取り扱い説明書

増田朋美

「こうあるべき」はやめて

時折思うんですが、私は、住んでいるこの町が苦手です。
それはやっぱり、難しい話ですが、どうしても、この町では、「完璧ないい子」を演じる必要があるからで。
どうてもお年寄りが言ういい子というのは、天下国家のため、世のため人のために働く人が、一番いい子で、そういう子でないと、良い扱いをしてもらえないんです。
そして、親を大切にして、親を助けて、親の代わりに必死で働くことが一番いいのでしょう。例えば、病気の親に代わって、一生懸命働くのが一番いいのです。いつも、年寄りたちが求めるのは、
「人のために一生懸命」であることだと思います。
ですが、私は違います。人のために一所懸命なんて、とてもできません。
これほど苦しい生活なのに、なぜ人のために一生懸命など、できるのでしょうか。
年寄りが一番嫌いな民族は、「自分のために生きている人」です。
私は、今、自分が生きているので精いっぱいなのですから、他人にかまうことはできません。
薬で体調を維持するだけで、精一杯。ただいるだけです。
生きているだけです。
そんな存在を年寄りは心より嫌うでしょう。
そして私は、発作を起こせば人に迷惑をかけます。これでは、余計に嫌われます。
つまりお年寄りが理想としている若者像は、
「他人のために自分を犠牲にして働き、かつ他人に迷惑をかけないように感情がコントロールできる若者」です。
私は、子どものころから、この生活が苦しいと思っていました。
だって、自己主張も、反抗も許されず、人に何かするのは当たり前なんです。そして、その人たちから何か合理的な報酬が何もない。ただ、若い人は、お年寄りの奴隷のように見えて。それよりも私は、すきだったピアノや、自身の音楽の研究などをするために、人にあまり親切にすることはしませんでした。年寄りは、それを咎めました。きっともっと人のためになれと伝えたかったんだと思いますが、私は、その気になれません。私が、ピアノの練習をしたいので嫌だとか、そういう話をしますと、何を言っているんだ!と叱られます。練習したいから、勉強したいからという言い訳は、効きません。
そのうち私は、「好きなことばかりしている悪い人」というレッテルが付いて回りました。
中学校では、成績もよく、かつ誰かを助けるよい子を演じることを示されました。ピアノの練習に打ち込みたいと言っても、取り合ってもらえませんでした。
高校では、ピアノの練習はやめて、もっと役に立つ学問をしなさい、英語ができるんだから、それを生かして、通訳とかそういう人のためになる仕事をしなさい、そう叱られました。
でも、私は、身勝手な気持ちでピアノに逃げたわけではありません。
それを作ったのは、年寄りたちだったのです。私は、どうしても、この場所にいるのが苦しくて、それから逃れたくて、ピアノを弾いていたのです。この場所が本当に苦しいこと、そして、学校で友達も全くなく、先生にもひどいことを言われ続けて苦しかった私にとって、音楽は、唯一の心の慰めであったのです。ベートーベンやショパンの音楽は、私を慰めてくれる友達であり、薬でもありました。それを全部否定されて、世のため人のためと言われ続けて、もう、疲れ切ってしまいました。
とにかく、私は、悪い女性です。
自分のすきなことを、学問として学べるのなら、それは最高であり、その学問に四年間打ち込んでもいいと思っていました。
でもきっと、私にとってというか、年寄りたちにとって、自分のすきな生き方を求める、という姿勢こそ、間違いなのでしょう。
彼らは、他人に尽くし、助け合い、それを美徳としていますが、できない人は徹底的に白眼視し、
居場所を奪います。
それは、かえって矛盾しているというか、そういう汚いところを私は、見てしまった以上、ここにはいたくありません。
この町の空気は非常に重く、汚く、苦しいです。
そして、若い人は次々と消えていきます。それに気が付かず、年寄りたちは、若い人が自分たちを傷つけると言って、愚痴を言い続けます。
原因を作ったのは、誰なのかと思うのですが、、、。
気が付くことはないと思います。
限界集落になっても、私は、支援はしたくありません。

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