英雄殺しの魔術騎士

七崎和夜

第22話「親と子」

傾きを見せる赤い太陽が南東のオルゼア山脈に触れかかる、夕暮れ時間近の皇城。その謁見の間には、二つの影があった。


一つはフィニア帝国皇帝、アルドゥニエ=ツェルマーキン・フィエンド・フィニエスタ。恩年六十二でありながらその皇位を息子達に未だ譲らず、老いぼれの身ながら帝国の執政に尽力する、まさしく皇帝の鏡ともいうべき存在だ。


対してもう一つは皇帝の末息子、オデュロセウス=ツェルマーキン・アルドゥニエ・フィニエスタ。他の兄弟達とは異なり武への才が無かったにも関わらず、商人として帝国の柱の一端を担い、今や彼の存在なくしては帝国の経済が回らない程度にまで重要な位置に君臨した若き商才の持ち主である。


こんな二人が平時に顔を見合わせているだけならば、誰も咎める事はない。だが状況が異常なだけあって、二人の顔には緊張が見られた。


「ーーオデュロセウスよ」


三時間の沈黙の末、遂にアルドゥニエが徐に口を開き、額に脂を浮かばせながら、重々しく問い尋ねた。


「どうして……どうして内乱など考えおった?   そうすれば皇帝の地位が手に入るとでも、思っていたのか?」


フィニア帝国の皇位は代々指名制。アルドゥニエが皇帝に選ばれた際も、今は亡き父親に名指しで選ばれたのだ。それを直系の家族であるオデュロセウスが知らないとは考えにくい。


だとすれば、どうしてオデュロセウスは内乱などを起こしたのか。アルドゥニエにはそれが全く理解できなかった。


するとオデュロセウスが口を開く。


「決まっているではありませんか。私の最大の祈願ーー戦争ですよ」


その言葉にアルドゥニエは凍てついた。


「つまりお前は……我欲の為に内乱を起こしたと言うのか?」


「ええ、そうですが何か?」


それがどうしたとでも言いたそうに、オデュロセウスは薄ら笑いを浮かべながらアルドゥニエに対面する。


「私は商人です。自分が満たされ、そして契約者が満たされるのであれば私はそれで十分」


「……その契約者というのはアルダー帝国、で間違い無いな?」


「ええ。彼らは私の考えをよく理解してくれています」


オデュロセウスは語る。


「戦争は決して悪いものではない。世の流れを鮮やかに、明確にし、善悪を分け隔て無く見つめる事ができるもの、であるのです」


「何を馬鹿な……っ!」


「それはこちらの方ですよ、父上。何が平和か。平和など表面上の静寂ーー薄氷でしかない。それを誰かが叩き割れば、再び戦乱に巻き戻るだけの話。そして唐突に終わりを迎えた戦乱に誰も不満を、憤りを抱いていないとどうして考えられるのですか?」


「それは……それはお前の事を言っているのか、オデュロセウスよ」


「ええ、母上も戦争によって殺された。貴方に付いて行くと言い向かった戦場で、貴方に当たるはずの矢を受けた死んだと聞きました」


それは今から三十年も昔の話。当時オルフェリア帝国と戦争中だったアルドゥニエは、騎士の士気を高めるために自ら戦場に赴いた。


結果として戦争は両陣営に多大なる被害を与えて集結した。その終幕最後、敵の放った矢からアルドゥニエを庇うために、傍にいたオデュロセウスの母は身を呈したのだ。


治癒術師が数人、死に物狂いで一晩のあいだ治癒魔術を行い続け傷は癒せたものの失血量が多過ぎたせいで、静かに息を引き取った。これについてはフィニア帝国の誰もが知っている事だ。


「その時の私は貴方を憎んでなどいなかった。私もいつか、父上と同じ様に母上を殺した相手に仇を討つために努力をしました。しかし剣術や魔術に才能が無いと知った私は、今度は後方からの支援として商人を目指した。……だが、そんなある日のことだ!」


ガン、とオデュロセウスは靴底で床を思い切り踏みつけた。その音は弱々しくも謁見の間全体に響き渡り、精神的な力にアルドゥニエは唾を飲む。


「貴方が!   あの憎きオルフェリアと!   和平を結んだのだ!   憎んで憎んで憎み続けていたはずの帝国と、あんなにも簡単に同盟を組んだのが腹立たしかった!!」


「ーーーー」


「皇帝が変わったとはいえ、あれは憎き帝国だ!   どうしてあれほどに仲睦まじく出来るのですか!?   自身の妻が殺されたと言うのにどうして……どうしてそこまで相手に優しく出来るのですか!?」


「ーーーー」


「私は貴方が憎い。帝国を許した貴方が憎い。貴方を快諾させたオルフェリアが心底憎い……っ!」


「ーーーー」


「だから私はっ。憎い憎いオルフェリアに復讐する!   アルダー帝国だろうが大罪教だろうが関係無い。善人も悪人も、王族も奴隷も。何でもかんでも利用して、私は復讐を成し遂げるのだ!!」


「…………そう、か」


言いたい事をすべて言い切ったオデュロセウスは、息を荒げながら冷たい視線をアルドゥニエへ向ける。それは親と子を表すような生易しいものでは無く、敵対者を表すような殺伐としたものだ。


対してアルドゥニエはいたって平静だ。オデュロセウスの心の底からの言葉に反論すること無く、しっかりと息子の言葉として胸に受け止める。


そして漏れるように出てきたアルドゥニエの理解を示す言葉に、オデュロセウスは思わず張り詰めていた精神に緩みを生じさせる。


だが。


「ーーお前が私に伝えたいのは、それだけか?」


「な、何を……」


オデュロセウスの何かが、唐突に崩れるような音がした。背筋に冷や汗が流れ、一瞬にして喉が乾き、視界の端が黒く染まる。


「お前が内乱を起こした理由はその様な些細な事だったのかと、私は聞いているのだ」


「なっ……さ、些細な事……だとぉ!?」


遂に怒りを煮え切らせたオデュロセウスは、アルドゥニエの元へと歩み寄り、筋張ったその手でアルドゥニエの胸元を掴み上げる。


「私は母上を愛している!   昔も、そして今もだ!   だからこそ私は母上の仇を……」


「それだけのためにお前は何千人の人間を巻き込むのだと、私は聞いているのだ!!」


今度はアルドゥニエが吠え返す。


「良いか、オデュロセウス。確かに私も妻を殺された事は忘れない。忘れた事は一度も無い!   だが死んだ妻を想い、憎み、幾度と同じ事を繰り返してみろ。それこそ私達と同じ、いやそれ以上に悲しみを抱く人々が増えるのだぞ?   それを繰り返せば、終わりの見えない復讐劇になってしまう。何千で済まない、何万もの人々が死ぬ事になるのだぞ!?   それを妻がーーミリエリーナが望んでいると思っているのか!?」


一字一句、アルドゥニエはオデュロセウスの耳に残る様に強く発しながら訴えかける。アルドゥニエの言葉は謁見の間で反響し、再びオデュロセウスの鼓膜に襲い掛かる。


「だからって……だからと言って、私は母上が受けた苦しみを、痛みを、悲しみを……それら全てを忘れろと貴方は言うのか!?」


「忘れろなど言っていない。受け止め、そして噛み締めろと言っているんだ!   ミリエリーナの死を無駄にしないために、この先の事を、お前の事を、エルシェナの事を。お前達の人生を無駄にしないために!」


「そのための同盟だと?   ふざけるな!   私は五歳の時からこの痛みに苛まれ続けた。ずっと、ずっと、ずっとだ!   今さら無かった事になど出来るはずが無い、母上の復讐のために三十年も生きてきたのだ。この時、この瞬間を三十年も待ち続けたのだ!   母上の事など脳の端に追いやっているようなお前では、この苦しみなど理解できるはずがーーーー」






「ーーふざけないで下さい!!」






その時、外野から声が轟いた。だがその声を聞いた二人は息を飲み、思考を停止させた。なにせその声は、その声音は三十年前戦場で死んだはずのミリエリーナの声と余りにも酷似していたからだ。


そして。


「こんな争いは無意味です。どうか、どうかお父様ーー」


扉が開き、その向こうには亡霊がいた。


「戦争を、殺し合いを。止めてください!」


いや、それは亡霊などでは無い。アルドゥニエの孫娘であり、オデュロセウスの娘である少女ーーエルシェナだ。


彼女が涙ながらに大声で訴えかけてきたのだ。





天変地異の前触れのような沈黙が、辺りを支配する。アルドゥニエは焦り、オデュロセウスは予想を超えた出来事に息を詰まらせる。


「え、エリー……一体今までどこに……」


きっとリドニカ中を隈無く探したのだろう。娘の顔を見るなり心配していた親の表情と、唐突に現れた娘に対する憤怒の表情が入り混じっていた。


「お前が内乱を起こすと察知したアルドゥニエ皇帝陛下が、彼女をこちらに向かわせていたんだ」


「お前はグウェン=アスティノス!   そうか……予想以上に戦況が動かないのは貴様らの所為か……っ」


エルシェナの背後から姿を現した男ーーグウェンを見て、オデュロセウスは歯を噛み締めながら睨む。


「この対応の早さ……やはり我がフィニア帝国は既にオルフェリアの手中という訳か!   この売国奴め!」


「そういう言葉は自分の現状を見ていうんだな、オデュロセウス皇子。それに対応が早いと言っても、首都には俺とアランの二人しか帝国騎士はいない。しかも帝都から向かって、な」


「虚言だ!   貴様らのような勝者の口車になんぞ乗ってたまるか……!   それに私は父上と話をしている、邪魔をするな帝国の犬めが!」


「ーー酷いことを言わないで!!」


叫ぶように、エルシェナが割って入る。


「帝国の犬ですって?   それこそ今のお父様がそうではありませんか!   アルダー帝国の手を借り、人形のように操られ、無意味な戦いを繰り広げている駄犬そのものではありませんか!」


「私は駄犬などでも傀儡などでも無い!   この計画は私が考え、私の手で始めた事だ!」


「ではどうして、フィニアの騎士のみで事を為さなかったのですか!?   アルダー帝国はこれを機に首都を滅ぼし、フィニア帝国を我が物にしようと企んでいるはずです!   それをお考えになれないほど乱心しているのですか!?」


エルシェナの言う通りだ。首都リドニカは外からの守りに特に重点を置いた造りになっている。二百年以上も経っているはずなのに、未だ魔術による攻撃にさえ耐えるその堅固な城壁を大陸中に誇っていた。


だが逆手に考えれば、内側に入る事さえ叶ってしまえば後は相手側のやりたい放題だ。ただ今回は時間があった事もあって、最終防壁である白璧の内側に国民を収納できた事が第一の不幸中の幸いといった所か。


ともかく現状、白壁の外側全てがアルダー帝国に支配されたと言っても過言では無い。未だ魔術騎士という形態に不慣れなフィニア帝国にとって、物量で攻め続けてくるアルダー帝国は天敵だ。


ここからフィニア帝国騎士だけで挽回を試みようとも絶対不可能だと言えるだろう。内乱が起きた原因がオルフェリア帝国との和平だとはいえ、オルフェリア帝国と同盟を組んでいた事が第二の不幸中の幸いだ。


だがオデュロセウスは、エルシェナの正論を鼻で笑うように言い返す。


「心配は無い。アルダー帝国の皇帝とは既に同盟を組んだ。相互軍事不可侵条約と共に農作物の貿易、新開発の魔道具提供、その他にも幾つもの公約を結んでおいた」


その余りの自信振りにエルシェナは拳を強く握り、父親に憤慨を覚えた。


「どうして向こうが公約を守ると考えているのですか?   アルダー帝国はかつてフィニアに、何度も何度も無慈悲な侵攻を行っています。無論、何度も停戦の申請を行いましたが全て跳ね返され……その度に何千人と死んでいます!   そんな帝国をお父様は信じられるというのですか!?」


「ならばオルフェリアはどうだと言うのだ?   争いを望まなかった我々が、奴らに何千人殺された事か!   親族や友人、果てには母上まで殺された……どうして信じられるというのだ!?」


確かにオデュロセウスの青少年時代、つまり前皇帝の時代はフィニア帝国や纏まりの無かったカルサ共和国に幾度と侵攻を繰り返していた。


堅固を誇るフィニア帝国はとにかく、統一されていなかったカルサ共和国は大半が手中に堕ち、革命以後の今でも植民地時代の背景が色濃く残る地域もあるほどだ。


ともかくフィニア帝国は首都まで一度も落ちなかったとは言え、その被害は甚大だった。オルフェリアの勢力が上昇し始めた三十年前あたりは、特に酷い。


リドニカとリーバスを直線に繋ぐ道中がやけに荒れているのは、その事が原因だと言える。魔の森も、その戦いの屍から漏れ出た魔力によって生み出されたのだ。


残虐な時代から三十年。五年をかけてゆっくりと関係を柔からにしたオルフェリア帝国だが、未だ帝国騎士を見る目は厳しい。リドニカに駆けるアラン達を見た首都外の国民達が、怯えるような目で見ていた理由はこれだ。


「オルフェリアは違います。現にこうして手を取り合って生きているではありませんか!」


「そんなもの偽物だ!   再び戦乱の世に入ればオルフェリアも手を離す。そいつらは善人の仮面を被った、ただの殺戮者なのだからな!」


それに、とオデュロセウスは話を続ける。


「アルダー帝国の狙いはあくまでもオルフェリアだ。フィニア帝国を狙うのは、オルゼア山脈を迂回する際の安全な道筋を築くために過ぎない!   ならばこそ、私はアルダー帝国と手を取り合ってオルフェリアを滅ぼそうと言うのではないか!」


「ーーーー」


「今は亡き母上の仇としてオルフェリアを滅ぼし、そして皇帝に言いつけてやるのだ。『我が母上が受けた苦しみ、痛みはこれ以上だ』とな!」


「ーーーー」


「そのためにまずは、オルフェリアの偽善者どもの所為で腐ったフィニアを建て直す!   貴様を殺し、オルフェリアなどと手を組んでも無駄だと思い知らせるのだ!」


「ーーーー」


「もしその道に……エリー。お前が立ちはだかると言うのならば、私はお前もろとも斬り殺してみせよう!」


「ーーそう、か」


エルシェナとオデュロセウスの口論を静かに傍観していたグウェンが、唐突に口を開く。だがそこにはいつものような冷静な感情は含まれておらず、ただ一筋に怒りが込められていた。


刹那。


「ーーッ!?」


音もなく、グウェンはオデュロセウスの下に歩み寄った。余りの無音に、余りの鮮やかな縮地に、エルシェナはまばたきすら忘れて魅入ってしまう。


そして。


「ふざけるな!」


「あぐぅッ!?」


固く握られたグウェンの拳が、オデュロセウスの右頬を強く殴った。本来魔力によって身体強化をしていれば、十数メートル離れた壁まで一直線に吹っ飛んでいただろう。


だがグウェンは魔力を纏わずに普通の拳で思い切り殴った。魔力を使える人智を超えた存在としてではなく、ただの普通の人間して。


そして説く様に言った。


「子が訳あって親を殺す事には別段何も言わない。それは親に原因があるのだからな。……だがな、親が子を殺すのは決してあってはならない。それは親として、延いては人間として最低の価値だ」


「な、何を……」


「『親にとって子は全て』。これは俺が母から聞いた言葉だ。親というのは我が子を第一に考えなければならない、そういう事だと俺は思っている」


「だから何をーー」


「端的に結論を伝えてやろう。お前は、クズだ。親が子に刃を向けるなど、天地がひっくり返ってもあってはならない事だ。事実、アルドゥニエ皇帝陛下は剣を提げているというのにその気を全く見せていない。それが覚悟の表れというものだ。そしてさらに付け加えて言わせてもらおうか……」


グウェンはオデュロセウスの胸倉を掴んで持ち上げる。長身のグウェンと平均よりもやや低めのオデュロセウスな事もあって、オデュロセウスはつま先がギリギリ届かない姿勢を取る羽目になった。


「お前が受けた痛みはどの程度だ?」


「何を……」


「お前の母親が殺された時、お前はどれほど心に傷を受けたと聞いているんだ」


「それは……」


ギリっと歯を噛み締め、グウェンの目を見据えたオデュロセウスは吐き捨てる様に言う。


「胸が裂かれた様な思いだったさ!   聖母のように優しく美しく、殺生を特に嫌っていた母上を殺したオルフェリアが心底憎い!   どうだ、この言葉が聞きたかったのだろう?」


「そうだ。そしてお前にいい事を教えてやろう」


パッと手を離すと、グウェンは尻餅をついたオデュロセウスを見下ろしながら淡々と言い放つ。


「所詮お前はーーその程度で済んでいる」


「な……っ!?」


「分からなかったか?   お前の苦しみはその程度でしかないと言っているんだよ。その死を直視した訳でもないお前が胸を引き裂かれるのならば……お前の父親は、一体どれほど苦しみを強いられたと思う?」


「ーーーー」


「もう、分かっているのだろう?   ……そう、お前以上に苦しんだはずだ。なにせ目の前で亡くなったその人は、彼が世界で最も愛した人物なのだからな」


「ーーーーっ」


グウェンの言葉が毒矢のように心へ突き刺さって、じわじわと侵食を始める。


オデュロセウスは想像をしてみた。もしも目の前でミリエリーナが射抜かれて殺されたとしたら。


耳に残る空気を切る矢の鳴く音。
ほんの数瞬前まで微笑んでいた母親。
終戦に気を抜かす自分。
刹那、肉を刺すような生々しい音。
唐突に溢れる負の感情。
吐血しながら倒れる母親。
状況を理解してようやく近寄る。
止めどなく溢れ続ける鮮血。
母親に声をかけながら、ひたすらに自分を咎め続ける。


困惑、苦悩、怒り、憎しみ、悲しみ、靄がかかったように精神がまともに安定などせず、母親に向かって矢を放った人物をただ殺したいという思いが、純粋な殺意が奥底から湧き上がってくる。


殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したいーーーーーーーーいや、殺す!!


空腹の余り肉を無心で貪る獣のように理性など消え失せて、ただ純粋に殺すためだけに剣を握り仇を討たんと戦場を駆け抜ける。そして膝をつく敵に向かって白銀の刃を振り上げてーー


「ーーそうか」


理解する。そう、オデュロセウスはこの苦しみを理解した。目の前で大切な人が殺されるという地獄を、すべてを放り投げて野生の如く殺戮を求める衝動を。


だがその上で思ってしまう。アルドゥニエが受けた苦しみは、この理解すらも上回る痛みなのだろうかということを。その痛みを受けてなお、仇であるオルフェリア帝国と和平を結ぶ理由は何なのかを。


いや、その答えはすでにあった。すでに耳にしていた。そう、それは我が子らのためであると。


皇帝が変わったとしても、帝国に対する敵意が失せる事は無かっただろう。それでもアルドゥニエは未来のために、誰かのために幸せである選択を選んだのだ。


だがそれはアルドゥニエが独り善がりで選択した、自分自身の正道でしかない。その先に誰かを思う事があっても、道中に誰かを想う気持ちは全くない。


その結論として立つのが、今のオデュロセウスだ。ミリエリーナの死を乗り越えたその先を見るアルドゥニエとは対極的に、オデュロセウスはその死を三十年過ぎた今もなお引き摺っている。


「ーーそうか」


アルドゥニエは、決してミリエリーナの死を忘却の彼方へと追い遣ろうとしている訳ではない。その苦しみを、その悲しみを心に打ち付けて、前へと踏み出しているのだ。


「はは……ははは。つまり私はあの頃のまま……泣きじゃくってただ暴れている子供のままだったという事か」


怒りに溢れてた熱が、急激に下がるのを実感した。肩の荷が落ちるように、途端に身体から力が抜ける。


徐に立ち上がったオデュロセウスは、グウェンの横を通りながらふらつく足で僅か数段の階段を下る。そしてすぐ側の柱に背を凭れかけた。


理性的に行動しているつもりだった。あれから三十年も経って、心身ともに強さを増していると思っていた。


だが違った。ここにいたのは、ここに立っていたのは三十年前からずっと変わらない、幼いオデュロセウスだったのだ。


戦争を支持する根底にあるのは、純粋なオルフェリア帝国への復讐心。そこで戦争を選択したのは、きっと考えが甘いからだ。


戦争以外にも幾らでも選択肢はあったはずだ。なのに最悪を選んでしまったのは、自分が稚拙であったとしか言いようが無い。


「なるほど……私はきっと、あの甘い言葉に誑かされてしまったのだな」


奴もきっと、変わらないその幼心を見抜き、揺さぶり、巧妙に操っていたのだ。


傀儡だ。本当にエルシェナの言う通り、この身は傀儡でしかなかった。そして向こうが一枚も二枚も上手だったという事だ。


はははは、と乾いた笑い声が謁見の間に木霊する。その声はとても冷たく、とても悲しく、そしてとても孤独だった。


だが。






「ーーお話は、終わりましたか?」






波一つ無い湖に一石を投じるかの如く、その人物は唐突に現れた。


「ーー誰だ!?」


真っ先に問うたのはグウェンだった。アランやリカルドほどで無いとはいえ、魔力波動を感知する事に自信があったグウェンにとって、その存在はまさしく異常。


気配や存在を消す事はともかく、万物に共通してある魔力波動は、キクルの固有魔術でも無い限りは消す事は不可能だ。


だがもしキクル同様の固有魔術を有しているのだとすれば、その隠密術は常識の域を超えている。敵としては最悪な存在だ。


「嫌だなあ、グウェンさん。そんなに怖い顔をしないでくださいよ」


敵意を剥き出しにするグウェンに対して、その存在はとても気軽な口調でグウェンに話しかける。声質からして男であろうその人物は、柱の影からゆっくりと姿を現す。


そして。


「アルドゥニエ皇帝陛下、エルシェナ姫。初めてお目にかかります、私は大罪教『怠惰司教』ーー」


それは紛れも無いーー






「怠慢の王、ツウィーダと申します」






ベルダー=ガルディオス、その者であった。

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