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ワンライにて

静井けむ

林檎

「いっ」

林檎を剥いていた彼女が、左手の親指を少し切ってしまったらしい。

「大丈夫?」

「うん。ありがと」

ごめんね、うさぎさんの耳、切れちゃった。と申し訳なさそうに笑って、不格好な林檎のうさぎらしき彫刻がふてぶてしく突っ込まれた器を、私の前に差し出した。

「味は保証するから。味は」

「味って…別に、可愛いと思うよ。ちょっと芸術的だけど。いただきます」

ご冗談を、と笑う彼女を尻目に、添えられたフォークで林檎を突き刺した。

「あっ、うさぎさんなのに…容赦ない…」

「うん、美味しい。ありがとう」

「……もう」

どこか物言いたげな視線を流して器の中を空にすると、彼女はむくれたまま帰り支度を始めた。鞄に下がった鍵がキーホルダーとぶつかってチャラチャラと音を立てる。

「まあ、美味しいなら良かった。また来るね」

「そっか。ありがとう」

またね。と彼女が手を振る。私はバイバイ。と手を振った。


「来たよー。元気にしてる?」

「昨日来たばっかでしょ?」

「ん…まあ、そういう話もある」

すました顔で言う彼女。結局我慢できなかったのか、すぐに吹き出してしまった。つられて笑えば、ますます可笑しくなって二人でしばらく笑った。
ひとしきり笑った後。彼女はまだ収まらない笑いのなか、持ってきていた果物かごを漁って赤い果物を取り出した。

「はははは…あぁ、そうそう。ふふっ。今日は、これです!」

「あれ、林檎?」

「そ、練習してるの。誰かさんにバカにされましたからね!」

「そうなの?頑張ってね」

「………頑張らせていただきますよ」

なぜか機嫌を損ねてしまったようだが、まあ、しばらく林檎と格闘したら忘れてくれるだろう。それまでは触らぬ神に祟りなしだ。本でも読んでいよう。


「できた!ほら、どうよ。やればできるんだから」

目の前に突き出された器の中には、なるほど林檎のうさぎが整列している。

「わ、すごい。昨日林檎を芸術にしたのと同じ人だとは思えない」

私がそう誉めると、彼女は自慢げだった顔をひきつらせた。おっと、虎の尾を踏んだか。

「ごめんごめん、ちょっとふざけすぎた。凄いよ。よく頑張ったね」

慌ててフォローを入れると、思い切り頬を膨らませられた。ちょっと意地悪が過ぎたらしい。どうどう、と空いている左手で彼女を宥めながら林檎にフォークを突き刺して、歯を立てる。
しゃくしゃくと私が咀嚼しているうちに落ち着いたのか、新しく林檎を突き刺した私にこう言った。

「あっ、うさぎさんなのに…容赦ない…」


「ごちそうさまでした。ありがとう」

「…うん。お粗末様」

彼女は持ってきていた食器を片付けて、鞄に腕を通した。視線は、昨日はしていなかった腕時計に向けられ、鞄では車の鍵がキーホルダーとぶつかってじゃらじゃら音を立てた。

「ごめん、そろそろ…また来るね」

「そっか。ありがとう」

バイバイ。と手を振ると、彼女は少し躊躇った後、またね。と手を振った。


「ありがとうございました。あの…」

「ええ。残念ですが…以前にも申し上げましたように、もう、目覚めないかもしれません。今度目が覚めても、貴方の事を覚えているかどうか…」

「………分かりました、ありがとうございました」

「いえ、貴方のような方がいらっしゃって、患者さんも幸せだったと思います。…では、おやすみなさい」

「はい…おやすみなさい」



“日に一個の林檎は、医者を遠ざける”と言う諺がある。


これはそんな諺と、
かつて禁断の果実とも同一視されたひとつの赤い果物に縋った、
一人の少女の物語。

その、ほんの一部を微睡みの合間に垣間見た、
一人の患者の語る、
ちょっとした夢の話。

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