夏の終わりに微睡んで

一榮 めぐみ

夏の終わりに微睡んで

 頬を撫でられたような気がして、私は目蓋を開いた。夏の終わりを思わせる涼しげな風が私の転がっているベッドの上を吹き抜ける。視線を移して、窓から外を見た。曇天の灰色の雲と、深緑の木の葉が風に揺れるのが見える。ツクツクボウシの鳴き声が幾つも重なり、こだまするように耳に響いて煩い。


 真っ白な天井を見ながら、ここがどこなのか思い出そうとするけれど、頭がぼうっとして思い出せない。そもそも、私はベッドが好きではない。だから私は床に布団を敷いて寝る。……そう、だからここは、私の部屋ではない。


 体を起こして部屋の中を見渡す。真っ白な壁に囲まれた小さな部屋には家具らしい家具は何もなく、扉の無い部屋の入口だけがぽっかりと開いている。


 しばらくその部屋の入口を見つめていると、純白のワンピースを纏った少女が部屋へと入ってきた。少女はこちらに歩いてくるとベッドの脇にしゃがみ込み、ゆっくりと私を上目遣いで見上げた。


 黒く艶やかな長い髪と、ピンクに染められた唇が、白いワンピースに美しく映える。そのまま、少女は目を細めて妖しく微笑んだ。その可愛らしくも艶っぽい漆黒の瞳に、私は釘付けになる。
 私を見つめる少女の眼差しは、思考を巡らせることなく真っ直ぐに私に赦しを与えている。


 私は少女に優しく微笑んだ。顔にかかる長い髪をそっと払いのけると、そのままその頬に触れる。しなやかな髪が手から滑り落ちる感覚と、ほんのりと温かい肌の柔らかさに、胸が熱くなる。少女は私を見つめたまま、両手を伸ばして私の頬に触れると、身を乗り出して顔を寄せる。唇が触れ合う寸前に、目蓋を閉じて呼吸を止める。


 ――ちょっと待って。私も"女"なのに何をしようとしてるの……!?


 そう思った途端、私は再び眠りから目覚める。さっきのは……夢だったのだろうか……あまりにも不思議な感覚に、胸が波打つ。やはり、どこからともなくツクツクボウシの鳴き声が聞こえていた。無意識に寝返りを打つと、私の横で一人の男性がベッドの上に座ったまま、窓から外を見ていた。少しクセのある短い髪が、風に揺れる。私はすぐに視線を反らし、周囲を確認する。石造りの灰色の壁に囲まれている小さな部屋には窓がひとつ、出入口もひとつ。どちらもぽっかりと開いていた。


 横の男性に視線を戻すと、私に気が付いた様子で頭を優しく撫でてくれた。そしてそのまま立ち上がり、部屋から出ていく。


 ひとり、部屋に残された私は、ここがどこなのか確認しようと起き上がり、窓から身を乗り出した。


 窓の外には、見たこともない景色が広がっていた。ぽつぽつと生えている空高く伸びた大樹の下に、小さな建物が疎らに建てられている。大樹の下の集落のひとつ、その二階に今の私は存在しているらしい。窓の直ぐ下を見ると、先程の男性が何処かに歩いていくのが見えた。
 私は咄嗟に、その人を追いかけようとベッドから降りた。ぽっかりと開いた出入口をくぐり、裸足のまますぐそこにあった石の階段をひたひたと降りていく。もうすぐ外に出られる、そう思ったとき、足の冷たさが気になって足元を見た。


 足元には、淀んだ水が広がっていた。急いで顔を上げると、仲間の女の子が二人、私の前を並んで歩いている。何故、仲間だと思ったのかもわからない。けれど、私は疑うことなく水の上を歩き、彼女たちの後を追いかけた。深い海のような水に、沈まないよう慎重に。


 やがて、コンクリートの広がる港へとたどり着き、私達はそこへ上がる。機械の音がゴウゴウとどこからともなく響いていた。目の前には、宇宙にまで伸びるほど高く巨大な建造物があり、上の方は見えなかった。けれど、私はその上に行かなければいけないのだと、わかっていた。その時は、私達以外に人の気配は無かった。


 コンクリートの柱の陰から陰へと移動しながら、少しずつ上の階へと上がっていく。そして、建造物の中層あたりに辿り着く頃には、周囲の柱はコンクリートではなく、鉄柱に変わり、黒っぽい鉄の壁で覆われている部屋が並んでいた。


 狭い通路を通り抜けて行くと、奥に広い通路が広がっているのが見えてきた。陰から覗き込んで、一瞬、目を疑う。虚ろな目をした女性が、ずらりと並んでいるのが見えた。数千人、いや、数万人いるかもしれない。その列はゆっくりと何処かへ向かっているようで、皆がそろって同じ方向を見つめているのが異様だ。


 どうやって三人でここを切り抜けようかと悩みながら、後ろを振り返る。けれど、そこにはさっきまでいたはずの二人の姿はなかった。


 不思議と驚きはなかった。私はもう一度、人の溢れかえる広い通路を見据えた。その最後尾に並ぶのはほかでもない、さっきまで一緒に歩いてきた二人だった。その時初めて、二人の表情を思い出した。一緒に夢中になって上を目指していたものの、私とは一度も目が合わなかった。あの二人は、最初からずっと二人だったのだ。そこに私という異物が混じっていただけのこと。仲間でも何でもなく、最初から目的が違っていたのだ。私の目的は、こんな行列に加わることではない。もっと上に行かなくてはいけない。そう思うと、私には何の躊躇いもなくなった。呼吸を整えると、その広い通路に並ぶ人達を無視して歩き出す。誰も私に見向きもしなかった。私はそのまま、上階へと続く通路をひとりで上っていった。ひとりで歩くには広すぎる坂道だった。
 上階が見えてくると、突如として差し込む光に目が眩み、目蓋を閉じた。聞こえていた機械音が遠ざかり、ツクツクボウシの鳴き声がどこからともなく聞こえてきた。


 目蓋を開く。古い木造住宅の縁側で、私は庭を見ている。庭師がひとり、汗を拭いながら庭木の剪定をしていた。背後から足音が聞こえて振り返ると、冷たい飲み物をお盆に載せた女性がぱたぱたと歩いてきた。カランカランと、硝子のコップの中で、透明な氷が揺れる音が響いた。


 庭師が剪定用の刈込鋏を握ったまま此方へと歩いてきて、にっこりと微笑んだ。私は何故か、その笑顔に恐怖を覚えた。咄嗟にその場から逃げ出そうと走り出した。走って、走って、どこまでも走った。けれど、逃げ出すことを許さないように、その縁側はどこまでも続いている。出口のない迷路に迷いこんだような不安感が押し寄せてくる。次第に動悸が激しさを増し、呼吸が苦しくなってくる。恐怖は大きくなるばかりで、後ろを振り返ることはできなかった。振り返ってはいけない気がした。


 ツクツクボウシの鳴き声が幾重にも聞こえる。どれだけ逃げても、その耳に刺さるような鳴き声が私を追い詰める。私は助けを求めるように、誰もいない虚空に夢中で手を伸ばした。誰も私の手を握らない。誰も助けてくれない。私が堕ちたこの場所に、私を助けてくれる人は誰もいない。


 不安感が煽られて、恐怖心に支配される。触れた感覚も、見えたものも、全てが幻だと思った。


 そう――少女に触れた感覚、男性に頭を撫でられた感覚、冷たい水の感触、光の眩しささえも……。だから私は走るのをやめて立ち止まった。両手で胸を押さえながら、ゆっくりと後ろを振り返った。


 ――その瞬間、何かが私にぶつかる感覚がして、思わず目蓋をぎゅっと閉じた。


 暗闇が広がり、何も見えなくなると全ての音が消えた。深い闇の中では、自分の存在すら疑う程の虚空に包まれる。


 『夢』というものは、いつも私を混乱させる。


 最初から、これが『夢』であることは理解していた。しかし何故あんな夢幻を見たのだろう。何かのまやかしにでも遭っているのだろうか。


 一寸先も見えない暗闇の中で、ひとり佇んで、全ての感覚も、呼吸さえも忘れてしまいそうになる。『夢』は、あちら側にとても近いところに繫がっていて――私は無意識に此処に来てしまうことが時々ある。きっと、このままこの闇に溶けてしまえば……私はこの闇の一部になって、消えていくのかもしれない。闇に、消える。それもまた良いのかもしれない。けれど……それは、出来ない。


 何も無いのではなく、暗い闇が在る。何も無いというのはもっと、寂しいものなのだ。人の目というものは、実に頼りないもので、光の無いところでは何の役にも立たない。


 確信は無いけれど、この目で見たものも、私が感じた何かも確かに此処にある。私以外の誰かがそれを確かめることができないとしても、知ることすらないとしても、私はそれを認識しているのだから。


 一歩、また一歩と歩き出すと、周囲の闇が徐々に晴れていき、少しずつ白い壁がその輪郭を現した。床と天井と壁の区別もつかないような何も無い白い廊下を真っ直ぐに進んだ。


 先の部屋から人の気配を感じて歩いていく。部屋に入ると、真っ白なベッドの上で純白のワンピースを纏った少女がこちらを覗き込んでいた。私は近づいていくと、ベッドの脇にしゃがみこみ、上目遣いでその少女を見つめた。


 私が微笑むと、少女も微笑む。少女は両手で私の顔にかかる髪を退けて、私の頬に触れる。そのまま引き寄せられ、私は少女の上に覆いかぶさるようにベッドにうつぶせになった。


 柔らかな感触が、私の意識を支配した。この少女が誰なのかも知らないし、私がどうしたいのかもわからない。けれど、違和感はなかった。とても自然で心地が良いと思った。身体を横にして少女と向き合うと、二人で同時に微笑んだ。二人で手を取り合い、見つめあう。まるで、いつもそうしているように、当たり前のことのように。


 私はつまらない感情ばかりに気を取られて、果たすべき目的を見失っていたような気がする。私は誰かのために存在しているのではないし、他人の道を、自分の道と勘違いして進んでは迷う。他人の恐れを、まるで自分のことのように恐れていては、自分を見失う。それさえ忘れなければ、今よりもずっと楽になれるのに、そんなことにこだわっていては、先に行けないのに、私は何をしていたのだろう。


 少女はいつも通り透明な眼差しで、何も見失っていない。今の私がどんな表情をしているのかはわからないけれど、見えなくても分かる気がした。もっとも、目に見えない魂や心というものは、いくら鏡をのぞき込んだとしても見ることはできないのだけれど。


 どこか遠くから聞こえるツクツクボウシの鳴き声が、耳鳴りのように他の音をかき消していた。それが、ゲンジツなのだと心の何処かで気がついていた。


 湿気を帯びた風が吹き抜け、目蓋を閉じた。少女が私を忘れないように、私が少女を忘れないように、握り合う手の温度を確かに感じながら、そっと、目蓋を開いた。

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