取り扱い説明書

増田朋美

神仏も悪くない

私の人生を振り替えると、親の期待や教師の脅迫に答えようと、散々勉強をし続けてきて、結果として全てうしない、絶望したということになるんだと思います。そして、絶望から立ち直れないというのが現在でしょう。立ち直るための道具を手探りで探しているような感じでしょうか。
本当に簡単なこともわかりませんでした。忘れろといっても忘れることができない、気にするなといわれても、どうすれば気にしないでいられるかもわからないのです。バカらしくみえますが、本当にわからないんですよ。英単語を何回も書いて忘れないようにしたり、先生の言うことをきにかけて、できる限りよい生徒になるようにしていましたから。それが、いきなり気にするなといわれても、気にしないというのがどういう感覚なのかわからない。これは本当にわからなくて、親や他の人を困らせました。本当にバカな話ですが、そう言うことしかしてこなかったんじゃないのかな、と、おもいます。
そう言うことで、悩んでいる最中、たまたま用事があって出掛けたあるコミュニティセンターに、仏教の教えを語り合うサークルというものがありました。メンバー募集のポスターが貼ってあったんです。新宗教かと心配しましたが、実際にいってみたらそうではなく、仏教の経典を解読していこうという内容でした。国訳一切経を解読して、日常生活に生かせることを話し合うのです。私は皆さんから歓迎してもらい、メンバーさんといろいろはなしをしたり、講師の先生と、話をしたりしました。
このサークルで教えてもらった、一番大きなことは、人間は事実にたいし、どう動くかを考えることしかできないのだということを教えてもらったことです。それをするには、感情もなにも使う必要はない、ただ、事実はそこにあるだけのこと。それをどうするかを考え、実行していくこと。実行できなかったら、どうすればよいかまた考えればよい。このときに、過去や現在に固執しないで、意識だけを変えていくこと。
これが、一番大きな収穫であり、感動だったのです。気にしないということも、結局はそう言うことから始まるのでしょう。そのときのコツとして、具体的にどうするか、に拘らないことの大切さも学びました。釈尊が、教えてくださった生老病死はいずれも苦しみなのだ、ということをキーワードに、そのためには、どうするかをかんがえると、先程のとおり、事実にどう動くかを考えるということに、結び付いたのだそうです。そのためには、修行もなにもいらない、形よりも考えるということ、仏教ではこれを知よりも行だということも学びました。
おそらく、一切経をよまなかったら、こういうことは学べなかったとおもいます。どんな形であれ、こういう技術を学べたということは、本当に素晴らしいことですから。
そう考えると、宗教も、決して悪いものではないと知りました。
何百年も続いてきた伝統宗教は、こうして日常生活にしっかり腰を下ろしているから続いてきたのでしょう。
いつの時代にもかわらないで、日常生活を送るようにするためにあるのが、宗教というものです。その事を神様の御業として、伝えてくれるために、存在しているのではないでしょうか。
ちなみにヨーロッパでは、神様がみている、という考えをする人は多く、宗教は非常に身近なものです。日本では、そういうことを重視するひとはなかなかいないですが、これを大事にしていけば、もう少し楽になれる人は、大勢いるのではないでしょうか。

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