取り扱い説明書

増田朋美

第二部 過去 重い家


ここからは、非常に重い、かつ恨みつらみが入った文書になりますので、読みたくない人は見ないでね。
ある程度、辛辣な表現も見られますが、其れだけつらいのだという事をわかっていただきたく、存じます。もし、同じ精神関係でこちらに来られた方は、読むと症状が再燃する可能性もありますので、それが心配な人は見ないでください。
それでは、私の過去というものを、順々に振り返っていきたいと思います。

重い家
まず、もの心付いた時の家の印象は、これでした。
家が普通の様子とどこか違うと感じ始めたのは、幼少のときでした。特にそれを強く感じたのは、保育園の友人の家に遊びにいったときのことです。友達のお母さんは、本当に親しみやすくて、優しくて、そしておどおどしていない人でした。私の母は、今思うと、いつも委縮していて、元気がありませんでした。まあ、体質的に病弱ということもあったかもしれません。私が幼少の頃の母の記録は、いつも半纏を着て、布団で寝ている母でした。時折内職をやったりして、何とか不妊治療に励んでいたとあとで聞きました。それでも、私以外子供ができなくて、ひどく焦っていたような気がします。情緒的にも不安定で、あまり優しくおおらかな女性ではありませんでした。それよりも、絶えずぶすっとしていて、自分のことで精いっぱい、そういう女性でした。だから友達のお母さんが、明るく楽しくしているのを見て、母とは偉い違いだったなあと今思えばそんな気がします。
私の家は、父はいわゆる入り婿で、改姓したのは父の方でした。そして、母の両親、つまり祖父と祖母がいました。祖母はお嫁さんとしてうちへきたせいか、非常に勝気な人で、明るくて、のんきで、まさしく明朗楽観という言葉があう、言ってみれば、我が家のコメディアンと言えばいいのかもしれません。よくテレビの落語家のまねをして、楽しませてくれていました。母が、前述した通り安定していませんでしたから、祖母がそういうことをしていたんだと思います。私がしていた遊びというものは、そういう分けでテレビゲームとかそういう物ではなく、お手玉やおはじき、あやとりなど、今となってはもうほとんど行われていない、そういう遊びをやっていたんですね。ゴム飛びもやりましたし、チャンバラごっこもしました。私も祖母も水戸黄門が大好きで、よく、助さん格さんの物まねをして、楽しんでいた記憶があります。
幼少期はそんな感じでした。とにかく遊びは古いもの。私は、小学校に入るまで、ファミコンもパソコンも知らずに育ちました。小学校の一日体験入学の際は、パソコンを始めて触らせてもらい、危うく夢中になって出るのを忘れそうになった記憶もあります。それほどパソコンというものは知りませんでした。
そういう分けで、幼少期は、母というより祖母に見てもらっていたようです。母は、私から見るとちょっと怖い人でした。保育園の友達のお母さんがどうしてこんなに余裕があるんだろうと、私が疑問に思うほど、母は、余裕がないって感じをいつも漂わせていました。時折やってくる川崎市に住んでいる母の妹さん、つまるところの叔母ですが、そのおばでさえもあった余裕というものがいつも母にはなかったような気がします。それはなぜなんだろうな。と子供心に思っていましたが、
後で、兄弟ができなかったことを聞かされ、それで体を壊してしまったということが判明した時は、私のせいだったんだなと、大きな衝撃でした。
親戚の家に行っても、保育園の子の家に遊びに行っても同じでした。何かがないのです。親戚の家の子たちは、みんな家庭というともう絶対的に安心で、のびのびしていますし、親戚のお母さんたちは、本当に優しくて余裕がある。なのにうちはそれが全くない。母は、なぜかゼンマイで動くロボットみたいに見えて、ものすごく冷たい。なぜか、常に監督されているように行動しているのです。なんでなんだろう?
それを疑問に思いながら、私は幼少時代を過ごしました。
その中でも、なぜうちの家の空気はこんなに重いのか。
それを、どうしても知りたかったのですが、わかりませんでした。


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