取り扱い説明書
小学校にて
保育園を卒園し、私は小学生になりました。
私は、小学校に入って一番うれしかったのは、パソコンができるという事でした。もちろん勉強もできるという事もあったけど。
その当時は勉強は苦でもありませんでした。先生が質問して答えれば褒めてもらえますし、先生にもらうご褒美のシールが、うれしくてたまらなかったです。特に国語の授業は最高で、本をよく読みましたし、作文をよく書きました。作文コンクールにも出して入選したこともありました。
4歳からピアノを習い始めて、演奏技術はあまりありませんでしたが、のんきに習い事として続けていました。
数学や理科はあまり得意ではなかったですが、できないなりによく挙手して、間違った答えを言う癖によく挙手していました。周りの人からは笑われた答えを出すこともありましたが、あっていようが間違っていようが、先生がほめてくれますので、それでよかったんだと思います。音楽の授業では汚い声でありながら、それでも朗々と歌いました。
ただ、先生方にはほめてもらうことは多かったのですが、友達というのは得られませんでした。やっぱり見かけだってきれいではなかったし、字も下手だったし、何よりも運動ができなくて、運動会では負ける原因を作ってしまっていたからです。
それでも同級生の親御さんと一緒に、どこかへ連れて行ってもらったことはありました。それはよかったと思います。
ただどうしても、同級生に近づきたくても近寄れない事情がありました。それは音楽の趣向の違いでした。同級生の親御さんの車でかかっていた、GRAYとか、小室哲哉とか、そういう人たちの曲を聴きたいと思っていましたが、母が、クラシックばかりを愛好し、それを許してくれなかったからでした。母は、ああいう音楽を、汚い声だと言って、軽視していました。恋愛ドラマとか、そういう物がすきな人ではありませんでした。だから私も、恋愛ドラマを見られなくて、ほかの同級生の持っていたものが手に入れられず話題についていけられなくて、結局同級生たちから相手にしてもらえなかったのです。それは本当に悲しいことで。高学年になるにつれて、その傾向はさらに強まり、ずっと独りぼっちであることも珍しくなくなりました。追いついたことと言えば、その当時はやっていた、アディダスの服や鞄を買ってもらえたことでしょうか。それだけでも、やっとみなと同じになれたと、わたしは、すごく喜んでいました。
小学校では、友達はなかったのですが、学校授業というものは、面白く感じていましたので、まだ通うことができたのではないかと思います。ただ、学校が終わると、異常なほど疲れ張てて、寝たり起きたりしていたことはよくありましたし、なかなか宿題に取り組めなかったことはありました。また、忘れ物が多くて、誰かに絵具とか、書道道具などを貸してもらって、授業を受けたことはよくありました。そういうところから見ると、私は少々変わっていたのかもしれません。ただ、よく挙手はとにかくやっていましたので、それでほめてもらうことは多く、それで好成績は得ていましたので、それだけはよかったのかもしれません。勉強ができないと言って怒られるという思いでもあまりありませんし、宿題は必ずやってね、とは言われましたけど、やればおこられずに済みました。
ただ、林間学校や修学旅行などでは、一緒に行動する友達がなかったので、単独行動となってしまい、先生に叱られたことはありました。それは認めます。
そこは問題だったのですが、小学校時代は、少しばかり変な奴だった程度で、あまりわるい思い出はありません。当時は多かれ少なかれ何か問題もあったと思いますが、これからの事や、現在の惨めさに比べたら、小学校のころ何て、いい時代だったのではないかと思います。
小学校に入ると、母も体調を回復してくれて、一緒に食事したりコンサートに行ったりしましたので、このころになると、怖い人とは思わなくなりました。
ただ、四年生のときに家を建て直しましたが、その時は家の間取りなどを含めて、けんかが絶えなかったし、家の中に桜の木を植えたいと母が言い出して、祖父にひどく叱られていたのを記憶しています。最も、この理由がなぜなのか、私はわかりませんでしたが、もっとすごいトリックだったのは、後になってからわかった話でした。
五年生くらいになれば、母が保育園の勤めに復帰したので、また祖母が晩御飯を作ってくれて、休みの日には買い物に付き合って、荷物持ちもしましたし、これまで通り、祖母が昔ながらの遊びを教えてくれて、それが自由研究のきっかけにもなったりして、面白い生活でした。
自転車にやっと乗れるようになったときは、本気になって遠方のギフトショップまで行き、母に大きなカバンを買ったこともありました。
そんなこともあってそれは楽しい時代だったなと思います。
ただ、父は、余り存在感がありませんでした。
そこは認めます。
理由はよくわかりませんでしたが、小学校時代、父との思い出はあまりないのです。
もちろん、仕事が忙しい人でしたから、それはわかります。でも、休みの日にはどこかへ行ったとか、そういう記憶はあまりないのです。
大体家族との思い出は、母、祖父、祖母が中心で、父との思い出はあまりなかったような、、、。
思い出してみろ、と言われても出てきません。
川崎のおばさんのご主人は本当に楽しそうに遊んでいるのに、なんでうちはいつもごろごろしているのだろう?と、疑問に思ったことは、有りましたが、、、。
私は、小学校に入って一番うれしかったのは、パソコンができるという事でした。もちろん勉強もできるという事もあったけど。
その当時は勉強は苦でもありませんでした。先生が質問して答えれば褒めてもらえますし、先生にもらうご褒美のシールが、うれしくてたまらなかったです。特に国語の授業は最高で、本をよく読みましたし、作文をよく書きました。作文コンクールにも出して入選したこともありました。
4歳からピアノを習い始めて、演奏技術はあまりありませんでしたが、のんきに習い事として続けていました。
数学や理科はあまり得意ではなかったですが、できないなりによく挙手して、間違った答えを言う癖によく挙手していました。周りの人からは笑われた答えを出すこともありましたが、あっていようが間違っていようが、先生がほめてくれますので、それでよかったんだと思います。音楽の授業では汚い声でありながら、それでも朗々と歌いました。
ただ、先生方にはほめてもらうことは多かったのですが、友達というのは得られませんでした。やっぱり見かけだってきれいではなかったし、字も下手だったし、何よりも運動ができなくて、運動会では負ける原因を作ってしまっていたからです。
それでも同級生の親御さんと一緒に、どこかへ連れて行ってもらったことはありました。それはよかったと思います。
ただどうしても、同級生に近づきたくても近寄れない事情がありました。それは音楽の趣向の違いでした。同級生の親御さんの車でかかっていた、GRAYとか、小室哲哉とか、そういう人たちの曲を聴きたいと思っていましたが、母が、クラシックばかりを愛好し、それを許してくれなかったからでした。母は、ああいう音楽を、汚い声だと言って、軽視していました。恋愛ドラマとか、そういう物がすきな人ではありませんでした。だから私も、恋愛ドラマを見られなくて、ほかの同級生の持っていたものが手に入れられず話題についていけられなくて、結局同級生たちから相手にしてもらえなかったのです。それは本当に悲しいことで。高学年になるにつれて、その傾向はさらに強まり、ずっと独りぼっちであることも珍しくなくなりました。追いついたことと言えば、その当時はやっていた、アディダスの服や鞄を買ってもらえたことでしょうか。それだけでも、やっとみなと同じになれたと、わたしは、すごく喜んでいました。
小学校では、友達はなかったのですが、学校授業というものは、面白く感じていましたので、まだ通うことができたのではないかと思います。ただ、学校が終わると、異常なほど疲れ張てて、寝たり起きたりしていたことはよくありましたし、なかなか宿題に取り組めなかったことはありました。また、忘れ物が多くて、誰かに絵具とか、書道道具などを貸してもらって、授業を受けたことはよくありました。そういうところから見ると、私は少々変わっていたのかもしれません。ただ、よく挙手はとにかくやっていましたので、それでほめてもらうことは多く、それで好成績は得ていましたので、それだけはよかったのかもしれません。勉強ができないと言って怒られるという思いでもあまりありませんし、宿題は必ずやってね、とは言われましたけど、やればおこられずに済みました。
ただ、林間学校や修学旅行などでは、一緒に行動する友達がなかったので、単独行動となってしまい、先生に叱られたことはありました。それは認めます。
そこは問題だったのですが、小学校時代は、少しばかり変な奴だった程度で、あまりわるい思い出はありません。当時は多かれ少なかれ何か問題もあったと思いますが、これからの事や、現在の惨めさに比べたら、小学校のころ何て、いい時代だったのではないかと思います。
小学校に入ると、母も体調を回復してくれて、一緒に食事したりコンサートに行ったりしましたので、このころになると、怖い人とは思わなくなりました。
ただ、四年生のときに家を建て直しましたが、その時は家の間取りなどを含めて、けんかが絶えなかったし、家の中に桜の木を植えたいと母が言い出して、祖父にひどく叱られていたのを記憶しています。最も、この理由がなぜなのか、私はわかりませんでしたが、もっとすごいトリックだったのは、後になってからわかった話でした。
五年生くらいになれば、母が保育園の勤めに復帰したので、また祖母が晩御飯を作ってくれて、休みの日には買い物に付き合って、荷物持ちもしましたし、これまで通り、祖母が昔ながらの遊びを教えてくれて、それが自由研究のきっかけにもなったりして、面白い生活でした。
自転車にやっと乗れるようになったときは、本気になって遠方のギフトショップまで行き、母に大きなカバンを買ったこともありました。
そんなこともあってそれは楽しい時代だったなと思います。
ただ、父は、余り存在感がありませんでした。
そこは認めます。
理由はよくわかりませんでしたが、小学校時代、父との思い出はあまりないのです。
もちろん、仕事が忙しい人でしたから、それはわかります。でも、休みの日にはどこかへ行ったとか、そういう記憶はあまりないのです。
大体家族との思い出は、母、祖父、祖母が中心で、父との思い出はあまりなかったような、、、。
思い出してみろ、と言われても出てきません。
川崎のおばさんのご主人は本当に楽しそうに遊んでいるのに、なんでうちはいつもごろごろしているのだろう?と、疑問に思ったことは、有りましたが、、、。
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