軌跡を奪われし村人は、復讐に身をゆだねない
第十三話 【脱出】
突然、誰かの声が耳をなで、私は顔を上げた。そこには闇しかなく何も見えないが、確かに誰かの気配がする。人がそこにいた。
いまにも溢れ出さんばかりだった涙は止まり、私はポカンと口を開いて呆然とする。
いや、だって私は誰も助けになんか来てくれないと思って絶望していたのだ。それがこんなにあっさりと覆るなんて、想像もしてなくって、
――――いや、驚きすぎだろ。口開いてるけど?
「え、だって。……え? 人? なんで」
ただ呆然と私は、疑問を連ねるのみ。そんな混乱の極致にある私に向かって目の前の誰かは、
――――何でって、何で来たのかってことですか? 助けるためです。僕は君を助けに来ました
目の前の誰かは当たり前のことを言うように、そう言った。
「う、あ」
その言葉は私の心を大いに震わせる。助けを求める私を救いに来てくれた誰かがいた。その事実を胸に浮かべるだけで私は、なんだか救われたような気になってしまう。
荒く息が漏れ出す。せき止められていた涙腺も決壊して、私は嗚咽を上げた。
「ひぐっ、ぐす、うあーーん」
――――え、なに!? どうしたんだ!?
目前の彼が困惑の声を上げ、大いに戸惑っている気配が伝わってくる。だが、私はそれにこたえる余裕がなく、嗚咽を上げるだけだ。何故だかわからないが、私は心から歓喜している。
――――けど、それは当たり前の事。だって、私はそれを何年も待ち続けていたんだから。
「え、なんね、んも? はあ、はあ、どう、してそんな、こと」
未だ嗚咽は収まらない中、私は己の思考に違和感を覚えた。私が助けを求めたのはここ数分の間であり、何年も救いを待ち続けた覚えなどない。なのに、どういうわけか私の心は、記憶と違うことを訴える。
救いが欲しかった、誰でもいいから助けに来て欲しかった。そう、心が訴えてやまないのだ。
「なん、でこんなに嬉しいの? なんで」
――――なあ、もしかして記憶が混濁してたりするか? 憶えてないことがあったり、知らないはずの知識があったり、そういうことが起きてないか?
「あ、ります。助けは、確かにう、うれしいけど。こんな涙が止まらなくなる、ほどじゃないはずなのに。ひぐ、はあはあ。全然止まってくれなくて」
目元に手を当てながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。目の前の彼は「ふむ」と何かに勘づくように落ち着いた声をおとした。
――――情報系スキルによる記憶障害か。なあ、モモカはどこまで覚えてるんだ?
「え? モモ、カって誰です、か?」
――――ああ、そのセリフで、もう全部分かったよ。つまりモモカは何も覚えてないんだな。……これは、一から説明しないとダメだな
ため息一つ、彼は私にそう言った。私の質問には答えないままに。
いや、文脈から考えて、モモカとは私の名前なのだろう。口に出しても、彼からそう言われても一向に思い出せないけれど。
――――まず初めにモモカは、この空間を何だと思ってる?
「えっと、質問の意味が分か、んないです。おっきなコンテナの中とか、ですか」
――――全然違うな。そもそもここは現実じゃない。ここはモモカの……心の中だ。魂の奥の奥、自分の根源をつかさどる場所。僕は心象世界って呼んでる
「現実じゃ、ない? 心象世界? ……信じ、られ、ないです」
心象世界? どんな妄想、どんな空想。私を助けに来てくれた彼を疑うような真似は私もしたくはなかったけれど、現実として私はその発言を信じることができなかった。
気づけば爆発していた感情も、落ち着きを取り戻し始めている。今の今まで、目元をぬぐっていた腕をどけ、おそらく泣きはらして真っ赤になった瞳を申し訳なさげに歪め、彼を見る。
だが彼はそれも織り込み済みだとでもいうように、同意を示す。
――――まあ、そうだね。証拠もなしに普通は信じられないよな。けど、証拠はある。だってモモカ、今おまえどこに立ってるつもりだ?
「ど、どこって地面ですけど」
――――土もレンガもないその場所が?
「え?」
彼の言葉に虚を突かれ、思わず私は一歩後ずさった。揺れる服の衣擦れ、私の呼吸音、それらのみがあたりに響く。そして私は気づいた。
「あれ、靴の音がない」
そう、無いのだ、低く打ち鳴らされていなければならない靴の音が。そういえば彼が目の前に近づいていることにも私は気づけなかった。それは彼の言う地面がないという言動の何よりの証拠ではないか。
――――地面に触ってみ? そうすればより深く、実感できる
言われるがまま、私は地面に手を伸ばす。恐る恐る、指を地面に伸ばし、そして空ぶった。
「わ!? ……ほ、ほんとだ。何もない」
指は私が地面だろうと思っていた境界線をたやすく突き抜け、どこまでも先に進んでいく。確かに彼の言う通り、ここは現実の世界じゃない。指が土を掘ってもいないのに地面を超えてしまったのだから。
そしてその事実は一人の人間が、空中に立っていることを意味している。それは私が彼の言葉を信じる理由には十分すぎるほどだ。
――――分かっただろ? ここは心の中なんだ
「これは、信じるしかないです」
知識としても経験としても叩き込まれて、私は反論することもできない。
けど、いくつか疑問もある。
「なんで、私こんなところにいるんだろう。記憶もないし、どうしてこんなことに」
目線を下げて、疑問をこぼす。
どうやって来たのか、とかはひとまず後回しだ。問題は私がなぜこんなところに来たのか、だ。
今の私には記憶がないし、おそらく彼が来なければ、ずっとここで途方に暮れていたことだろう。
それは何か目的があっっての事なら、まったくもって非効率的であり、私が望んでそうしたとも思えない。
きっと私は何かアクシデントがあって、こうなっている。それはいったい何なのだろうか。
――――それはな、全部お前の不注意だ
「ふぇ? 不注意ですか?」
――――モモカは今【同調主義】っていうスキルを発動してこうなってる。けど、発動の仕方が、もうバカとしか言いようがない
「ば、ばかって……」
突然の罵倒に私は、慄くしかない。けど彼にはまだ言い足りないことがあるようで、私の様子にかまわず話を進めていく。
――――今のモモカは覚えてないだろうけど、スウイに変わって言わせてもらう
「は、はい」
静かに彼は言葉を紡ぐ。けど、それがどうにも居心地が悪い。声は大きくないのに、威圧されてる感じがすさまじい。膝をついていた私は思わず正座に移行していた。けど、だからといって私の態度に彼の心持っちが変わるわけもなく、それはすぐにやってきた。
彼は私を、怒鳴りつける。
――――普通、効果も判然落としないスキルを全力全開で使ったりしないんだよ!!
「ひう!?」
前置きは静かに、説教は苛烈に。怒声は一気に最高潮へ。私はその腹の底まで響く怒声を前に縮こまるのみ。
――――何が起きるかなんてわかんないだろ! それをお前は一切合切考慮せず、手加減なしで使いやがって! 馬鹿かお前は!!
「そんなこと今の私に言われても……。覚えてないですし。、ちょっと筋違いじゃ……?」
内心、慄きながら反論を試みる。けど彼は、
――――いや、この場所から出たら全部思い出すから、問題ない。それに自分で仕出かしたことだろ、甘んじて受け入れろ
「……そんなこと言われても覚えてないんですけど」
過去の自分がやったことは、自分の責任だろと私の意見を完封し、今の私は覚えてないといっても未来の私は思い出すと取り合ってくれない。現在の私完全無視か。
その後も彼の『お話』は続いていく。彼は効果の分からないスキルを使うことへの危険性、スキルを把握してないが故に起きた実際の大事件。七千年前に起きたアゼルの骸事件、五千年前に起きた神剥ぎの悲劇など、経緯から結末、反省点など事細かに説明、説教するのだ。
……私、覚えてないのに。
まあ、ともあれそのおかげで色々と分かったこともある。
どうも私は異世界転移したらしいということ、スウイという人と一緒に、森を抜けようと歩いているということ、私が他人の記憶を覗き、取り込むスキルを持っていること、そしてどうにも、スキルを使ってから私は意識をなくし、二日が経っているということだ。
「え、それ危なくないですか!? 人一人担いで二日も森を歩くなんて、ものすごく疲れますよ!? しかもそこを魔物に襲われたら死んじゃいます!」
――――そうだよ、危ないよ。だからモモカはとっととこんな場所から出て、自分の体の中に戻ってくれ
「と言われましても……」
そう、私はここから出られないから、絶望していたのだ。早く出たい気持ちは私も同じだけれど、その方法を私は知らない。
困って眉根を寄せていると、彼が声をかけてきた。
――――ああ、ごめん。まだここを出る方法、言ってなかったっけ? なんかもう教えてた気がしてたから
「……まあ、あれだけ色々話せばそうも思いますよ」
私も時計など身に着けていないので、正確な時間はわからないが、かれこれニ時間は彼から『お話』をされていたような気がする。アゼルも神剥ぎも話がとにかく長いのだ。背景から問題点まですべて聞かされたからそれも仕方ないが。
呆れ混じりに彼の方に視線を向けると、彼は「こほん」と咳払いする。どうも彼もさっきの話はやりすぎという自覚があるらしい。
それもそうだろう、私覚えてないし!
――――……まあ、それは置いといて。モモカが元の体に戻る方法だけど、至って簡単だ。取り込んだ情報を、内側に流し込むイメージする、それだけだ
「え、でも私が使えないスキルを使ったから、こんなことになったんじゃないですか? なのにまた同じことを繰り返すのは危険なんじゃ……」
――――モモカの心配事も分かるけど、これに関してはもう大丈夫
「どうしてですか?」
疑問の感情を瞳に灯し、彼に問いかける。
けど、そんな不安でいっぱいな私を安心させるよう彼は再度、大丈夫と断言する。
――――問題ない。だってスキルの発動はもう終わってるんだから
「スキルの発動が、終わってる?」
理解ができず、彼の言葉を繰り返す私。そんな私に気付いてか、彼の説明はさらに続いた。
――――ああ、とだな。今回モモカが気絶しちゃったのは、一度に処理できないほど情報を取り込みすぎたからなんだ。そりゃ、慣れれば今回くらい多くてもいけるだろうけど、このスキル使うのは初めてだろ? 対処できなかったんだよ
「つまり、処理落ちですか」
――――処理落ち? なにそれ
「ええ、と要するに取り込んだ情報が多すぎて、本来完了する以上に時間がかかった、みたいな理解でいいですか?」
――――ああ、間違ってないよ
私は得心が言ったと頷いた。
……ん、でも、それなら私がまだこの世界にいるのはおかしくないか。情報の整理は終わっているという。なら、私が目覚めるのは元の世界でいいはずだ。なのに私が目覚めたのはこの心象世界、心の中である。それは私に残った最後の疑問だった。顎に指を当て、彼に問う。
「だったら、私はどうしてこんなところで目が覚めたんです?」
――――あのままじゃ危険だったからだよ。情報を取り込んだ瞬間、モモカの精神はあまりの負荷に壊れそうになった。だから無意識のうちにモモカは、自分の精神を心象世界に隠したんだ。この世界は外界の一切から遮断されるからね、魂が死なない限り精神に傷はつけられないんだ
「だから私はこんなところにいたんですか」
彼の説明により、私が心象世界で目覚めた理由を理解した。怪我をすれば思わず患部を抑えるように、私は無意識に情報の洪水から魂の奥まで逃げてきたということらしい。そして、スキルの効果はいまだ終わっていないことも同時に理解する。
おそらく、彼の言う情報を内側に流し込むイメージとは、私がここに逃げ込んだために外に留められることになったスウイの記憶を、再度取り込めということだろう。
なるほど、それなら彼のスキルの発動は終わっているという発言にも納得だ。スキルの効果はスウイから記憶を取り込むまでで、その先の私が心象世界に逃げ込んだ件は管轄外ということか。
と、考察を進める私に、彼が話しかける。
――――聞きたいことは全部聞けた?
「あ、はい。ここに私がいた理由も、この空間から出る方法も、全部分かりましたし」
脱出の仕方からここに至る経緯まで、およそ私に必要な情報の全てをもらえた。今ここで私が彼に聞くべきことはもはやないだろう。
となれば、
「じゃあ、やりますね。情報を内側に流し込むイメージでしたっけ? それって、ほんとにそう思うだけでいいんですか?」
――――ああ。複雑な手順も類まれなる才能だって要らない。心に浮かべるだけ。赤ちゃんでもできることだろ?
「そうですか、分かりました。じゃあ、――――やります」
より明確にイメージするため私は、瞼を閉じた。そうしてイメージするのは、ダムにせき止められた水が、此方に押し寄せてくるようなそんな情景だ。すると、目前の方角から驚きの声が私の耳をつんざく。
――――どっわ! こうなるのか! さすがにここまでは予測できなかった
彼の驚嘆があたりに響き渡ってすぐ、閉じられた瞼の向こうから、強烈な光が差し込んでくるのを感じた。闇に慣れた瞳では、瞼越しでも眩しさを感じる。たまらず私は目を開けた。
「ふわぁ!」
そこに広がっているのは雲一つない、澄んだ晴天。穏やかに差し込む日光は、闇でこわばった心を優しく解きほぐし、安心を生む。そして辺りを漂う空気も先の闇に塗りつぶされていた時より、胸においしく感じられた。
と、そこで気づく。今の今まで、会話していた彼が視界のどこにも存在しないことに。
ついさっきも私の目前で、彼は感嘆していたのだ。それから私が目を開くまで、数舜しかなかったというのにどこに消えた。
「あれ、どこ行ったんですか」
私は周囲を見渡すように、首を巡らせ、足を動かす。と、またもそこで異常に気付いた。歩くたびに、ちゃぽ、ちゃぽ、と辺りを響かせる水の音。私の視線の先、そこにあるのは、現実ではありえない光景だった。
私を支える大地が、すべて水で構成されている。空同様に見通す先の全てが、土に代わり水で補われていた。
それも空の様相とはだいぶ異なった、汚濁に染め上げられた見るに堪えない有様で。水中ではヘドロがはびこり、一メートル先も見通せない。靴に汚れが付かないか、心配になるぐらいだ。
と、そんな風に地面に意識を取られていた私に、声がかけられる。彼だ。
――――これは、さすがにビビった。モモカの心象世界が、スウイの心象世界に侵食されてるし
だが、これに私は驚いた。耳をなでる声の先、今まで同様、私の前方。だというのに、私の瞳には彼の姿が映っていないのだ。瞳に映るのは、空と水、それだけ。
「え、ちょっ、え!? いないんですけど! 声がするのに姿が見えず、を地でいってますよ!?」
――――え、どうした?
「どうした? じゃなくて。あなたの姿が見えません。どういうことですか」
――――ああ、そのことか。見えないのは当たり前だよ。……もう僕にはあるべき姿がないからね
「え、それって、どういう」
――――まあ、別にいいだろ? 僕のことはさ
彼の声からは拒絶の意志が感じられた。しかし、そういわれては彼に救われた私としては、追求することなんてできない。私は好奇心を押さえつけ、口をつぐんだ。
――――それに、もう何かを語る時間はない
「え?」
彼の言葉と同時、それは来た。意識が酩酊する。視界は歪み、とても立っていられない。私は膝をついた。
「なに、こ、れ?」
――――心象世界から精神が引きはがされそうになってるんだよ。モモカは今からここを出て、情報を取り込んだ後、身体に還るんだ
彼が何かを言ってる気がする。しかし、私の耳はその音を正確にとらえてくれなかった。どうやら、目だけでなく、耳もおかしくなっているらしい。踊るように歪む視界、途切れ途切れにしかわからない聴覚。あまりの不理解に吐き気さえする。
そして、おぼろげな視界の中、私はうっすらと透けていく自分の手足を見た。それにともなって、かろうじて残されていた意識も消えていく。その最中、
――――ねえ、モモカ。できればだけどさ、あの森を出た後もスウイと付き合っていってくれないか? 僕はスウイに死んでほしくない。もっと生きて、幸せになってほしい。間違っても自分から命を絶ってほしくない
それは切実な願いだった。真摯に訴える声だった。そこには万感の思いが込められていた。
――――……いや、これは僕の勝手なお願いか。ごめん、聞かなかったことにしてくれ
が、最後に残ったのは後悔だった。
こちらには助けられたという意識があるように、あちらには助けたという意識があるのだろう。恩売った者が売られた者にするお願いは、お願いではなく強制だ。おそらく彼は恩を売ったうえで、お願いをしたことを後悔したのだろうが、
――――大丈夫。私もスウイさんに感謝してるから。頼まれなくても仲良くしたいよ
彼への返答を心に浮かべる。
正直、彼の考えはよくわからない。スウイさんと彼がどういうつながりを持ち、なぜそんなことを私に願ったのか。
けど、スウイさんとこれから先も付き合っていくのはむしろこちらからお願いしたいことだ。私は精神を彼に助けられ、肉体はスウイさんに助けられている。スウイさんにお礼もしたいし、私から付き合いを絶つつもりもない。
最も、
――――それも、スウイさんが私を拒絶しなかったらだけどね
そう、心に想いを刻んだのち、私の意識は闇に包まれた。
いまにも溢れ出さんばかりだった涙は止まり、私はポカンと口を開いて呆然とする。
いや、だって私は誰も助けになんか来てくれないと思って絶望していたのだ。それがこんなにあっさりと覆るなんて、想像もしてなくって、
――――いや、驚きすぎだろ。口開いてるけど?
「え、だって。……え? 人? なんで」
ただ呆然と私は、疑問を連ねるのみ。そんな混乱の極致にある私に向かって目の前の誰かは、
――――何でって、何で来たのかってことですか? 助けるためです。僕は君を助けに来ました
目の前の誰かは当たり前のことを言うように、そう言った。
「う、あ」
その言葉は私の心を大いに震わせる。助けを求める私を救いに来てくれた誰かがいた。その事実を胸に浮かべるだけで私は、なんだか救われたような気になってしまう。
荒く息が漏れ出す。せき止められていた涙腺も決壊して、私は嗚咽を上げた。
「ひぐっ、ぐす、うあーーん」
――――え、なに!? どうしたんだ!?
目前の彼が困惑の声を上げ、大いに戸惑っている気配が伝わってくる。だが、私はそれにこたえる余裕がなく、嗚咽を上げるだけだ。何故だかわからないが、私は心から歓喜している。
――――けど、それは当たり前の事。だって、私はそれを何年も待ち続けていたんだから。
「え、なんね、んも? はあ、はあ、どう、してそんな、こと」
未だ嗚咽は収まらない中、私は己の思考に違和感を覚えた。私が助けを求めたのはここ数分の間であり、何年も救いを待ち続けた覚えなどない。なのに、どういうわけか私の心は、記憶と違うことを訴える。
救いが欲しかった、誰でもいいから助けに来て欲しかった。そう、心が訴えてやまないのだ。
「なん、でこんなに嬉しいの? なんで」
――――なあ、もしかして記憶が混濁してたりするか? 憶えてないことがあったり、知らないはずの知識があったり、そういうことが起きてないか?
「あ、ります。助けは、確かにう、うれしいけど。こんな涙が止まらなくなる、ほどじゃないはずなのに。ひぐ、はあはあ。全然止まってくれなくて」
目元に手を当てながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。目の前の彼は「ふむ」と何かに勘づくように落ち着いた声をおとした。
――――情報系スキルによる記憶障害か。なあ、モモカはどこまで覚えてるんだ?
「え? モモ、カって誰です、か?」
――――ああ、そのセリフで、もう全部分かったよ。つまりモモカは何も覚えてないんだな。……これは、一から説明しないとダメだな
ため息一つ、彼は私にそう言った。私の質問には答えないままに。
いや、文脈から考えて、モモカとは私の名前なのだろう。口に出しても、彼からそう言われても一向に思い出せないけれど。
――――まず初めにモモカは、この空間を何だと思ってる?
「えっと、質問の意味が分か、んないです。おっきなコンテナの中とか、ですか」
――――全然違うな。そもそもここは現実じゃない。ここはモモカの……心の中だ。魂の奥の奥、自分の根源をつかさどる場所。僕は心象世界って呼んでる
「現実じゃ、ない? 心象世界? ……信じ、られ、ないです」
心象世界? どんな妄想、どんな空想。私を助けに来てくれた彼を疑うような真似は私もしたくはなかったけれど、現実として私はその発言を信じることができなかった。
気づけば爆発していた感情も、落ち着きを取り戻し始めている。今の今まで、目元をぬぐっていた腕をどけ、おそらく泣きはらして真っ赤になった瞳を申し訳なさげに歪め、彼を見る。
だが彼はそれも織り込み済みだとでもいうように、同意を示す。
――――まあ、そうだね。証拠もなしに普通は信じられないよな。けど、証拠はある。だってモモカ、今おまえどこに立ってるつもりだ?
「ど、どこって地面ですけど」
――――土もレンガもないその場所が?
「え?」
彼の言葉に虚を突かれ、思わず私は一歩後ずさった。揺れる服の衣擦れ、私の呼吸音、それらのみがあたりに響く。そして私は気づいた。
「あれ、靴の音がない」
そう、無いのだ、低く打ち鳴らされていなければならない靴の音が。そういえば彼が目の前に近づいていることにも私は気づけなかった。それは彼の言う地面がないという言動の何よりの証拠ではないか。
――――地面に触ってみ? そうすればより深く、実感できる
言われるがまま、私は地面に手を伸ばす。恐る恐る、指を地面に伸ばし、そして空ぶった。
「わ!? ……ほ、ほんとだ。何もない」
指は私が地面だろうと思っていた境界線をたやすく突き抜け、どこまでも先に進んでいく。確かに彼の言う通り、ここは現実の世界じゃない。指が土を掘ってもいないのに地面を超えてしまったのだから。
そしてその事実は一人の人間が、空中に立っていることを意味している。それは私が彼の言葉を信じる理由には十分すぎるほどだ。
――――分かっただろ? ここは心の中なんだ
「これは、信じるしかないです」
知識としても経験としても叩き込まれて、私は反論することもできない。
けど、いくつか疑問もある。
「なんで、私こんなところにいるんだろう。記憶もないし、どうしてこんなことに」
目線を下げて、疑問をこぼす。
どうやって来たのか、とかはひとまず後回しだ。問題は私がなぜこんなところに来たのか、だ。
今の私には記憶がないし、おそらく彼が来なければ、ずっとここで途方に暮れていたことだろう。
それは何か目的があっっての事なら、まったくもって非効率的であり、私が望んでそうしたとも思えない。
きっと私は何かアクシデントがあって、こうなっている。それはいったい何なのだろうか。
――――それはな、全部お前の不注意だ
「ふぇ? 不注意ですか?」
――――モモカは今【同調主義】っていうスキルを発動してこうなってる。けど、発動の仕方が、もうバカとしか言いようがない
「ば、ばかって……」
突然の罵倒に私は、慄くしかない。けど彼にはまだ言い足りないことがあるようで、私の様子にかまわず話を進めていく。
――――今のモモカは覚えてないだろうけど、スウイに変わって言わせてもらう
「は、はい」
静かに彼は言葉を紡ぐ。けど、それがどうにも居心地が悪い。声は大きくないのに、威圧されてる感じがすさまじい。膝をついていた私は思わず正座に移行していた。けど、だからといって私の態度に彼の心持っちが変わるわけもなく、それはすぐにやってきた。
彼は私を、怒鳴りつける。
――――普通、効果も判然落としないスキルを全力全開で使ったりしないんだよ!!
「ひう!?」
前置きは静かに、説教は苛烈に。怒声は一気に最高潮へ。私はその腹の底まで響く怒声を前に縮こまるのみ。
――――何が起きるかなんてわかんないだろ! それをお前は一切合切考慮せず、手加減なしで使いやがって! 馬鹿かお前は!!
「そんなこと今の私に言われても……。覚えてないですし。、ちょっと筋違いじゃ……?」
内心、慄きながら反論を試みる。けど彼は、
――――いや、この場所から出たら全部思い出すから、問題ない。それに自分で仕出かしたことだろ、甘んじて受け入れろ
「……そんなこと言われても覚えてないんですけど」
過去の自分がやったことは、自分の責任だろと私の意見を完封し、今の私は覚えてないといっても未来の私は思い出すと取り合ってくれない。現在の私完全無視か。
その後も彼の『お話』は続いていく。彼は効果の分からないスキルを使うことへの危険性、スキルを把握してないが故に起きた実際の大事件。七千年前に起きたアゼルの骸事件、五千年前に起きた神剥ぎの悲劇など、経緯から結末、反省点など事細かに説明、説教するのだ。
……私、覚えてないのに。
まあ、ともあれそのおかげで色々と分かったこともある。
どうも私は異世界転移したらしいということ、スウイという人と一緒に、森を抜けようと歩いているということ、私が他人の記憶を覗き、取り込むスキルを持っていること、そしてどうにも、スキルを使ってから私は意識をなくし、二日が経っているということだ。
「え、それ危なくないですか!? 人一人担いで二日も森を歩くなんて、ものすごく疲れますよ!? しかもそこを魔物に襲われたら死んじゃいます!」
――――そうだよ、危ないよ。だからモモカはとっととこんな場所から出て、自分の体の中に戻ってくれ
「と言われましても……」
そう、私はここから出られないから、絶望していたのだ。早く出たい気持ちは私も同じだけれど、その方法を私は知らない。
困って眉根を寄せていると、彼が声をかけてきた。
――――ああ、ごめん。まだここを出る方法、言ってなかったっけ? なんかもう教えてた気がしてたから
「……まあ、あれだけ色々話せばそうも思いますよ」
私も時計など身に着けていないので、正確な時間はわからないが、かれこれニ時間は彼から『お話』をされていたような気がする。アゼルも神剥ぎも話がとにかく長いのだ。背景から問題点まですべて聞かされたからそれも仕方ないが。
呆れ混じりに彼の方に視線を向けると、彼は「こほん」と咳払いする。どうも彼もさっきの話はやりすぎという自覚があるらしい。
それもそうだろう、私覚えてないし!
――――……まあ、それは置いといて。モモカが元の体に戻る方法だけど、至って簡単だ。取り込んだ情報を、内側に流し込むイメージする、それだけだ
「え、でも私が使えないスキルを使ったから、こんなことになったんじゃないですか? なのにまた同じことを繰り返すのは危険なんじゃ……」
――――モモカの心配事も分かるけど、これに関してはもう大丈夫
「どうしてですか?」
疑問の感情を瞳に灯し、彼に問いかける。
けど、そんな不安でいっぱいな私を安心させるよう彼は再度、大丈夫と断言する。
――――問題ない。だってスキルの発動はもう終わってるんだから
「スキルの発動が、終わってる?」
理解ができず、彼の言葉を繰り返す私。そんな私に気付いてか、彼の説明はさらに続いた。
――――ああ、とだな。今回モモカが気絶しちゃったのは、一度に処理できないほど情報を取り込みすぎたからなんだ。そりゃ、慣れれば今回くらい多くてもいけるだろうけど、このスキル使うのは初めてだろ? 対処できなかったんだよ
「つまり、処理落ちですか」
――――処理落ち? なにそれ
「ええ、と要するに取り込んだ情報が多すぎて、本来完了する以上に時間がかかった、みたいな理解でいいですか?」
――――ああ、間違ってないよ
私は得心が言ったと頷いた。
……ん、でも、それなら私がまだこの世界にいるのはおかしくないか。情報の整理は終わっているという。なら、私が目覚めるのは元の世界でいいはずだ。なのに私が目覚めたのはこの心象世界、心の中である。それは私に残った最後の疑問だった。顎に指を当て、彼に問う。
「だったら、私はどうしてこんなところで目が覚めたんです?」
――――あのままじゃ危険だったからだよ。情報を取り込んだ瞬間、モモカの精神はあまりの負荷に壊れそうになった。だから無意識のうちにモモカは、自分の精神を心象世界に隠したんだ。この世界は外界の一切から遮断されるからね、魂が死なない限り精神に傷はつけられないんだ
「だから私はこんなところにいたんですか」
彼の説明により、私が心象世界で目覚めた理由を理解した。怪我をすれば思わず患部を抑えるように、私は無意識に情報の洪水から魂の奥まで逃げてきたということらしい。そして、スキルの効果はいまだ終わっていないことも同時に理解する。
おそらく、彼の言う情報を内側に流し込むイメージとは、私がここに逃げ込んだために外に留められることになったスウイの記憶を、再度取り込めということだろう。
なるほど、それなら彼のスキルの発動は終わっているという発言にも納得だ。スキルの効果はスウイから記憶を取り込むまでで、その先の私が心象世界に逃げ込んだ件は管轄外ということか。
と、考察を進める私に、彼が話しかける。
――――聞きたいことは全部聞けた?
「あ、はい。ここに私がいた理由も、この空間から出る方法も、全部分かりましたし」
脱出の仕方からここに至る経緯まで、およそ私に必要な情報の全てをもらえた。今ここで私が彼に聞くべきことはもはやないだろう。
となれば、
「じゃあ、やりますね。情報を内側に流し込むイメージでしたっけ? それって、ほんとにそう思うだけでいいんですか?」
――――ああ。複雑な手順も類まれなる才能だって要らない。心に浮かべるだけ。赤ちゃんでもできることだろ?
「そうですか、分かりました。じゃあ、――――やります」
より明確にイメージするため私は、瞼を閉じた。そうしてイメージするのは、ダムにせき止められた水が、此方に押し寄せてくるようなそんな情景だ。すると、目前の方角から驚きの声が私の耳をつんざく。
――――どっわ! こうなるのか! さすがにここまでは予測できなかった
彼の驚嘆があたりに響き渡ってすぐ、閉じられた瞼の向こうから、強烈な光が差し込んでくるのを感じた。闇に慣れた瞳では、瞼越しでも眩しさを感じる。たまらず私は目を開けた。
「ふわぁ!」
そこに広がっているのは雲一つない、澄んだ晴天。穏やかに差し込む日光は、闇でこわばった心を優しく解きほぐし、安心を生む。そして辺りを漂う空気も先の闇に塗りつぶされていた時より、胸においしく感じられた。
と、そこで気づく。今の今まで、会話していた彼が視界のどこにも存在しないことに。
ついさっきも私の目前で、彼は感嘆していたのだ。それから私が目を開くまで、数舜しかなかったというのにどこに消えた。
「あれ、どこ行ったんですか」
私は周囲を見渡すように、首を巡らせ、足を動かす。と、またもそこで異常に気付いた。歩くたびに、ちゃぽ、ちゃぽ、と辺りを響かせる水の音。私の視線の先、そこにあるのは、現実ではありえない光景だった。
私を支える大地が、すべて水で構成されている。空同様に見通す先の全てが、土に代わり水で補われていた。
それも空の様相とはだいぶ異なった、汚濁に染め上げられた見るに堪えない有様で。水中ではヘドロがはびこり、一メートル先も見通せない。靴に汚れが付かないか、心配になるぐらいだ。
と、そんな風に地面に意識を取られていた私に、声がかけられる。彼だ。
――――これは、さすがにビビった。モモカの心象世界が、スウイの心象世界に侵食されてるし
だが、これに私は驚いた。耳をなでる声の先、今まで同様、私の前方。だというのに、私の瞳には彼の姿が映っていないのだ。瞳に映るのは、空と水、それだけ。
「え、ちょっ、え!? いないんですけど! 声がするのに姿が見えず、を地でいってますよ!?」
――――え、どうした?
「どうした? じゃなくて。あなたの姿が見えません。どういうことですか」
――――ああ、そのことか。見えないのは当たり前だよ。……もう僕にはあるべき姿がないからね
「え、それって、どういう」
――――まあ、別にいいだろ? 僕のことはさ
彼の声からは拒絶の意志が感じられた。しかし、そういわれては彼に救われた私としては、追求することなんてできない。私は好奇心を押さえつけ、口をつぐんだ。
――――それに、もう何かを語る時間はない
「え?」
彼の言葉と同時、それは来た。意識が酩酊する。視界は歪み、とても立っていられない。私は膝をついた。
「なに、こ、れ?」
――――心象世界から精神が引きはがされそうになってるんだよ。モモカは今からここを出て、情報を取り込んだ後、身体に還るんだ
彼が何かを言ってる気がする。しかし、私の耳はその音を正確にとらえてくれなかった。どうやら、目だけでなく、耳もおかしくなっているらしい。踊るように歪む視界、途切れ途切れにしかわからない聴覚。あまりの不理解に吐き気さえする。
そして、おぼろげな視界の中、私はうっすらと透けていく自分の手足を見た。それにともなって、かろうじて残されていた意識も消えていく。その最中、
――――ねえ、モモカ。できればだけどさ、あの森を出た後もスウイと付き合っていってくれないか? 僕はスウイに死んでほしくない。もっと生きて、幸せになってほしい。間違っても自分から命を絶ってほしくない
それは切実な願いだった。真摯に訴える声だった。そこには万感の思いが込められていた。
――――……いや、これは僕の勝手なお願いか。ごめん、聞かなかったことにしてくれ
が、最後に残ったのは後悔だった。
こちらには助けられたという意識があるように、あちらには助けたという意識があるのだろう。恩売った者が売られた者にするお願いは、お願いではなく強制だ。おそらく彼は恩を売ったうえで、お願いをしたことを後悔したのだろうが、
――――大丈夫。私もスウイさんに感謝してるから。頼まれなくても仲良くしたいよ
彼への返答を心に浮かべる。
正直、彼の考えはよくわからない。スウイさんと彼がどういうつながりを持ち、なぜそんなことを私に願ったのか。
けど、スウイさんとこれから先も付き合っていくのはむしろこちらからお願いしたいことだ。私は精神を彼に助けられ、肉体はスウイさんに助けられている。スウイさんにお礼もしたいし、私から付き合いを絶つつもりもない。
最も、
――――それも、スウイさんが私を拒絶しなかったらだけどね
そう、心に想いを刻んだのち、私の意識は闇に包まれた。
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