取り扱い説明書
中学校での落胆
小学校を無事に卒業し、私は中学生になりました。
中学校というのは、授業態度より、試験の点数のほうが重要視されます。それが小学校と大きな違いなのです。
私は、小学校までは、授業態度で評価されていて、それが中学校でも続くのかと本気で思っていたんだと思います。それが間違いだったのです。兄弟がいるわけでもないし、中学校がどんな場所なのか、まったく知らなくて。
そして、中学一年のときに、初めて受けた期末テストで、それを知らされて、ああ、もうだめだと思いました。中学生になると誰でもこんな点数しか取れないの!しか言いません。この成績はなんだ!と大声で怒鳴られたこともしばしばありました。小学校でも試験勉強はしていたのですが、何よりも授業に参加できたのが一番うれしいと思っていました。でも、中学校というところは、授業態度などは全くの無駄なことで、試験の点数がすべてなのです。
中学校では部活というものがありますが、それは自由を与えてあげるから、やりたいことをやらせてあげるから、その代わり試験でいい点を取れ!といういわゆる飴と鞭のような、そんな風にしか見えなかったので、結局楽しめませんでした。部活は吹奏楽でクラリネットをやっていましたが、どうしても楽しめなかったことを記憶しています。常に、試験でいい点を取るようにという、条件があったからです。
試験でいい点を取らない限り、何もさせてもらえない日々。そうなれば、学校なんて楽しくもなく、辛いつらい日々が続きました。授業だって、ただ参考書に書いてある答えを言えばいいだけの事。其れさえあれば、先生だって、納得してくれる。小学校では答えを間違えると、正しい答えに導くまで議論し、納得した上で正しい答えを持ってくることができたため、比較的答えを覚えていられたのですが、中学校ではただ正しい答えを答案用紙にさえ書くことができないとよい成績はもらえないのです。納得のいかないうちに、正しい答えをほかの人がどんどん出してしまい、授業も砂をかむようにつまらなくなりました。そしてそれを正しい答えとして書かなければならないのです。なぜ?という疑問すら残せません。なので暗記を仕様としてもできず、答えを覚えられなくて、成績はボロボロに落ちてしまいました。小学校の頃は、よく挙手をし、授業を盛り上げてくれるよい子、何ていわれていましたが、中学校では、試験で点数を取れない不良生といわれるようになってしまいました。授業では、だまったままなのに、試験で点数を取ればいい成績はもらえるのなら、授業なんて、ただ一方的に答えを言うだけにしてくれればいいのに、そういうことはしない先生も多くいましたので、どちらが正しいかよくわからなくなりました。そういう先生の授業では著しく混乱し、授業にもほとんど参加できなくなりました。
そして、何よりも、辛かったのは、中学校に入った後、家族の態度がかわってしまったことです。成績が悪い、成績がよくなければご飯は食べてはいけない、など急にきつい文句が家族の中から飛び出してきて、外出することさえできなくなりました。宿題を忘れたことはあまりありませんでしたが、成績が悪いせいで、友人を持つことはできませんでした。私はよい子だったはずなのに、なぜ今はみんな私を悪い子としてみるのだろう?悲しくてやりきれない気持ちでした。納得できないまま、正しいと言われた答えを答案用紙に書かなければならない。それは、非常に苦しい作業でした。運動も全くできなかったので、保健体育の点数も一しか取れませんでした。
ある日、数学の点数がすごく悪いせいで親に叱られ、初めてドアノブで首を吊り、自殺を図りました。これが初めての自殺未遂です。中学校二年のときでした。その時はもう、家族は私のことを愛してくれてはいなかったと思い込み、もう絶望していたのだと思います。しかし、母は仕事に出かけていて、祖母が家にいたときであったため、祖母はすぐ様子がおかしいことに気が付いてくれたようです。すぐに見つけてくれて、死には至りませんでした。そのあと、もしかしたら、死んでいたほうが、良かったのではないかと思われる事件に数多く見舞われるのですが、この時はおばあちゃんだけが私の味方だ!と思い、やっと救われたと思いました。其れから、学校の話を聞いてもらうのは、いつも祖母になりました。
それでも、学校は、私にとって苦しい場所だったのだと思います。私は、学校にいる間、何一つ発言もせず、ほかの同級生とも話しませんで、本ばかり読んでいました。友人の家に行くことはもちろん許されませんでしたし、ただ、ワークブックなどに載っている模範解答をひたすら何回もノートに書いて、時には声を出して読み、納得しないあたまに無理やり教え込ませ、それを正しい答えとして答案用紙に書いて成績を得る。そんな日々の中、唯一の娯楽は本を読むこと。その中の主人公になってしまったような気分になることでした。自殺を図った後は、この学校に行っているのは私ではなくて、別の誰かだ、と思い込むようにして何とか学校にいることができた、というありさまでした。授業中は、私の体田子浦中学校にいて、こころは別の学校にいたのです。時には、そっちの事ばかり考えすぎて、そこで起こっていることを口にしてしまい、いかにも現実に起きているようにして、わざと楽しんでいる風景を作りだしていました。それが現実になかったと親に知られてしまったときは、ひどく叱られたりしましたが、もう何をやっても私は救われないと思い込んでいたため、この癖は、治りませんでした。寧ろ、そういうことをしなければ、学校に居られなかったのではないかと思います。
中学校というのは、授業態度より、試験の点数のほうが重要視されます。それが小学校と大きな違いなのです。
私は、小学校までは、授業態度で評価されていて、それが中学校でも続くのかと本気で思っていたんだと思います。それが間違いだったのです。兄弟がいるわけでもないし、中学校がどんな場所なのか、まったく知らなくて。
そして、中学一年のときに、初めて受けた期末テストで、それを知らされて、ああ、もうだめだと思いました。中学生になると誰でもこんな点数しか取れないの!しか言いません。この成績はなんだ!と大声で怒鳴られたこともしばしばありました。小学校でも試験勉強はしていたのですが、何よりも授業に参加できたのが一番うれしいと思っていました。でも、中学校というところは、授業態度などは全くの無駄なことで、試験の点数がすべてなのです。
中学校では部活というものがありますが、それは自由を与えてあげるから、やりたいことをやらせてあげるから、その代わり試験でいい点を取れ!といういわゆる飴と鞭のような、そんな風にしか見えなかったので、結局楽しめませんでした。部活は吹奏楽でクラリネットをやっていましたが、どうしても楽しめなかったことを記憶しています。常に、試験でいい点を取るようにという、条件があったからです。
試験でいい点を取らない限り、何もさせてもらえない日々。そうなれば、学校なんて楽しくもなく、辛いつらい日々が続きました。授業だって、ただ参考書に書いてある答えを言えばいいだけの事。其れさえあれば、先生だって、納得してくれる。小学校では答えを間違えると、正しい答えに導くまで議論し、納得した上で正しい答えを持ってくることができたため、比較的答えを覚えていられたのですが、中学校ではただ正しい答えを答案用紙にさえ書くことができないとよい成績はもらえないのです。納得のいかないうちに、正しい答えをほかの人がどんどん出してしまい、授業も砂をかむようにつまらなくなりました。そしてそれを正しい答えとして書かなければならないのです。なぜ?という疑問すら残せません。なので暗記を仕様としてもできず、答えを覚えられなくて、成績はボロボロに落ちてしまいました。小学校の頃は、よく挙手をし、授業を盛り上げてくれるよい子、何ていわれていましたが、中学校では、試験で点数を取れない不良生といわれるようになってしまいました。授業では、だまったままなのに、試験で点数を取ればいい成績はもらえるのなら、授業なんて、ただ一方的に答えを言うだけにしてくれればいいのに、そういうことはしない先生も多くいましたので、どちらが正しいかよくわからなくなりました。そういう先生の授業では著しく混乱し、授業にもほとんど参加できなくなりました。
そして、何よりも、辛かったのは、中学校に入った後、家族の態度がかわってしまったことです。成績が悪い、成績がよくなければご飯は食べてはいけない、など急にきつい文句が家族の中から飛び出してきて、外出することさえできなくなりました。宿題を忘れたことはあまりありませんでしたが、成績が悪いせいで、友人を持つことはできませんでした。私はよい子だったはずなのに、なぜ今はみんな私を悪い子としてみるのだろう?悲しくてやりきれない気持ちでした。納得できないまま、正しいと言われた答えを答案用紙に書かなければならない。それは、非常に苦しい作業でした。運動も全くできなかったので、保健体育の点数も一しか取れませんでした。
ある日、数学の点数がすごく悪いせいで親に叱られ、初めてドアノブで首を吊り、自殺を図りました。これが初めての自殺未遂です。中学校二年のときでした。その時はもう、家族は私のことを愛してくれてはいなかったと思い込み、もう絶望していたのだと思います。しかし、母は仕事に出かけていて、祖母が家にいたときであったため、祖母はすぐ様子がおかしいことに気が付いてくれたようです。すぐに見つけてくれて、死には至りませんでした。そのあと、もしかしたら、死んでいたほうが、良かったのではないかと思われる事件に数多く見舞われるのですが、この時はおばあちゃんだけが私の味方だ!と思い、やっと救われたと思いました。其れから、学校の話を聞いてもらうのは、いつも祖母になりました。
それでも、学校は、私にとって苦しい場所だったのだと思います。私は、学校にいる間、何一つ発言もせず、ほかの同級生とも話しませんで、本ばかり読んでいました。友人の家に行くことはもちろん許されませんでしたし、ただ、ワークブックなどに載っている模範解答をひたすら何回もノートに書いて、時には声を出して読み、納得しないあたまに無理やり教え込ませ、それを正しい答えとして答案用紙に書いて成績を得る。そんな日々の中、唯一の娯楽は本を読むこと。その中の主人公になってしまったような気分になることでした。自殺を図った後は、この学校に行っているのは私ではなくて、別の誰かだ、と思い込むようにして何とか学校にいることができた、というありさまでした。授業中は、私の体田子浦中学校にいて、こころは別の学校にいたのです。時には、そっちの事ばかり考えすぎて、そこで起こっていることを口にしてしまい、いかにも現実に起きているようにして、わざと楽しんでいる風景を作りだしていました。それが現実になかったと親に知られてしまったときは、ひどく叱られたりしましたが、もう何をやっても私は救われないと思い込んでいたため、この癖は、治りませんでした。寧ろ、そういうことをしなければ、学校に居られなかったのではないかと思います。
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