元魔王と元社畜のよくある冒険

プロローグ

目を閉じれば世界は彩やかに煩わしく輝いていて、けれど開いてみればただひたすらに黒く何も無い。
有限なのか無限なのかも、上を向いているのか下を向いているのかも分からない。
自分という存在を認識出来る感覚をじわりと奪われていくような、そんな場所に男は今投げ出されていた。

(世界を覆う外殻の外には、こんなにも黒いモノがあったのか。)

漂う男は冷静に思う。このまま自身の存在が解けていくのを感じるのも良いだろう。
しかし目を閉じてみれば、そこには外殻に庇われた数多の世界が広がる。
このままこの黒いモノに同化して世界を眺めるだけと言うのは、やはり色々とつまらないと感じるのだ。

(長居は不要、か......。)

そうして目を閉じて、瞼に映る世界に手を伸ばした。


***


「片山さん、まだ残りますか?」
「うん。もうちょっと掃除して帰るから、先に上がっていいよ。」

ファミリーレストランの厨房で掃除をしていた片山美月は手を止めて立ち上がり、声を掛けてきた後輩に顔を向けた。

「明日も学校でしょ?こんな社畜に構ってないで、さっさと帰った帰った。」
「そうですね、社畜は置いて帰ります。」
「お姉さんちょっと傷付いた。」
「自分で言ったのに......」

金銭的な問題で大学への進学を諦めた彼女は、どうにも就職する気になれずフリーターになった。ずっとバイトをしていたファミリーレストランで、高校卒業後の社会というものがいまいち分かっていない頃に気が付けば会社の保険に入って、気が付けば契約社員のようなものになっていた。だらだらと続けるうちに辞める機会を失い、気が付けば25歳。

「じゃあお先です。」
「お疲れ様、気を付けてね〜。」

笑顔で手を振り、ぽつんと一人残された瞬間に突如襲う虚無感。最低限だけ点けたままの電球の灯りが、その虚無感を一層強くした。
それを振り払うように勢い良く再びしゃがみ込み、膝を着いて覗き込むように揚げ物の機械の下に手を伸ばす。

「はぁ......。何よこの油の塊。こぼした時にこぼした時奴が拭けっての。」

文句の一つでも言いながらやらなければ、寂しさや虚しさに飲み込まれるような気がした。時間が経って固まった油を取り除き、ついでに別の所も掃除しようかと厨房内を見渡したところで、ふと彼女は我に返った。

「……今日はもうやめよう。」

そもそもこんな掃除をして帰らないといけない訳ではない。今日やるべき事は終わっているのだ。
そう思うと一気にやる気を失った彼女は、素早く手を洗い事務所に行って着替えを済ませた。ボートネックのパフスリーブニットとシンプルなスキニージーンズ。ローヒールのパンプスでぺたぺたと暗い道を歩く。まだ朝晩は少し肌寒い桜の咲くこの季節は、冬とはまた違った人肌恋しさを感じさせた。

5年前、彼女が20歳になるのを待っていたかのように母親は逝ってしまった。そのすぐ後に、どこに居たのかも知らなかった父親が死んだと、その再婚相手の女性が連絡をしてきた。まるで母が連れて逝ったようだと、他人事のように感じたのは覚えている。
決して母と仲が悪かった訳ではない。むしろ仲は良かった方だと思うのに、そこから逃げるように住んでいた小さなアパートから引っ越した。業者に頼める余裕も無く、引越しは仕事先のファミレスの人達に頼んで手伝ってもらった。
そうして出来上がった、最低限の荷物だけ詰め込んだ新しい自分の城。前よりも狭くなったその城で、独りぼっちになった安心感から涙が溢れたのも覚えている。

けれどやはりどこか寂しいのか、誰かと一緒に居たいと手を伸ばした事もあった。けれど一時繋がれた手を離すのも、結局それが煩わしくなった自分自身だった。
(それでも人肌恋しいなんて思うのは、自分勝手なんだろうなぁ。)
ドアの鍵を開けようと、小さなショルダーバッグ中から鍵を取り出した時だった。

「ーーー」

低く甘く、けれど冷たい声が聞こえた様な気がした。

「ん?」

鍵穴に差し込もうとした手を止めて、何となく彼女は後ろを振り返った。しかしそこには何も無く、先程歩いてきた道が街灯に照らされているだけだった。しかし気味の悪さや不快感は感じなかった彼女は、気の所為だろうとドアの方へと向き直り、改めて鍵を差し込もうと手元に目線を落とした。

その時、ふわり、と。先程聞こえた気がした声と同じ、甘く冷たい香りがした。

「届いたな。」

次の瞬間にはそうはっきりと、耳元でその声が聞こえた。反射的に振り返ろうとした彼女の手から、小さな鍵が落ちる音がした。
そうして彼女は、その世界から消えた。


***


どこまで続いているのか分からない程に広い草原と青い空。世界から消えた彼女が目にしたのは、25年の人生で初めて実際に目の当たりにするような、開放感に満ち溢れた景色だった。

「……は?」
「呆けていないでそこを退け。いつまで人の上に乗っているつもりだ。」

呆然とその景色を眺めていた彼女は声が聞こえた方向ーーつまり自分の座り込んでいる場所へと顔を向けた。そうして自分の目に映り込んだ人物に、息を飲んだ。

(うわ……。)

不機嫌そうにこちらを睨み上げる切れ長の金の瞳、すうっと通った鼻筋に薄い唇。あまり整えられていないミディアムヘアは男性にしてはやや長めだが、反して整った顔立ちのせいか不快感は抱かない。抱かないどころか、夜を写したようなその黒髪は金の瞳と合わさって、まるでそこだけが本当に夜の世界の様に思える。

「おい。」

こちらに気付いたはずの女がいつまでも退かない事に、男は一瞬苛立ちの色を濃くさせる。一瞬殺気を放ったがふと思い留まり、男は苦い顔をして深い溜め息を吐いた。

「言葉は通じているはずだ。状況の説明をしてやるからそこを退け。この体勢では話し辛い。」
「え?……あ、ああ!申し訳ございません!今退きます!」

そう言い終わるか否かで、女は先程まで呆けていたのが嘘かのように素早く上から退いた。何だったのかと思いながらも身体を起こしてそちらに目をやれば、女は若干距離を置いてこちらに向かって頭を下げている。

「……何をしている。」
「土下座です。」
「それは見れば分かる。何に対しての謝罪だ。」
「世界遺産レベルのイケメンの上にこのようなモブCが乗ってしまった事に対する謝罪です。」

一息で言い切られた文言に理解が追い付かない男は、立てた左膝に腕を乗せ頬杖をついた。少しの間頭を下げる女の姿を見ながら、もしや釣り針にかかったこの女は些か阿呆の類いなのではと思い至った。

「……何を言っているのか分からんが、もう良いから顔を上げろ。説明するにもそれでは話しが進まん。」
「う……はい。」

おずおずと顔を上げて座り直した女は、バツが悪そうな顔のままこちらを見ようとはしない。それに少々話し辛さを感じ、男は右手を草の上に着いて左手を伸ばした。

「おい。」
「は……いったぁ!?」

女は頭に手を置かれた事に驚くより、掴まれて無理やりそちらに向かされた事で少々首が悲鳴を上げた事に反応せざるを得なかった。

「何するんですか!」
「説明をしてやるというのにこちらを向かない方が悪い。」
「だったら先にこっち向けって言ってくださいよ!」
「キャンキャン喚くな、静かにしていろ。俺の記憶している限りこの辺りはーー」

男が何かを言いかけた瞬間、何かが遠くから近付いてくる足音が女の背後から聞こえた。咄嗟に女は振り返り、男はやはりか、と呟いた。

「ゴブリンが出る。もう出たが。」
「ひっ!?」

ビクリと女は肩を跳ね上げ、半ば条件反射のように男の後ろへと身を隠した。肩口から恐る恐ると言った風に顔を出して現れたゴブリンたった一匹を見る女に、先程まで意見していた威勢は全く感じられない。

「あれ如きにこれでは、先が思いやられるな。」
「先!?もしかして、あれと戦えとか言いませんよね!?」
「シャアアアア!」
「ひえっ!?すみません、すみません!」
「はあ……。何をゴブリン相手に謝っている……。」

まだ距離はあるというのに、怯えた女は出していた顔を引っ込め背中にしがみついて小さく震えている。それに今まで感じたことの無い感情が湧き上がるのを、男は確かに感じていた。
(あの者が抱いていたのは、この様な感情だったのだろうか。)
だとすれば、あまりに陳腐で矮小だ。この様な感情だけで立ち上がるなど、理解に苦しむ。だと言うのに、それも悪くないと今の自分には思えるのだ。

「ふっ……悪くない。おい、顔を上げろ。」
「何です……!?」

言われるがまま顔を上げた女は、突然重なった唇に困惑するしかない。当然目を閉じる間もなく、そして相手も目を閉じていないせいで、金の瞳があまりにも近い。抵抗などする間もなく一瞬で離れた男は立ち上がり、背中を向けてゴブリンに向かい合う。

「あの程度、一先ず貰うのはこれだけで充分だろう。」

そう言った男の右腕の刺青が光ると、その手には一振りの刀剣が握られていた。

「折角の初陣だ。どうせならば、もう少し骨のある相手が良かったか。」
「シャアアアア!」

棍棒を手に走り迫るゴブリンに冷たい視線を送ると、男は薄く口角を上げて腰を落として抜き身の刀を構えた。突如雄叫びを上げ走り迫ってきたゴブリンに女は小さく悲鳴を上げたが、ふと視線を感じて男を見上げる。目が合ったのは一瞬で、直ぐに男は視線を前に戻した。

「安心しろ。お前のことはこれから俺が守ってやろう。」

そう小さく言葉を落とすや否や、男は地面を蹴り前に出ると、刃を翻して振り上げた。

「シャ……」

一刀のもとに両断され切り伏せられたゴブリンは断末魔を上げることも許されず、走り迫った反動で上半身だけが地面を滑った。

「やはり物足りんな。」
「っ……!」

緑にこびり付くその血を見て、女は背筋が凍るのを感じた。先程までどこか遠かったこの知らない場所が、突然新しい現実なのだと突き付けられたような、そんな感情を抱かされたのだ。

「どうかしたか。」
「え……あ……。」

息絶えたゴブリンと女の間に、男が割って入り女を見下ろした。女の様子を見た男は少し思案し、思い至ってその場に腰を下ろして女の頭に手を置いた。

「俺には気休めの言葉は言えん。しかし……俺の勝手な目的の為にお前を呼び寄せた事は謝罪しよう。だが、守ってやると言った言葉は真実だ。」
「……はい。」

これ以上なんと言えば良いのか分からなくなった男は、未だに俯いて顔を上げない女を目の前にどうしたものかと空いた手を顎に当てた。

「……悪いが、これ以上はなんと言えば良いのか俺には分からん。」
「は?……ふ、ふふっ。」

一方で言葉に続きがあるのかと待っていた女はボソリと呟かれた最後の言葉に顔を上げ、男の表情を見て笑いが込み上げてしまった。それは真剣そのものといった表情で、真面目に考えた結果なんと言えば良いのか分からないと呟いた男は、突然笑いだした女に困惑するしかない。

「俺は何か可笑しな事を言ったか?」
「ふふっ……いいえ。言ってませんよ。」
「しかし笑っているだろう。」
「私が勝手に可笑しくなっただけです!」

納得は出来ないものの笑い始めた女に安堵を覚えた男は、その感情すら愚かなものだと自嘲する。しかしそれも不快ではなく小さく笑いを零した後、女の頭に置いていた手をそっと退けて立ち上がった。

「そう言えば名乗っていなかったな……ルーアだ。」

立ち上がった気配と突然の自己紹介に笑いを止め、女は同じ様に立ち上がってルーアを見上げた。彼女の方も決して低くはないのだが、180cmを優に超えているであろうルーアと目を合わせるには少々首が辛い。

「美月です。えっと……それで、ルーアさん。」
「ルーアで構わん。ついでにその敬語も止めろ。どうせこれから、長い付き合いになるだろうからな。」

長い付き合いという単語に、喜べばいいのか悲しめばいいのかまだ判断のつかない美月は苦笑いを浮かべ、そろりと先程のゴブリンが倒れた場所に視線をずらす。先程ルーアが立ち上がった拍子に目に映ったのだが、血の跡すらも、何も無かったかのように消えていたのだ。

「じゃあえっと……遠慮なく。さっきのゴブリンはどうしたの?」
「どうした、とは?」
「その、消えてるから……」

その問いにルーアは首を傾げると、何を言っているのだと言いたげな表情で口を開いた。

「ここでは普通の事だ。倒した魔物がそのままだと邪魔だろう。」
「……つまり邪魔になるほどあんなのがいっぱい居て、倒されるのが普通って事?」
「そうだ。こういう世界を表す言葉が、お前達の世界にはあると思うのだが……。なんと言うのだ?」
「えっと……ファンタジー、RPG?」
「よく分からんが、そうなのだろう。もう少し話しがしやすい場所へ行くか。ここはいつまた魔物が出るか分からん。」

そう言って歩き出したルーアの背中を少し眺めて、美月は周囲を見渡す。落ちていた自分のショルダーバッグに安堵し、それを拾い上げて動きやすい様斜めに掛けると、小走りでルーアに追い付いた。しかしハッとして、今更気付いた重大な事実に再び立ち止まったのだった。

「どうした。あまり離れられると困るのだが。」
「あ、ごめん……じゃなくて!」
「なんだ。」
「なんでその、上半身裸なの……。」

すごすごと追い付いてきたが、俯いて若干顔の赤い美月を見下ろす。ルーアは溜め息を吐いて口を開いた。

「それは今更聞くことか?」
「仕方ないじゃん!色々怒涛すぎて気が付かなかったの!」

人の上に乗って胸板に手までついて挙句背中にしがみついてきておいて気が付かないとはどういう事か、やはり阿呆か、と哀れみの目を向けて、ルーアは求められた事に答えを返す。

「俺は一度、この世界から弾き出された。上に着ていたローブは戦闘の後で悲惨だったからな。脱ぎ捨てた。」
「戦闘……。弾き出されたって……もしかしてルーア、死んでるの?」

先程まで赤かった顔からはその赤みが消え、不安そうな顔で美月はルーアを見上げた。その顔にまた抱いたことの無い感情を覚え、半ば無意識に美月の頭に手を置いた。

「死んだ。しかし今は、お前を契約者という核にして生きている。その点以外は他の人間と大して変わらん。」
「そっか……。あの……なんで死んだのかは、聞かない方がいい?」

おずおずと尋ねる美月に今教えていいものかと少し考えはしたが、ここで教えないのもかえって気にするかもしれないと思い、ルーアは美月を促しゆっくりと歩きだした。

「別に構わん。そういう役割りだったから死んだだけだ。これはこの世界の仕組みで、変えようが無い事だ。」
「役割り?」
「ああ。俺は元魔王だからな。倒されるのが道理だ。」

ピタリ、と数メートルも進まないうちに美月は歩みを止めた。ルーアはまあそうだろうと思いながら、立ち止まった美月の腕を掴んで引き寄せ、腰にもう片方の腕を回した。

「わ……!」
「ふっ……。元とは言え、魔王の契約者になったのだ。多少の荒事は覚悟しておけ。」
「ち、近い!それに聞いてない!というか、姿さえ見てないぐらい一瞬で世界飛ばされた!」
「元々、一か八かの賭けだったからな。」

掴まれていない手で胸板を押し返そうとして、素肌なのにハッとした美月は腰に回った腕を引き剥がそうとルーアの腕を掴んで身をよじった。当然引き剥せる訳もなく、抵抗するも顔の赤い美月に加虐心を擽られたかつての魔王は、腰に回した腕を背中に滑らせ更に力を込めた。

「ひえっ!」
「色気の無い……。」
「そう思うならチェンジで!」
「それは変えろということか?出来るわけが無いだろう。それに、色気がどうこうの話で言うならサキュバスの類いで見飽きている。やたらと露出の多い無鉄砲な女の冒険者もな。あれは好かん、不愉快だ。お前は絶対にあんな服装はするなよ。」
「流石元魔王様……。じゃなくて!露出度でいえばルーアも今大して変わらない!」
「男の上半身裸など、別に珍しくもない。」

万年常夏でもあるまいし、と諦めたように言葉を呟き、美月は抵抗を弱めた。ルーアが掴んでいた腕を離してやれば、そろそろと顔を上げて口を開いた。

「……なんで戻ろうと思ったの?」

当然の疑問だった。勇者に殺され役割りを終えた魔王がわざわざ別世界から契約者を引きずり込んでまで元の世界に戻る理由など、想像もつかないか復讐かのどちらかだろう。不安と言うよりは確認という決心を抱いた目でこちらを見上げる哀れな契約者に、元魔王は答えを返した。

「この世界を見る為だ。冒険者としてな。」
「……は?」

これは冒険者志望の元魔王と、モブC志望の元社畜の、どこにでもあるお話。

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