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取り扱い説明書

増田朋美

ピアノに救われた。

本格的にピアノに取り組もうと思ったのは、中学校二年の自殺未遂の後からでした。もう、学校も何も楽しくなくて、架空の世界にしか楽しみを見いだせない時期でした。
始まりは、吹奏楽で、和声の実習をした時からだったと思います。音を出して、自分が音楽の一因となり、周りの人と一緒に曲をつくりあげていく事のすばらしさ。そう、素晴らしさだったと思います。その時、私は初めて、学校では成績の悪い悪童とされていた私が、音楽の世界にはいれば、こうして和声を作ることができる。そう必要とされることに、非常な喜びを見いだせたのだと思います。やった、初めて自分が必要とされた!初めてそう感じた瞬間でした。
当初、クラリネットをやっていましたので、どこかの教室に行きたいなと思いましたが、それはありませんでした。それでは、と子供のときに習っていたピアノの譜面を引っ張り出して、弾いてみたところ、自分で音を出して、本物の音楽に触れることができることに幸せを感じました。音楽って、楽譜さえあればだれでも本物に触れることができるし、自分の解釈で違っていいと認めてもらえる。どんなにうまいピアニストでも、必ず違いは出てしまうものです。同じ曲でも、演奏者が変われば全く違ってもいい!それが、本当にうれしかったなという気がしました。その当時は、それに感動するしかなかったのですが、今思えば、皆同じ答えしか出せない環境に居ましたので、違っていいという事に喜びを見いだせたのだと思います。
そういう訳で、学校から帰ってきた後は、再びピアノに取り組むようになりました。本当に弾いている間は、みんなと同じ答えから解放されて、すごく幸せな時間だったなと思います。
それをやっているうち、音楽のこの素晴らしい作用について、研究してみたくなりました。それをするためには、音楽学校に行こうと思うようになりました。とりあえず、自分の尊敬していたピアノの先生の出身校が武蔵野だったものですから、あの先生のようになるために、武蔵野を目指そうと思いました。いくら何でも、藝大を目指す気にはなれませんでしたし、当時は、武蔵野は甲子園と同じくらいピアノの聖地のようなところだと思っていましたので、それ以外に目指す大学はありません。事実、武蔵野を出たかたで、とてもうまい方はたくさんいたのです。ただ、その人たちが高齢だったという事を気が付けば、人生失敗することもなかったと思います。
とにかく、ピアノが救ってくれましたので、ピアノの聖地である武蔵野を目指すのだ!私は、そう決断して、ピアノを練習するようになりました。
そうなるためには、音楽高校を受験したいと望みました。そのほうが、共通する友達もいて、楽しいだろうなと思ったのです。でも、前述した通り、ピアノは出来ても、成績が良くなければ、良い高校は受けさせてもらえません。なので、音楽高校に偏差値が届かず、偏差値を作り出す定期試験のときに吐き気を催して棄権したこともあったりして、どうしても受験できませんでした。それに、音楽高校が、自宅から非常に遠いという事も理由の一つでした。
そうしていると、ピアノの先生が、吉原高校はどうか、と勧めてきました。先生の娘さんもそこから武蔵野へ行ったよ。とアドバイスしてくれたのです。そこは比較的偏差値の低いところでしたので、受験は可能でした。ほかの先生に聞いてみると、わざとレベルの低い高校へ行って、勉強をあまり重要視せず、実技に打ち込むことは可能だというのです。事実、その通りにして藝大に行った先生もおりました。それに、音楽大学は、基本的に偏差値がさほど高くなく、センター試験を受けるにしろ、各教科4割くらいの点数でいい。それよりも、実技試験やソルフェージュなどが重要だから、と、音大の先生から言われたりしました。それならば、そういう偏差値の低い高校でもいいな、と私も思い始めました。
なので、高校受験はさほど勉強はしませんで、ピアノの発表会などに向けた練習ばかりしていました。部活が終わってからも、多く受験生がするような勉強はせず、代わりにピアノやソルフェージュの勉強ばかりしていました。
そして、吉原高校には、それなりの点数で合格しました。さほど点数は取れなかったと思います。確か数学何て、後で自己採点してみたところ、半分程度しか取れていませんでした。其れでも合格できたんですから、偏差値が低いというのはそういう事だったと思います。
ただ、この後が非常な地獄を見ることになりますが。
そういうことは何も知らないで、高校はたいしたことはないだろうと、鼻歌を歌っていた、ダメな私なのでした。

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