明日はきっと虹が見える

モブタツ

3ー3

「お姉さん!タイマー、鳴ってますよ!」
  隣から聞こえる美優の声でハッとなった。
茹で時間を少し超えてしまったが、もともと少なめにセットしていた時間だ。丁度良いだろう。
  お湯を捨て、麺をザルの中に移す。
  あらかじめ作っておいたトマトソースをフライパンに入れ、小さく、四角く切ったバターを三つ投入。火にかけ、すぐにジュクジュクと音を立てて沸騰したので、茹でた麺を入れ、軽くかき混ぜる。
「おぉ……素早い」
  隣で見ている美優の片手にはメモ帳が握られ、もう片方の手にはペンが一本装備されていた。
「皿に盛る時は、麺から先に盛ること。最後にソース。そうすれば、見た目が良くなるでしょ?」
「なるほど…!」
  説明しながら、麺を先に盛ってみせた。彼女は一生懸命メモ帳に書き残している。
「粉チーズをかけて、その上に」
  パセリを四振り。ボロネーゼの完成っと。
「美優ちゃん、健斗の分持って行って貰ってもいい?」
「はーい」
  ニタニタしながら、自分の分と健斗の分を持って行った。
「おぉ!すげー!うまそー!」
  リビングの方からは健斗の声が聞こえる。
  フライパンなどの調理器具は食べる前に洗いたい派の私は、手際よく洗浄を済ませ、二人が待つ所へ向かった。

「しかしまぁ…まさか記憶喪失になるなんてな」
「しかも忘れているのがお姉さんと祐樹君のことだけだなんて…」
  車に轢かれて頭を強く打った彼女は、その衝撃で記憶を失ってしまった。
  覚えていたのは昔からの馴染みである健斗兄妹と家族のことだけ。
  最近知り合った私と祐樹のことはすっかりと忘れてしまっていた。
『お姉さん、誰?』
  キョトンとした表情に、冗談だとか、からかいだとか、そんな様子は感じられなかった。
  知らない人が馴れ馴れしく話しかけてくる。そんな表情だ。
  その言葉の鋭さは私の心を貫いた。
  その言葉の重さは私の体にのしかかった。
  その言葉の冷たさは私の体温を奪った。
  その言葉は、大切な思い出を消し去った。
「…どうしたら思い出せるのかな」
  まだ取り戻せるかもしれない。そう思っていないと気が保たなかった。
「…正直なこと言うと、俺のことも美優のことも、少しだけ忘れてるみたいなんだよな」
「……どういうこと?」
「俺のことを健斗おにーちゃんと呼び出したのはちょっと前のこと」
「あたしのことは、美優おねーちゃんと呼んでました」
「でも今の恵美花ちゃんは…俺のことをケンちゃんって呼んでるんだよ」
「あたしのことはミーちゃんって。」
  どちらも、昔呼ばれていた呼び名らしい。
  つまりはどういうことなのかと問うと、彼は顎に手を当て、唸りながらつぶやいた。
「全てがそうだとは限らないけど…恐らく、恵美花ちゃんの記憶は小学2年生くらいまでのモノしか残っていないんじゃねーか?」
「あの子が小学2年生だったら…私のことなんて分かるわけないよね…」
  ということは、もちろん祐樹の事も分からなくなってしまったと言うことだろう。
「…それにしても」
  なんちゃってボロネーゼを口に運んだ健斗は唸りながら言った。
「お前の料理って、美味いな」
  正直びっくりしたわ。と呟いた。
「そんなことより、ほら。作戦会議しなきゃ」
「そうですね…。忘れられた点に関してはあたし達兄妹も同じ立場です。なんとしても治さなきゃ…ですね!」
  ふん、と鼻を鳴らす。
  正直、私はショックすぎて今はそれどころではない。作戦会議を開こうと提案したのは健斗だったし、私の家でやることを提案したのは美優だった。今、私ができること。強いて言うならば心の整理くらいだろう。
  どうしてこうなってしまったのだろうか。
  …いや。今はそんなこと考えている場合ではないのかも。
「美優ちゃんは…何か手がかりないの?」
「特にこれといったものは何も…」
  得策は特になし。記憶喪失と向き合うのは簡単ではないことくらいは分かっている。
  当然のことながら記憶喪失になった人と接した経験が全くない私達では打開策が思いつかなかった。
「どうしようもねーな。このまま話を続けてもキリがない」
  彼は手に持ったフォーク真っ直ぐに立て、ニッと笑って見せた。
  そして、得策を思いついたようにこう提案したのだ。
「観点を変えよう」
  その言葉は、私達の中に漂っていたどんよりとした雰囲気を消し去った。
「観点を?」
「お兄ちゃん、説明して」
  パスタを一口パクリと食べ、彼は人差し指を立てて言った。
「一度無くした記憶を取り戻すのは大変だ。まぁ、記憶喪失になった人間と関わるのは初めてだけどな。でも、簡単じゃないことくらいは分かる」
  それなら、と言いながらもう一度一口。
「それなら、もう一度最初から思い出を作ってみるんだよ。記憶を取り戻すのは、サブミッションってことで」
「サブミッションって…お兄ちゃん、簡単に言うけどそれも大変なことだよ」
「……でも、無策でいるよりはいいかも」
「お姉さん!?」
  そうだ。彼の言う通り観点を変えなければ打開策は生まれない。例えその策が解決する糸口にならなかったとしても、必ず何かに繋がるはずだ。
  この策にかけてみる価値はある。
「お、お兄ちゃん…本気…?諦めるの?」
「諦めるんじゃない。手を打つんだよ」
  彼はそう言った後「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせて食器を台所まで持って行った。
「置いといて。あとでまとめて洗うから。」
「いや。せめて自分の分くらいは洗うよ」
  スポンジに少量の洗剤をつけ、泡を立てる音が聞こえる。手元は見えないが、どうやら本当に食器を洗っているようだ。
「健斗って、見た目少しだけ怖いけど優しいよね。家でもあんな感じなの?」
  まぁ、きっと良い兄なのだろう。
  私が祐樹にしてあげたいことを彼は彼女にしてあげれている。
  家を出たあの日の祐樹の顔を思い出すだけで、私は自分が嫌いになるのだ。
「……美優ちゃん?」
  声をかけても、反応はなかった。
  隣にはしっかりと美優が座っており、彼女は健斗をしっかりと見つめている。
  不思議なことといえば、声をかけても反応がないこと。
  それと…。
「美優…ちゃん?」
  泣きそうになっていることくらいだ。
「あ、はい!すみません。なんですか?」
「いや、健斗って家でもいいお兄ちゃんなのかなーって思ってさ」
  私を不思議そうに見つめたその目は、確かに潤っていた。
「そう…ですね」
  そして、確かに…迷っていた。
「お前の作った飯。美味かった」
「え?」
  気がつけば、美優が見つめていた彼は私の隣に座っていた。
  まるで、彼女のことなんか気にもしていないようだった。
「さぁ。まずは散策だ。」
「散策…?」
「あぁ。思い出を新しく作ると言ったって、どうしたらいいか分からないだろ」
「お兄ちゃん、さっきから難しいことばっかり言って…」
「やっぱり、最初はあそこに行かないとだめだろ。お前なら分かるよな?」
  彼の目はこちらに向いている。
  彼の言う通り、私は最初から分かっている。
  最初にやらないといけないこと。
「分かってるよ」
「お姉さん!?」
「私が一番やらないといけないものだよね…………分かった。」

「まずは散策、だね」

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