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英雄殺しの魔術騎士

七崎和夜

第8話「謎の敵、再来」

帝国の絶対政治機関『六貴会ヘキサゴン』が一翼、グローバルト家の次女、ユリア=グローバルトは朝に滅法弱い。


別に夜更かしをしているわけでもないが、どうにも朝は倦怠感と睡魔が強い主張を露わにしており、確固とした意志がない限り、ぱっちりと目が覚める事は決してない。


だがそんな彼女が今日珍しく早起きをした。侍女がいつもの様に起こしに来る前に、スッと天蓋付きのベッドから起き上がり、淡いフォレストグリーンのカーテンを開けて外を眺める。


「今日も晴れ」


活き活きとした声でそう呟くと、ユリアは振り返りざまに化粧台の上に置いてある写真立てを手に取った。


そこには十歳ほどの少女らしい笑みを浮かべるユリアの姉とぎこちない笑みをするアラン、そしてその二人の間に無表情で立つユリアが仲良く並んでいた。


……アルにぃに会ったのは五年ぶり。


およそ八年前、ユリアがアルカドラ魔術学院の初等部に入学すると同時に、アランは既に中等部にはいなかった。このまま順当に上がればアランは中等部にいるはずなのに、誰に尋ねてもアランはそこにいなかった。リカルドに尋ねてみたら高等部にいることが分かって、一時的には安心した。


だがしかし、それから三年後。再びアランの姿が見えなくなった。リカルドに尋ねてもだんまりを続ける。


ただ毎月に送られてくる手紙で、アランが生きている事と、不自由なく暮らしている事だけは分かった。


そしてあれから五年の歳月が流れ、ユリアはどこにいるか分からないアランに少しでも近づこうと汗血を流す様な努力をした。今では『魔剣祭レーヴァティン』優勝候補筆頭と讃えられているが、ユリアはそんな事はどうでも良かった。


姿なき義兄を追い求め、その横に立ち並ぶために人の数倍の努力をした。剣術も魔術も、今では帝国騎士と遜色変わりないほどに上達している。


そして五日前。いつものように家族全員で夕食を取っていると、


『あー……ユリア。明日は早めに学院に行ってみな。もしかしたら、アランに会えるかもしんねぇぞ』


そうリカルドは言った。無論ただの戯言だと、最初は思った。だが父がアランの事で口を開くとなると、これはどうも怪しい。そう感じたユリアは翌朝、自分自身でも驚くべき早さで目が覚め、身支度をすると同時に学院へと駆け出した。


時刻にしてまだ七時を少し過ぎた頃。行き交う人達もまだ寝ぼけ眼で、通り道の商業区にある噴水広場の朝市ですら始まったばかりだ。


だがユリアにはそんな事はどうでも良かった。今その時は、アランだけが彼女の原動力となっていた。坂道を駆け上がり、学院門を潜り抜け、門の入り口でただじっと待ち続けた。


そしてそれから三十分ほどして。


『…………ぁ』


二人組の男女が門を潜った。一人は初等部の頃からの親友で、どういう訳か皇族なのに人民区に住む女生徒。


そしてもう一人は考えるまでもなかった。八年も経って背も伸び、声変わりもしたはずなのに、その風貌や歩く仕草、微々に漏れ出ている魔力までユリアは全て覚えている。


『アルにぃ……』


そう呟くや否や、ユリアは駆け出した。久しぶりと言いたい。名前を呼ばれたい。頭を撫でられたい。強くなったな、と褒められたい。相変わらず可愛いなとも言われたい。そして何より、強く抱きしめて欲しい。


彼の着る服の袖を引っ張ると、案の定アランだった。その時ユリアは八年間の努力が報われたと思った。


そしてあれから五日が過ぎた。昨日は用事でアランに会えなかったが、今日はセレナの家に行く事を前もって両親に伝えてある。


「……頑張れ、私」


何を頑張るのかは分からない。だが気合いを入れるように自身に声をかけると、ユリアは写真立てを化粧台に置き、踵を返して身支度を始めるのであった。


◆◆◆


時刻は午前九時。朝食を食べ終えたアラン達は、昼時から来るというユリアの歓迎に向けて、屋敷内を徹底的に清掃していた。


……一人を除いて。


「そういえばさっきから何見てんだ、セレナ?」


床の木目を藁箒で掃くアランが、テラスで揺り椅子に腰をかけて何かを読んでいるセレナに声をかけた。


「これ?   ご覧の通り『名無き勇者の物語』よ」


「あー、あの本か」


無き勇者の物語。それはイフリア大陸全土に広まる、昔の言い伝えから派生した物語。タイトル通り主人公は名前の無い勇者で、作中には「この勇者」や「彼」などで表記されている。


物語の内容も至ってポピュラーで、伝説の勇者となった青年が、高い山の上の城に住む凶悪な魔王とその眷属を倒すというものだ。内容そのものが子供向けで挿絵も入っているので、芸術的観点からも有名であり、世に多く出回ってはいるものの、一つ欠点があった。


「その本、なぜか原作が第一神聖語で書かれているんだよなあ……」


そう、オルフェリア帝国が日常的に使う言語や文字は第二神聖語で、第一神聖語はそれよりも八百年以上も昔に使われていたものとなる。魔術方陣に描かれる文字も第一神聖語だが、全てを訳せる者は、魔術を志す者の中でもほんの一握りしかいない。それほど解読に難しい言語なのだ。


「というか、お前それ読めんの?」


一応学院にも神聖語学はあるが、講師によって翻訳のニュアンスが異なるためほぼ独学でないと使い物にならない。


あいにくセレナは魔術理論に対しては優れていると先日知ったので、そういう意味で読めるのか、と尋ねたアランに、セレナは照れ笑うように言った。


「所々ね。一文スラッと読める時もあれば、見開き丸ごと読めない時もあるわよ。アンタはどうなの?」


「大方読める」


「嘘!?」


「ひっでぇな……こう見えて俺、神聖語解読の専門証明書ライセンス持ってますから」


ちなみに専門証明書は、学院内における解読試験で一定以上の神聖語を解読すれば手に入れられる。ただしその一定というのがとても鬼畜で、文字数が約三万。木綿用紙にすれば百枚ほどだ。


そんな試験を受けるのは余程の勉強熱心か、ただの苦痛快楽主義の変人しかいない。


「え、何?   もしかしてアンタ、帝国騎士じゃなくて本職は学者だったりするの?」


「まさか。ちょっと気になった帝国図書館の秘蔵文献を見るために資格を取っただけだ」


帝国図書館の秘蔵文献保管室に置いてある本の大抵は、神聖語解読の専門証明書が無いと読むことを許可されていない。無断で読むと重罪となる。


だがそんな物を読むためだけに専門証明書を会得するなど、常人の行う様な事では無い。


「……ちなみに何年勉強したの?」


「は?   半年勉強したら、簡単に取れたけど?」


「アンタって、実は天才なのね……」


おずおずと尋ねた自分が馬鹿馬鹿しく感じ、絶望に満ちたようなため息を漏らしながら、セレナは再び本へと視線を落とした。


……全く読めない。


物語第五章。挿絵的には勇者が魔王の眷属と戦うシーンが多い事から、おそらく眷属について色々と書かれているのだろう。


「勇者は……その剣は疾く斬り裂き……だが、眷属は………駄目ね。全く分かんない」


解読にはまだまだ掛かりそうだ。


「……あ、そういえばこういう話は聞いた事あるか?」


そんなセレナの元へと藁箒を持ったアランがやって来て、言った。






「どうやら大陸各国で、その話の結末がどうやら違うらしい」






「……え、なんで?」


「さてね。一部の説だと昔は印刷技術なんて無かったから、全て手書きだった所為で作者本人が書きミスをしたんだろう、ということになっている」


他にも多くの説はあるが、どれも根拠と可能性に欠けており、あくまで推察とでしか成り立っていないのだ。


「例えば隣国のフィニア帝国だと、魔王と勇者が相討ちになった事になっているし、カルサ共和国だと、勇者は魔王を倒せず城の中に封印した事になっている」


「そうね。私達は『魔王の心核を貫き、勇者は勝利を得た』が正しい事になっているし……そう考えると気になることは幾つかあるわね……」


「例えば?」


「イフリア大陸には今、七つの国があるでしょう?   その『七』という数に関連してか、魔王の眷属の数も何故か『七』なのよ。これってただの偶然?   それとも何か意味が……」


そう言うや否や、セレナは俯いて考え始める。その仕草が余りにも様になっているので、アランは、


「なんつーか……お前は騎士になるより学者の方が似合うんじゃないか?   そうやって文献の謎を考えたりするなら、そっちの方が……」


と言った。だがセレナは首を横に振って否定する。


「冗談。これはあくまで過程の一つ。私は帝国騎士になって行きたい場所があるの」


「行きたい場所?   そんなもん限られてるが……どこだ?」


アランの問いに、セレナは静かに帝都城壁の向こう。東へ数百キロメートル先にある、異様な気配を漂わせた山脈を指した。確かあれは、


「オルゼア山脈……だっけか。あの『フリーゲルの幻想城』で有名な……」


「そう。それこそが私の目的なの」


あの山脈は『名無き勇者の物語』でも出てくる魔王が住んでいた城がある場所とされている。事実、視覚強化と超巨大な望遠鏡のダブルコンボで山頂を凝視した結果、そこには白褪せた古城がぽつんと建っていた。


確か二十年ほど前に古城調査と称してオルフェリア学術調査隊、計百三十五人を送り出した。


しかし、二ヶ月して帰ってきたのはたったの七人・・だった。しかもうち六人は重傷を負い、一週間もしないうちに息を引き取ったらしい。


その後三国で考えた結果、古城のあるオルゼア山脈周辺の危険等級を最高位の『SS』に認定。残った生還者の名前から取って、古城の名は『フリーゲルの幻想城』となった。


「あの城は何なのか?   この『名無き勇者の物語』と関係があるのか?   そもそも城をあんなところに建てた意味は?   私はそれを知りたいの」


今や考古学の中でも重要価値となりつつある『フリーゲルの幻想城』は、小さな情報そのものが一財産と変わらない価値を抱いている。もちろん真偽もあって、少しでも偽りだと学者達が感じたらそれはすぐに却下。新たな可能性を抱いた情報を数人がかりで吟味する。


だが金銭に不自由がないセレナは目的が違う。


……だってあの場所にはーーーー


そう考えたところでセレナはテーブルに本を置き、大きく伸びをした。


「……ところで、掃除はもういいの?   もうすぐお昼時だけど」


「うわ、やっべぇ……間に合わなかったらリアにナイフ投げの的にされる……」


じゃあ後で、とだけアランは言い残して部屋を去る。ガチャンと扉が閉まる音とともに一筋の風がセレナの頬を撫で、本のページが流れるように捲れた。数十枚ほど捲れた後、セレナにそのページを見て欲しいかのように紙は動きを止める。


「……確かここは……」


物語の第二章の始まりの部分だったはず。相変わらず第一神聖語で書かれているため読めないが、そのページの右側には白黒の挿絵があった。






屍の山に立つ、魔王の絵が。











「ようこそいらっしゃいました、ユリア様」


「うん、お邪魔します」


昼食を食べ終えた頃にユリアはやって来た。


未熟な肢体を少し大きめの白シャツで包み、黒のキュロットスカートで腰の細さを強調し、艶かしいほどに魅力的な脚は黒のニーソックスで隠されている。


出迎えたユーフォリアですらうっとりしてしまうほどに、今のユリアは誰がどう見ようと絶世の美女に違いない。


「……つーかさ。そのシャツ、俺のだよな?」


その中で唯一耐性があったアランが、どこからどう見てもユリアの着るシャツに見覚えがあり、試しに尋ねてみると、


「アルにぃがいなかったから勝手に貰った」


「まあ、小さいから使って貰えるんなら別に構わんのだが……」


義妹というのは義兄が着ていた服を好んで着るものなのだろうか。アランは不思議でならなかった。


まあいい、とアランは言うと、


「さて。来てすぐですまんが、少し手伝ってくれ」


事前に騎士団から借りていたバスターソードを持ったアランは、二人を連れて庭へと歩く。


「ユリア。身体強化した状態で闘うとしたなら何時間保つ?」


「ん。……多分、五時間?」


「まあ、そんなもんだろうな。じゃあセレナはどうだ?」


「私は……に、二時間ってところじゃない?」


ユリアの半分にも至らない自分に羞恥心を抱いたのか、セレナは顔を赤くしながらアランに答えた。


「少し短いな……まあ、それは後々になんとかするとして。実際の闘いになると剣術だけじゃなくて魔術も使う事になるから、魔力消費を考えると……ユリアは二時間でセレナは三十分が良いところだろう」


「私、そんなに保たないと思うけど……」


「そりゃあ魔力限界リミットアウトまで魔力を使った場合で考えてるからな」


さて、とアランが剣を地面に下ろし、二人に近づく。ユリアの肩に右手、セレナに左手を置くと、すぅと息を吸いーー


「「……っ!?」」


全身を剣で貫かれた様な感覚を覚えた二人は咄嗟に魔力で全身を強化。バックステップでアランから離れた。


「アルにぃ、何を……」


「そうよ、何よあの殺気は!」


完全に獲物を狙う猛獣から溢れる気配そのものだった。今思い出すだけでも胸が冷える。


「ーーよし、お前らそのままの状態をキープな」


「「……へ?」」


だがアランはいつもと変わらない冷めた顔で、床に置いた剣を三本全て掴み取り、二振りを状況を理解できていない二人へと渡した。


「ユリアは昔やったから知ってると思うが……今から俺がこれで思いっきり叩くから、全力で防げ」


そう言って見せたのは二人が持つ剣と同じバスターソードだ。刃の肉厚加減や剣身の長さ、素材の質や純度、何から何までほぼ同類。さすが騎士団直属の専属鍛冶師が作成しただけある。


そんな剣同士が衝突し合えば勝敗を決めるのはたった一つ。


「魔力操作の訓練って事ね」


「お、さすが。頭脳系なだけはある」


うっさいわね、とアランに毒づきながらも背中に冷や汗が垂れるのを感じていた。


魔力による身体強化も無しで、同じ剣を三本も軽々と持つアランの筋力からして、おそらくセレナとの筋力差は十倍以上。それを補うためにはかなりの身体強化をしなければならない。極めて緻密な魔力操作が必要だ。


「じゃあユリアから。よく見とけよ、セレナ」


頭上へと剣を持ち上げ、静かに構えるアラン。何もかもが停滞したかのように音が聞こえない。張り詰めた集中力が余計な情報を切り捨てているのだ。


だが一筋の風が吹くと刹那、






「ふっ!」






鋼同士がぶつかり合う、激しい金属音が辺りに轟いた。余りの衝撃に風が舞い、腹の奥底が震える。


……なんて威力なの……っ!


学生同士では滅多に見ることの無いレベルの剣撃に、目を細めながらセレナはただただ圧倒された。


しかしユリアは、


「……んっ」


いつもの事だとでも言いたそうに、全身強化でアランの剣を受け止めていた。接触面でチリチリと火花が舞うが、二人はそれを気にしない。


「……よし。相変わらず訓練はしている様で兄貴は安心だ」


「うん、約束だから」


偉いぞー、とアランは左手でユリアの頭を撫でながら、剣を二、三度振り感覚を取り戻す。


……こんなもんか。


ベルダーとの模倣戦とは違い、これは回避ではなく防御。「その一撃が絶対に避ける事が出来ない」を前提に訓練しているのだ。


「じゃあ次はセレナ。ユリアよりは加減してやるからちゃん防げよー?」


セレナに向き直り、剣を頭上へと持ち上げる。


「むむむむむむ無理っ!   あんなの見た後にやれとか言われても出来っこない!」


「はっはっは、問答無用。いくぞー!」


「待って、心の準備が必要なの!   待てって言ってるでしょうが!?」


この瞬間、セレナは気付いた。






この男、一昨日の事を根に持ってるわね。と。








◆◆◆


同時刻、帝都内のとある小道にて。


『……では作戦通りに今日の作戦を任せる』


帝都で最近普及している『魔接機リンカー』というものは大変便利だ。城壁外にいる仲間とも、こうして容易に連絡が取れる。


「そっちの首尾はどうだ?」


『成功だ。彼らとの商談には成功。予定通りに事が進めば、当日には作戦を開始出来る』


そうか、と魔接機を使うフードを目深に被った男が言う。


『第二皇子に出くわしたのは偶然だったが、これで我々の存在は帝都に大きく知れるだろう』


「そうすれば俺達が帝都内ここにいるという可能性が薄くなり、作戦成功の確率が高くなる、と」


だが、とフード男は言う。


「例の帝国騎士はどうする?   俺達の作戦には気付いていた。もしかしたら増援を呼んでいるという可能性も……」


『それについては心配ない。彼女を守護する理由が皇帝には無いのだからな。むしろその帝国騎士が彼女を守護しているのが問題だが……まあ四人がかりならば、敗北する事もあるまい』


「ふっ、それもそうか」


自分達は専門ではないとはいえ、魔術を少しはかじっている身だ。特に対人用の魔術は多様性がある。そんな人物が四人もいれば、帝国騎士とはいえ太刀打ち出来まい。


よし、と自身を鼓舞すると、






「それでは予定通りに今晩。セレナ=フローラ・オーディオルムの奪取を実行する」








◆◆◆


「ふぅ……」


同日の晩。あれから夕方までアランの剣術指南を受けたセレナは、夕食前に湯浴みをしながら自分の弱さを思い知っていた。


ユリアは周りから「天才」と謳われた少女で、自身もそうだとばかり思っていた。


けど違った。彼女は彼女なりに汗血を流すような努力の末、いまのような実力を手にしているのだ。


なら自分はどうなのだろう。アランに帝国騎士になると大言壮語な事を言って、実際はこのざまだ。本当に恥ずかしい。


……けど。


アランは滅茶苦茶だが、あの腕は確かに本物だと思う。学院生が振る剣とは違い、重く疾い一撃はエリーカの言っていた通り戦場で培った物としか思えない。


そんな彼と初めて剣を交わって、自分に多くの改善点を与えてくれた。例えば魔力による身体強化の際、基盤となる身体能力が低いと強化の効率が悪くなる事を知った。それゆえ明日からは身体能力を物理的に強化することとなるだろう。


「なーんか、明日からシビアになりそ……」


別に過酷な訓練が苦手というわけではない。過去に幾度も経験した挫折に比べれば、それしきの事は辛さにも感じない。


……けど。


こんな事をしていて良いのだろうか。私に届いたあの手紙・・・・が真実だとして、こんな場所で悠々としていて大丈夫なのだろうか。


もし手紙の相手が白昼堂々と迫り来るなら、アランが対処するだろう。


だが今はどうだ。もしこの場に彼らが現れて、私の首を裂いて亡霊のように逃げ去ってしまえば……。


「まあ、どうせ考えても無意味な事でしょうけど」


百メートルもないすぐ近くにアランがいる。彼ほどこの場で敵意に敏感な人物はいない。屋敷内に侵入したとなれば即刻、対処するだろう。


さて、と私は湯船から身を上げ、綿製のタオルに身を包む。貴族や皇族のように侍女にこんな事をさせるのが習わしのようだけど、私は余りそのような事は好きではない。


自分の事は自分でやる。それが一番だ。


それに今日はユリアが屋敷に泊まるのだという。格好悪いところは見せたくない。


と、次の瞬間ーーーー私の視界は暗転した。





「けっ、こんなに簡単に成功したじゃねぇか。心配して損したぜ」


「喋るなディディス。早くこの場からとんずらするぞ」


「へーい、了解」


すると二人はローブを身に纏う。


このローブには認識阻害用の魔術方陣が刻印されており、接触でもしない限り気づかれる事は滅多に無い代物だ。このような人攫いに関する使用は無類の強さを誇る。


「それにしても甘い警備だ。これなら屋敷にいる全員まとめて殺せるんじゃないか?   いや、むしろ殺したいね!」


下卑た笑みを浮かべたディディスは懐からククリナイフを取り出す。


「やめろディディス。無駄に情報を残すな。後々が動きにくくなるだけだ」


「……ちぇ、つまんねぇの」


「そう悲観になるな。来月にはお前の大好きな殺戮劇が、好きなだけ見られるようになるさ」


「ひひひっ、そうだったな。なら今日は我慢しようっと!」


納得するとディディスは捕縛対象であるセレナ=フローラ・オーディオルムを肩に担ぎ、ローブに魔力を通して認識阻害を発動した。間接的に触れるセレナも阻害の対象にはなるゆえ、このまま屋敷の外へ向かっても誰にも気づかれない。


「よし、行くぞ」


「らじゃ」


そう言って二人は浴室から駆け出した。


今回の作戦は至ってシンプル。認識阻害のローブを着た二人が屋敷に侵入し、対象を捕獲。残り二人が退路と逃げ道を確保する。


もし何かしらのハプニングがあって見つかったとしても、四人の中で最も騎士との白兵戦に特化したディディスがいる。


……これで作戦は成功だ。


屋敷入り口の扉を静かに開き、まず最初に対象を担いだディディスが外に出て、次に自分が音を立てずに扉を閉める。


あとは屋敷の庭を出て城壁へと向かい、指定の隠し通路から帝都外へと出るだけ。


「これで作戦はほぼ成功だが、まだ気は抜くなよ」


「へいへい、分かってるっての」


ディディスは勝利に酔いしれたような笑みを浮かべながら踵を返して、門扉を目指す。


だが刹那、


「ガゴパァッ!?」


一本の槍が、ディディスの胴体を貫いた。





扉からその影が現れると同時に、アランは詠唱を始めた。


「《影に住まいし山守の女神、其は起源の言葉を操りし者、一撃必殺の真槍よ、我が宿敵を穿て》」


風属性魔術【ゲイ・ボルグ】を発動。圧縮した空気の槍がアランの右手に生まれ、それをーー


「誰か知らんがくたばれぇいッ!!」


ぶん投げた。魔力による身体能力が合わさり、槍は影を残して恐るべき速さで手のひらから射出されると、見事に影の一つを貫く。影は力なくその場に倒れる。


……さて、もう一つはどうするか。


さすが皇族を誘拐するだけあってか、たった一度の攻撃でアランの存在に気づいている。だが向こうから反撃をしてこない。


……だったら。


「《雷の精よ、汝の力を以て、邪なる敵を討つ、悪人たるその数はハンドレータ》」


躊躇いを見せずにアランは【五属の矢】を放った。狙いはもう一つの影。おそらく倒れている奴のそばにいるのはセレナだろうから、出来るだけ近づけさせないように射線を限定。雷矢らいしの雨が影を襲う。


「な、何者だ!」


そこでようやく影は声を奮い出した。


「それはこっちの台詞だ。何勝手に人様の屋敷に不法侵入して家主攫ってんの?」


アランは屋根上から飛び降り、セレナの元へと近づく。どうやら睡眠薬を食らったようで、静かに寝息を立てている。


「なぜお前は俺達のことが見えている……。もしやその目、魔眼なのか……っ!?」


「いやいや、そんな大層なもの持ってるわけが無いじゃないか。ちょっとした仕掛けに決まってんじゃん」


まあ内容は教えないけど、とアランは冷めた目でフード男を見つめる。


……『見えている』って事は認識阻害魔術の刻印型魔具を持ってるってことか。


その程度なら帝都外の闇市で幾らでも売っているが、これほど高性能な物となるとそう多くはない。


なんにせよ、皇族を攫おうと試みた時点でそれなりの実力の持ち主なのだろう。


「くっ……仕方がない。ドバート、キエルダ!   三人でこいつを始末する。出て来い!」


だがフード男の合図は虚しく、反応する者は誰もいなかった。


「ドバート、キエルダ?   どうした、早く出て来い!」


再び叫ぶも反応は無かった。それもそのはず。


「お前ら、実際の暗殺には不慣れ過ぎるぞ。敵意と悪意が剥き出しすぎて、逆に場所を報せてるようなもんだ」


「ぐ……っ!」


既に隠れていた二人も気絶させて、魔力封印の呪符を貼り付けて縄で縛ってある。ここに来ることはまずない。


「だったら……っ!」


男は手の平をアランへと向け、


「《硝子を砕く鋭き剣よ、蛇の如く隙間を這い、牙を喰い立て心を砕け》ッ!」


精神干渉系魔術【マインドキル】を発動したーーーーーはずだった。


「なにも……起きない?」


【マインドキル】は対象の精神を一時的に崩壊させ、身動き不能な状態に陥れる魔術だ。


だがアランは何事も無かったかのようにその場に立っている。


「くそッ!」


フード男は再び詠唱するも結果は変わらない。


「どうなってやがるんだッ!?」


魔力が封印された気配はない。身体強化は今も出来ている。だがなぜ魔術が発動しない。一体何が……。フード男がアランから今の状況へと意識を逸らしたその時。


「気を抜くなよ」


「ッ!?」


一瞬で距離を詰められたフード男は腕で蹴りを防ぐも勢いは止まらず、三度ほど地面に叩きつけられながら庭を転がり、気絶した。


「ちなみにこの魔術が使えない原因は【魔術殺しの結界】っていう、知り合いのエロボディの熟女が考えた結界魔術な。……ま、聞こえてないと思うけど」


そうとだけ言うと、アランはセレナに向き直り、精神干渉系の魔術を施して意識を引っ張り出した。


「んぅ……ここ、は……?」


寝ぼけ眼を見開くようにセレナがゆっくりと意識を覚醒させていく。


「よ。大丈夫だったか?」


「あ、アラン……?   あれ私、いったい、なにが……………」


そこでセレナの動きがフリーズする。


思い返してほしい。セレナは浴室で捕まり、身を覆うのはタオル一枚。いかに未熟な肢体とはいえ、女子が男性に肌を喜んで見せるだろうか。


「あ、アンタってヤツは……」


しかも浴室で視界が暗転して、目が覚めた時にはアランがいた。この場合事件の犯人を普通は誰だと思うだろうか。無論、アランである。


「え……俺、何かしたっけ?」


だが事を理解出来ないアランは優しくセレナを抱きかかえる。


だがセレナは、


……犯されるッ!?


「いやぁああああああああーーッ!?」


刹那、恐るべき魔力量の魔術が、アランへと至近距離で直撃した。





その時、夜道を巡回していた騎士が夜空に舞い上がる、焦げた謎の物体を見上げていた。

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