反対側に回り、俺が握っていない方の、右手を握る。
「最後に、大輝……」
「やめろ……最後なんて言うな……」
そう言っている俺も、もうすぐ目の前にその瞬間は迫っていることを理解してしまっていた。
春海の目が、もう光を持っていなかった。
その目からはほとんど視力が失われているのかもしれない。
「大輝……抱っこ……」
そう言って春海が、体を起こそうとする。
俺たちはその手を離して見守っていたが、体に上手く力が入らないのかもしれない。
「……これで、いいか?」
二人に促される形で春海の上半身を起こし、その体を抱きしめる。
お前、こんなにも細くなっちまってたんだな……。
まるで別人みたいだよ、本当……。
「ずっと、こうしたかった……」
「バカだな、俺だってそうだよ……何ならお姫様抱っこだって……」
春海が入院することになったあの日、お姫様抱っこを断念したことを今になって後悔した。
あの時、最後のチャンスだったのに、何で俺はそんなこともしてやらなかったのか。
「ありがとう、でももう十分だよ……だって、また必ず会えるから……」
俺に抱きしめられながら、耳元で弱弱しく紡がれる言葉。
さっきも言っていたことだが、全くもって意味がわからない。
俺は今、これからもお前と一緒にいたいんだ。
だから、行かないでくれ!!
俺はまだお前に何もしてやれていない!!
俺たち、まだこれからのはずだろう!?
いずれの言葉も心に浮かぶのみで、口にしたいのに喉が詰まった様になって声にならない。
なのにここまで来ても尚、俺はまだ涙を流すことができなかった。
「大輝……」
俺を呼ぶその声と共に、春海の腕から……体から、力が抜けていくのを感じた。
「大好き」
これが、彼女の……春海の最後の言葉になった。
最後のこのセリフだけは、今までの様な弱弱しさを感じさせない、はっきりとした発音だった。
そんな彼女の寝顔は、安らかであると言えるのだろうか。
少なくとも、俺には笑顔に見える。
言いたいことは言えた、という満足げな顔。
俺が愛した、春海の笑顔そのものだ。
「午後十一時二十三分、ご臨終です」
女医さんが口にした、テレビなんかでよく聞いたセリフ。
実はここまで全部芝居だったんじゃないのか?なんて考えてしまう。
しかし、それまで騒がしかった病室が、水を打った様に静かになって現実であることを思い知らされる。
俺の腕の中で息絶えた彼女の体からはすっかりと力が抜けて、全体重がかかっているはずなのに重さを感じない。
人が死ぬと、ニュートリノ以下の幽子と呼ばれる分の質量だけ体から抜けて軽くなるとか言うが、関係があるのだろうか。
どうでもいいか、そんなこと……それよりお前、痩せすぎだぞ。
前はこんなに軽くなかった。
もう少し柔らかさを持っていた。
首が重力に負けてぶら下がる様になるのを、慌てて左手で支える。
そしてそれまでそれなりに熱を持っていたはずの春海の体から、熱がどんどん奪われて行って、生命活動を終えてしまっているんだということを実感する。
もうどうにもできるはずもなく、わかりきっていることなのに、俺は温めたら何とかなるんじゃないか、なんていう謎の使命感に支配されて今までよりも強く、春海の体を抱きしめた。
「宇堂くん……」
宮本の心配そうな声が聞こえた。
「春海が……春海の体が冷たくなってきてるんだ……」
「大輝くん……」
秀美さんの涙声が聞こえる。
「温めてやらないと……だって、あいつはまた会えるって……」
「ダメだよ、宇堂くん!!」
泣き叫びながら、野口が俺を春海から引きはがそうとする。
「だってあいつは!!また会えるって言ったんだ!!だから!!」
「もう、休ませてあげようよ!春海ちゃん、私たちが来るまで頑張っててくれたんだから!!」
「だけど!!春海は!!」
「大輝くん!!」
春喜さんが俺の体を力づくで抑えて春海から引きはがし、野口と宮本が春海の体をベッドに戻す。
俺も、もはや何をしているのか、何がしたいのかわからなかった。
春海の体に触れた野口と宮本が、その体から感じた冷たさに息を呑んだ。
看護師が前に出て、春海の衣服を直しているのが、俺の病院で見た最後の光景だ。
以前から感じていた感情はすっかりと消え失せ、俺は気づけば病室を出ていた。
何処をどう歩いたのか、ほとんど無意識で俺は施設に歩いて戻った。
かかった時間なんかどうでも良い。
俺にはこれで、何もなくなってしまった。
春海がいなければ俺は、もう何の価値もない抜け殻みたいなものだ。
春海が俺に、生きる意味や楽しさを、教えてくれていた。
なのに俺は結局、春海に何もしてやれなかった。
そして朋美の様な理解者はもう、こっちにはいない。
連絡だけでもしておけば良かったのに……俺は一体何をしていたんだろうか。
正直朋美に会わせる顔がないと思う。
あの時誰も追ってこなかったのはきっと、漸く俺をみんなが見放してくれたんだと思って、微かに笑いが漏れる。
こんなことが贖罪になるとも思えないが、春海の意志でもあった朋美への連絡だけでもしておこうか。
こうなってしまったら……もう、正直に言うしかないよな。
『しばらく連絡できなくて悪かった。春海が死んだよ』
これだけ打って送信して、俺は携帯を床に置いた。
そして俺自身も、壁にもたれかかる様にして自室でへたり込んだ。
俺にとってもまた全てであったはずの春海がいなくなって、俺は本格的に一人になってしまった。
春海は俺とまた会えると何度も言った。
どうやったら、俺は春海にまた会えるんだろう。
そんなことを考えながら、俺は意識を手放す。
携帯がメールを送った直後から着信を知らせているが、俺には出る気力も勇気もなかった。
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