Untitled

雁木夏和

Untitled 01-001

 ただずっとぼーっとしていた気がする。見渡す限りにはなにもない。目を開いている感覚はあるが、一向に網膜は何も映さない。ただ目を開けている感覚だけがある。

 触覚すらなにも感じない。自分の体の存在を感じ、動かすことは出来るが、身体のいずれの箇所も何かに触れているという感覚がない。胸にも、背中にも、腰にも、尻にも、手足にも。手であたりを探ってみるが何かに触れることはないようだ。

 他にも、歩く走る飛ぶ泳ぐなどの真似事をしてはみたものの、体がその場から動いている様子は微塵も感じなかった。ためしに自分の手を胸にあててみる。すると漠然と手のひらは胸を押し、胸は手のひらを押し返し、互いに圧力を加え合う。すると当然のように手のひらと胸に漠然とした触覚がつたわった。ただし、体温を感じなかった。手と胸の温度が均一とは到底思えない。どうやら自身の感覚器官はおかしくなっているようだ。

 重力すら感じない。息苦しさを感じていないことから、呼吸ができていると仮定する。では一体何を吸って、何を吐いているのだろう。一度、意識的になるべく丁寧に呼吸してみる。
吸う。何かを吸っている。吸えども吸えども、肺が満たされる感覚はないく、当然体が膨らんだりもしない。ただずっとそのなにかを吸っていられる。しかし、ずいぶんと肺に溜まった何かを吐かずに耐えられる。あらかた予想はついていたが、吐いてみたらずっと息切れすることなに吐き続けることが出来た。苦しさを感じないことから呼吸という行為に意味はないのだろう。

 自力でこの事態を収拾する術が思いつかない。誰か助けを呼んでみよう。思い切り口角を開け、腹の奥から声を出してみる。が、喉すら震えることなく、当然声になどはならなかった。助けを呼ぶことも叶わないとなってくると、いよいよお手上げである。

 なにか変化がないか、じっと息を凝らして何かを待ってみようとして、既視感を感じた。これは二回目だ。おそらく自分は目的の意図を忘れてしまうほどの期間、ここでこれから起こる何かをひたすら待っていたのだろう。なるほど、ここには何もないのだろう。

 内側への探索を試してみる。この何もない空間と自分を隔てる壁の内側を。自分は今まで、つまり何もないこの状態になるまでに、どこでなにをしていたかということだ。少しの前のことは容易く、日頃のこともしっかりと、昔のことも朧気に覚えている。寧ろ、記憶力は日頃より幾ばくか冴えているようだ。

 ただ、少しまえのことは覚えていても、こうなってしまう瞬間なにが起こったのかまでは分からない。自分が普段生活している循環の中、突然この何もなくなってしまったのだ。ためしに昨日の記憶をさぐってみるが、克明にではないけれども何があったのかは思い出せるし、ずいぶん前のことだって記憶している。自分の好みだって熟知しているのだ。そこでまた既視感を感じる。大きな間違いに気づいた。

 さきほど、ただずーっとぼーっとしていたのは、何かを目的を忘れてしまう間待ち続けたのではなく、内側への探索がついぞ完結してしまっていたのだ。というのも、自分自身の記憶というもの一切合切を知り尽くしてしまっているのだ。思い出せないこと以外はすべて思い出せるし、自分以外知りえないことも覚えている。そうだ、この行為にも意味がない。実際に十分な時間幾度となく、同様に自分の記憶に向き合ったことを記憶しているのだ。記憶をたどるのは下策だ。






 またしばらく、ぼーっとしていた気がするが、こうなってからは感情の起伏を感じない。喜びや楽しみといった感情も、恐怖や悲しみといった感情も。自身にできることはいまここで、何が起きるのかをひたすら待つしかない。幸いにも退屈を感じることも無かった。

 突然視界が光に覆われた。何もない空間に光が満たされる。暗闇に閉ざされていた両目に輝かしい彩りが舞い込んできた。

待っていた何かが起きたことの驚きよりも、喜びの方が勝った。状況把握に努めよう。光を放つ大小様々な色や形の光源が無数に自分を縦横無尽に取り巻いている。

 眼の前で繰り広げられる幻想的な現象に唖然のしていると、正面の一際大きな白い光の塊から意思のようなものを感じた。

 白い光を注視してみる。朧気ながら四足獣の頭部から大きな二対の角が生えた、鹿のようなシルエットをうかがい知ることが出来る。

「私は白い国のツノ」

 突然頭の中に誰かの思念が流れ込んでくる。自分の感覚が思念を言語化し理解する。それは聞き惚れるほど甘美な、男性とも女性ともとれる中性的な声で、優しく理性的に語りかけてくるように感じる。

「我々はひとつの願いを叶えてほしいく思い、貴殿の前に姿を現した」

 周りの光体にも、ツノと名乗るもの同様に知性があったりするのだろうか。

「皆思いを共にしてのことだ。承諾いただけるのであれば、我等は支援を惜しまない」

 永遠にも感じた何もない空間での孤独から一変。目の前に現れた選択肢は、自分にとっての蜘蛛の糸なのではないだろうか。

「ただ、生存していてほしい。行動にこちらから干渉することはない」

 ただ、生きているだけでいいと来た。行動の自由も約束されている。よほど過酷な環境でなければ、即決だ。

「生存期間は長ければ長いほど良い」

 これから生きていく舞台、大和の国の歴史が走馬灯のように体を駆け抜けていく。人類の歴史とは多少の差異はあれど、欲深く血なまぐさい争いの歴史だ。漠然とした世界の情報が体の中で奔流し、徐々に知識として溶け出していく。この世界で存分に生きていくには、自分には足りないものがある気がする。

「我々が最大限の加護を授けよう」

 そうだ。加護さえあれば、大地を馬のように駆ることも、海をイルカのように泳ぐことも可能だ。それも最大限の加護が無償で得られるのだ。

「手を……」

 そして、促されるままに手をツノの方に伸ばした。すると今度は、思念と違ったものが体に入ってくるのが分かる。コンクリートのような泥々の流体が、体の中の穴という穴に侵入し、中身を埋めていく。

「我々の叡智の結晶」

 自分の中身が詰まっていく感覚を味わいながら、徐々に自分に何が出来るのかが分かってくる。そして、この万能感がこの体を駆け巡る。

「全ての状況に適応可能」

 この加護さえあれば、何も必要ない。何が起ころうと、この素晴らしい能力さえあれば、生き抜くことが出来るんだ。

ぶつぅーん……

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く