英雄殺しの魔術騎士
第1話「金髪美少女は皇女様です」
リカルドとの一件からしばらく。
「結局、来てしまった……」
アランが立つのは、オルフェリア帝国の帝都リーバスにある居住区。その中のとある小さな屋敷の前だった。
石の上に粘性の強い石灰を塗り、大陸特有の四季に対応した造りの壁には木を冊子にした窓が南向きに設えられており、もう一軒ほど家が建ってしまいそうな広々とした庭には、端正に刈られた芝生が青々としている。
そして煉瓦色の鋭角な屋根は、ここら一帯の居住区の全ての民家で揃えられており、まるで一つの芸術のような完成度を醸し出していた。
金持ちのやる事は理解が出来ない、虚ろな目でそんな事を思ったアランであった。
「それにしても……」
自分の格好に目を向ける。
今着ている服装は帝国騎士を示す藍色のコートーー通称『騎士服』に、白のシャツと黒のスラックス、そして黒のネクタイ。腰には名も知らない真剣を提げていた。
これら全て、リカルドが用意した物だ。「この格好の方が、怪しまれないだろう?」という事でいざ着てみると、嫌でも目立つ顔立ちなのに、それが騎士服でいっそう目立っている気がする。
……それにしても、少し変ではないだろうか?
騎士服は帝国の騎士、魔術師、そして魔術騎士に正式に認可された者のみが着用を許される代物だ。
それを一般市民であるアランが着る事は、帝国騎士(帝国の騎士の総称)の名誉を汚すと同時に、詐欺罪などの疑いを被せられかねない。
帝国騎士のトップに君臨するリカルドならこれしきの常識を覚えていないはずがなく、詰まる所これは「騎士服を着ていないと色々とマズいから着せられた」という考えが見事に当てはまってしまう。
……ま、別に良いけどさ。
もし捕まるような事があれば、リカルドに弁護を頼むとしよう。弁護しないと言うなら、加担していた疑惑をふっかけて、巻き添えにでもしてやろう。
親子関係?   なにそれ美味しいの?
そんなこんなでアランは一通りの荷物を手に取って、屋敷の玄関へと足を進めた。サクサクという小気味の良い音を奏でながら芝生を歩き、古風感じる扉の前で立ち止まると、真鍮で出来た獅子のドアノッカーを掴んで二度扉を叩く。
ゴンゴンという乾いた音が鼓膜に届き、落ち着くために一呼吸するがーー反応が無い。
「……留守なのか?」
いや、それはあり得ない。そう瞬時に判断した。
現在の時刻は午前七時を少し過ぎたところだ。これほど早朝から使用人の全員を連れて出かけるなど、夜逃げでもしない限りあり得ない話だ。
ましてやリカルドから見せてもらった人物が本当であるならば、そんな事は絶対にしない。というかしてはならない。
もう一度扉を叩く。だが先ほどと同じように反応は無かった。数十秒待てども、扉の向こうから人の気配が近づいてくる様子は無い。沈黙だけがアランに訪れる。
「さて、どうしたものか……」
リカルドの頼みを聞いてから翌日。意を決して馬車に揺られながら帝都に来て、雇用先の家を訪ねてみたら、朝早くから誰一人として姿を見せないという異常事態。
何か事件か、他の要因か。まともに働く気がある人間ならば、ここで必死に考えるのが常識だ。だが、押し付けられるようにして依頼を引き受けたアランは考えること無く、
「帰るか」
荷物を持って踵を返した。一切の思考を必要とせずに決断したその顔は、呆れるくらい笑顔に満ちている。その時だった。
「ーーあら、おはようございます」
唐突に、アランの背後で声がした。凛としてなおかつ安らぎを感じるような声音は、屋敷の敷地内に立つ自分に向けられている事は一目瞭然だった。
「お、おはようございます……?」
挙動不審に振り返ると、そこには一人の女性がいた。
歳は二十代後半だろう。身を黒のメイド服に包み、均整の取れた顔から放たれるその柔和な笑顔は、どれだけ厳格な人物であろうとも、口元を緩ませてしまうのではないか、と思うくらいに美しい。
だがいつの間に現れたのか。扉が開くような音はしなかったし、ましてや気配や存在など、いまの今まで感知することは出来なかった。
まるでアランに気づかれないように、意図的に気配を消していたように。
……いったいこの人は何者だ?
ともかく、彼女が並の人間では無いとアランの直感は訴える。でなければこの女性は存在感の薄い、可哀想な人になってしまう。
ところが女性はアランを警戒すること無く、笑顔のままアランに近づき手に持つ荷物をひょいと奪った。
「アラン=フロラスト様でいらっしゃいますよね?   リカルド様からお話はお伺いしております」
「は……え?   あっ、はい」
認識できていなかった情報を頭に無理やり飲み込み押し込み、自分の置かれている状況を理解する。
小気味の悪い返事だったが、女性はそんな事は気にしないとでも言うように笑顔のまま、
「ようこそお屋敷へ」
そう言うと彼女は腰のあたりにあるポケットから銀製の鍵を取り出し、扉の鍵穴に挿して右に回した。カチリという音とともに、扉は開閉の自由を得る。
扉は閉まっていたらしい。つまり屋敷の中から出てきたのではなく、外にいたようだ。ますます彼女の存在に疑問を持つが、今は気にしないでも良いだろう。
ではこちらへ、と女性の案内を受けてアランは屋敷に入った。
◆
「ここがアラン様のお部屋になります」
そう言って連れてこられたのは二階のその上。屋根と屋根の合間にある天井裏の三階だった。
五歩も歩けば端から端に歩けそうな部屋には簡素な木製机と椅子、ベッド、クローゼットが一つずつ。南に取り付けられた窓からは、皇帝の住まう城を見ることが出来た。
それを見てアランは一言。
「手入れが行き届いてますね」
「恐れ入ります」
働く事を承諾してからまだ半日ほどしか経っていないはずなのに、部屋の隅々まで徹底された掃除に思わず感嘆しながら、アランは荷物をベッドの脇に置く。
……こんな所で働くのかよ。
ここに至るまでの道中で見た絵画や花を活けていた花瓶などの骨董品は、名のある名匠が作ったのだろう。荘厳な見た目と内から発せられる重厚感のあるオーラからして帝国金貨数千枚、すなわち数百万エルドは下らない。アランが一生食事処で働いた所で返せないような額の代物ばかりだ。
雇用先の名前から予測はついていた。これしきの可能性は承知していた。
だが、感じないように意識を逸らしていた不安が、唐突に姿を現してアランの心を揺らしている。
「ーー心配ございませんよ」
ふと唐突に、そんなアランの胸中を見抜いたかのように女性は話し出す。
「リカルド様が仰っていました。『アイツは年功序列とか社会的地位とか、常人なら遠慮するような立場の人間に対して問答無用で物申す、はっきり言って無謀でアホでクズ人間だ』と」
「酷い言い様ですね!?」
一瞬殺意が湧いてしまうほどに。もしこの場にリカルドがいたならば、間違いなく腰に提げてある剣を鞘から抜き放ち、振り下ろしていただろう。どうせ一撃も当たらない事は明白だが。
だが、それを抑え込む。目の前に美女がいた事から、見栄を張った。
「そしてこうとも仰っていました。『けどまぁ、本当は正義感のある良い奴なんだよ』と」
「クソ親父が……」
常に魔術騎士団長という役職に立つ者として、他者よりもハードワークが強いられる。それゆえ他者などに目を向けていられる余裕など無いのだ。そんなリカルドが珍しく褒めるなんて……
……いや、ちょっと待て。
しかしそこで、アランはリカルドの余りにも格好付けた言動に疑問を感じ、思考を否定へと向ける。
「もしかしてクソ親父の奴、貴女に言い寄ったりとか……してません……よね?」
「………………はい、大丈夫です、よ?」
「今の間と疑問形は何!?   絶対、本当の本当に大丈夫なんですよね!?」
リカルドが女性に優しさを見せるのは二通りの場合がある。一つは単純な親切心だが、もう一つは好感度を上げて求婚まで持って行こうという算段の可能性。
以前から性欲の猛獣だったリカルドは、ミリアという妻を持ち、二十という年が過ぎようとも、なおその(性的な)勢いは衰える気配は無い。
美人な女性を見つければ、そこが戦場かつ敵であろうと妻の前であろうと、餌に飢えた家畜のように追い求める。
そして今までの経験則から鑑みて、アランの前に立つこの女性はリカルドの心のど真ん中を射るような美女。しかも若い。
そしてその美女は笑顔を絶やさず、ただこちらを見ている。正真正銘何もなかったようだ。
結論を言おう。
……クソ親父め。本当は、この人の前で格好付けたかっただけだな。
今度飯を作るときに、毒(麻痺系)でもこっそりと盛ってやろう。今度こそ正確無比な殺意を抱きながら、アランはベッドから腰を上げた。
そして女性へと近づき、
「改めましてアラン=フロラストです。しばらくの間、世話になります」
「ユーフォリア=エグレンティアと申します。気軽にリアとお呼び下さい。敬語もご不要です」
「……そうか?   なら俺の事もアランって呼んでくれ。堅っ苦しいのは苦手なんだ」
「ふふふ、そうですか。では、アランさんとお呼びしますね」
優しく微笑む彼女ーーユーフォリアと握手を交わすと、アランは彼女に連れられて二階へと下りた。
「……そういえば、リア以外に使用人を見かけないんだが……」
二階へと下りている途中、アランが質問を投げかけた。朝なのだから屋敷の清掃くらいしていても可笑しくはないのに、屋敷内には人の気配が余りにも薄過ぎる。
「先に伝えず申し訳ありません。この屋敷の使用人は、私を含めて四人しかいないのです」
「四人……?」
それは庶民的なアランから聞いても、明らかに少な過ぎる人数だった。帝都から離れた村々に住む貴族の分家でも、使用人を二桁は雇っている。
どうして、と尋ねようとしたところでユーフォリアが答え辛そうな顔をしていたので、喉元まで出かけていた言葉を飲み込む。
事情がある。その顔で事を察した。
その後は口を閉ざして彼女の背中を追いかける。階段を下りて東側の通路を歩き、アランの部屋から見て一番奥の部屋の前でユーフォリアは足を止めた。
そして扉を優しくノックすると、
「お嬢様。アラン様がいらっしゃいました」
扉の向こう、部屋の主へと声をかける。それから五秒ほどした後だろうか。
『どうぞ』
と入室許可の返事が返ってきた。
失礼します、と躊躇うことなく扉を開け、中に入るユーフォリアに続いてアランも入る。
その中は、さっきまでいた世界とはまるで別物のように輝いていた。
アランの部屋が六つはありそうな広々とした部屋には純白の天蓋付きベッドや、アランが寝転べそうなほど幅のある書斎机。それと色々と難しそうな本が並べられた巨大な本棚などが、広く間隔を開けて置かれていた。
天井に下がる大きなシャンデリアには細かな宝石が星の数のように付けられ、絵の飾られている額縁も疑いようのない純金だ。穏やかな草色の壁紙と対照的で、その存在をいっそうに際立たせている。
この部屋を造る為だけに、帝国金貨を数万枚は要するだろう。圧倒的な価値観に、流石のアランも唖然としてしまう。
そんな異世界にでも移動したかのような錯覚に苛まれる中、
「お嬢様。こちらがアラン=フロラスト様です」
ユーフォリアは書斎机の椅子に腰をかける少女に話しかけた。
そして再び、唖然とする。
その髪はまるで純金を溶かしたかのような、鮮やかで艶やかな黄金色の長髪。団栗のような大きな双眸は蒼色に輝き、見る者を等しく甘美へと誘う。
ユーフォリアも違える事の無い美人だが、彼女はそれすらも霞ませてしまうほど美しい。
そう、例えるなら人々が崇拝する女神そのものが、地上に舞い降りたかのような圧倒的存在感。常軌を逸した豪奢な造りの部屋が、むしろ当たり前にさえ思えてしまう。
「そう、貴方が……」
少女は椅子から腰を上げ、アランの元へと歩んで来る。その際に揺れる髪が陽光を浴びて、朝日を浴びる麦のように輝いていた。
年相応の肉付きは将来の可能性を想起させ、少女が浮かべる挑発染みた微笑みすら、アランの心を鷲掴みにするかのごとく、鼓動を早まらせる。
少女はアランの手が届くギリギリの所で立ち止まると、舐め回すようにアランを観察し始めた。
「思ったよりも、普通の人ね」
普通の人。そう言われてどこか安心する反面、苛立ちを感じる。
「そりゃどうも」
だが心は思ったよりも平静だ。リカルドと毎日の様に口喧嘩(後に殴り合い)をしていた所為か、はたまた義理の姉妹がいた所為か、それは分からない。
だが何にせよ、夢物語から出てきた様な容姿を持つ少女を目の当たりにしても、なお理性を失うことは無かった。
……いや、実際は結構ギリギリだな。
常人ならば、少女の圧倒的な美しさに当てられて理性を失っているだろうが……どうにもアランはそれを起こさない程度に気になる事が出来てしまったようだ。
「一つ、聞いてもいいか?」
固唾を飲んでアランは尋ねる。
「ええ。何かしら?」
「俺は貴族じゃないし、生まれてこの方豪勢な生活をした事なんて一度も無いから、お前の私生活についてとやかく口を挟むなんて事は、野暮だって重々承知だ」
「……遠回しな言い方ですね。はっきり言ったらどうですか?」
はっきり言って良いのだろうか。だがここで言わなければこれを毎朝見る羽目になるかもしれない。
よし、と意を決してアランは少女の蒼色の目を見据える。
そして言った。
「どうして寝間着のままなんだ?」
疑問を投げかけると共に、その沈黙は訪れる。少女は首を傾げてゆっくりと下へと、その整った顔を向けると、
「……………………………ぁ」
その時、ようやく事の重大さに気づいたのか、少女の表情が凍てついた。
再び沈黙が部屋を支配する。窓の外で囀る鳥の声が、今なら鮮明に聞こえそうだ。
「あ、あああああああ……」
十秒ほどして少女の理性が元に戻る。それと同時に耳の先まで真っ赤に顔を染めた。
やはり、聞くのは野暮だったのだろうか?   などとアランが頬を掻きながら考えていると、
「……………へ」
「『へ』?」
どうしてだろうか、この時アランの生物的直感は「全力で逃げろ」と訴えていた。そして最後に「さもなくば死ぬぞ」とも。
腕をワナワナと震わせて、下を俯向く少女に顔を近づける。刹那、
「変っ態ぃッ!!」
「ふごばはァああッ!?」
掌に魔力を宿した、壁すら打ち砕くような強烈なビンタがアランの頬に直撃した。
朦朧とする意識とは裏腹に、身体は風車のように回転し続け、平衡感覚さえ忘れかけたその時、ベランダへと通じる窓にぶち当たり、ガラス片と共に体は二階から外へと放り出される。
回転が止まると、今度は途端に重力を思い出したのか体は垂直に落下し始め、次の瞬間にはハンマーで殴られたような感覚と共に地面に叩きつけられた。
「がはぁッ!?」
全身の骨が軋み、悲鳴を上げる。最近ではリカルドとの喧嘩でも、これほど苛酷なダメージは負ってはいなかった。
落下によるショックのおかげか、意識に鮮明さを取り戻す中、アランは屋敷内に耳を澄ませる。
『ーーお嬢様、何をしたのか分かっていますか!?』
『仕方が無いじゃない!   朝から学院の書類整理とかで色々と忙しかったから、着替えていなかっただけなの!』
『いえ、私が言いたいのはそこではなく……』
『……へ?』
どうやら少女に帝国騎士を殴るという事に関する罪悪感は一切無いらしい。
「それもそうか……」
アランはコートの内ポケットに潜めていた用紙の束を取り出す。
グシャグシャになったそれは先日リカルドに貰った少女の詳細。生年月日、身長体重、血液型、スリーサイズにまで至る情報の中、アランが唯一目にした事があったのは少女の名。
『セレナ=フローラ・オーディオルム』
この名は帝都に住む誰もが知り得ている。五年前の帝都内乱において旧皇帝が討たれ、臣民と帝国の政治機関『六貴会』にて新たに選ばれた皇帝、ヴィルガ=ヘクトヴェルム・オーディオルム。
その皇帝の娘なのだから。
「結局、来てしまった……」
アランが立つのは、オルフェリア帝国の帝都リーバスにある居住区。その中のとある小さな屋敷の前だった。
石の上に粘性の強い石灰を塗り、大陸特有の四季に対応した造りの壁には木を冊子にした窓が南向きに設えられており、もう一軒ほど家が建ってしまいそうな広々とした庭には、端正に刈られた芝生が青々としている。
そして煉瓦色の鋭角な屋根は、ここら一帯の居住区の全ての民家で揃えられており、まるで一つの芸術のような完成度を醸し出していた。
金持ちのやる事は理解が出来ない、虚ろな目でそんな事を思ったアランであった。
「それにしても……」
自分の格好に目を向ける。
今着ている服装は帝国騎士を示す藍色のコートーー通称『騎士服』に、白のシャツと黒のスラックス、そして黒のネクタイ。腰には名も知らない真剣を提げていた。
これら全て、リカルドが用意した物だ。「この格好の方が、怪しまれないだろう?」という事でいざ着てみると、嫌でも目立つ顔立ちなのに、それが騎士服でいっそう目立っている気がする。
……それにしても、少し変ではないだろうか?
騎士服は帝国の騎士、魔術師、そして魔術騎士に正式に認可された者のみが着用を許される代物だ。
それを一般市民であるアランが着る事は、帝国騎士(帝国の騎士の総称)の名誉を汚すと同時に、詐欺罪などの疑いを被せられかねない。
帝国騎士のトップに君臨するリカルドならこれしきの常識を覚えていないはずがなく、詰まる所これは「騎士服を着ていないと色々とマズいから着せられた」という考えが見事に当てはまってしまう。
……ま、別に良いけどさ。
もし捕まるような事があれば、リカルドに弁護を頼むとしよう。弁護しないと言うなら、加担していた疑惑をふっかけて、巻き添えにでもしてやろう。
親子関係?   なにそれ美味しいの?
そんなこんなでアランは一通りの荷物を手に取って、屋敷の玄関へと足を進めた。サクサクという小気味の良い音を奏でながら芝生を歩き、古風感じる扉の前で立ち止まると、真鍮で出来た獅子のドアノッカーを掴んで二度扉を叩く。
ゴンゴンという乾いた音が鼓膜に届き、落ち着くために一呼吸するがーー反応が無い。
「……留守なのか?」
いや、それはあり得ない。そう瞬時に判断した。
現在の時刻は午前七時を少し過ぎたところだ。これほど早朝から使用人の全員を連れて出かけるなど、夜逃げでもしない限りあり得ない話だ。
ましてやリカルドから見せてもらった人物が本当であるならば、そんな事は絶対にしない。というかしてはならない。
もう一度扉を叩く。だが先ほどと同じように反応は無かった。数十秒待てども、扉の向こうから人の気配が近づいてくる様子は無い。沈黙だけがアランに訪れる。
「さて、どうしたものか……」
リカルドの頼みを聞いてから翌日。意を決して馬車に揺られながら帝都に来て、雇用先の家を訪ねてみたら、朝早くから誰一人として姿を見せないという異常事態。
何か事件か、他の要因か。まともに働く気がある人間ならば、ここで必死に考えるのが常識だ。だが、押し付けられるようにして依頼を引き受けたアランは考えること無く、
「帰るか」
荷物を持って踵を返した。一切の思考を必要とせずに決断したその顔は、呆れるくらい笑顔に満ちている。その時だった。
「ーーあら、おはようございます」
唐突に、アランの背後で声がした。凛としてなおかつ安らぎを感じるような声音は、屋敷の敷地内に立つ自分に向けられている事は一目瞭然だった。
「お、おはようございます……?」
挙動不審に振り返ると、そこには一人の女性がいた。
歳は二十代後半だろう。身を黒のメイド服に包み、均整の取れた顔から放たれるその柔和な笑顔は、どれだけ厳格な人物であろうとも、口元を緩ませてしまうのではないか、と思うくらいに美しい。
だがいつの間に現れたのか。扉が開くような音はしなかったし、ましてや気配や存在など、いまの今まで感知することは出来なかった。
まるでアランに気づかれないように、意図的に気配を消していたように。
……いったいこの人は何者だ?
ともかく、彼女が並の人間では無いとアランの直感は訴える。でなければこの女性は存在感の薄い、可哀想な人になってしまう。
ところが女性はアランを警戒すること無く、笑顔のままアランに近づき手に持つ荷物をひょいと奪った。
「アラン=フロラスト様でいらっしゃいますよね?   リカルド様からお話はお伺いしております」
「は……え?   あっ、はい」
認識できていなかった情報を頭に無理やり飲み込み押し込み、自分の置かれている状況を理解する。
小気味の悪い返事だったが、女性はそんな事は気にしないとでも言うように笑顔のまま、
「ようこそお屋敷へ」
そう言うと彼女は腰のあたりにあるポケットから銀製の鍵を取り出し、扉の鍵穴に挿して右に回した。カチリという音とともに、扉は開閉の自由を得る。
扉は閉まっていたらしい。つまり屋敷の中から出てきたのではなく、外にいたようだ。ますます彼女の存在に疑問を持つが、今は気にしないでも良いだろう。
ではこちらへ、と女性の案内を受けてアランは屋敷に入った。
◆
「ここがアラン様のお部屋になります」
そう言って連れてこられたのは二階のその上。屋根と屋根の合間にある天井裏の三階だった。
五歩も歩けば端から端に歩けそうな部屋には簡素な木製机と椅子、ベッド、クローゼットが一つずつ。南に取り付けられた窓からは、皇帝の住まう城を見ることが出来た。
それを見てアランは一言。
「手入れが行き届いてますね」
「恐れ入ります」
働く事を承諾してからまだ半日ほどしか経っていないはずなのに、部屋の隅々まで徹底された掃除に思わず感嘆しながら、アランは荷物をベッドの脇に置く。
……こんな所で働くのかよ。
ここに至るまでの道中で見た絵画や花を活けていた花瓶などの骨董品は、名のある名匠が作ったのだろう。荘厳な見た目と内から発せられる重厚感のあるオーラからして帝国金貨数千枚、すなわち数百万エルドは下らない。アランが一生食事処で働いた所で返せないような額の代物ばかりだ。
雇用先の名前から予測はついていた。これしきの可能性は承知していた。
だが、感じないように意識を逸らしていた不安が、唐突に姿を現してアランの心を揺らしている。
「ーー心配ございませんよ」
ふと唐突に、そんなアランの胸中を見抜いたかのように女性は話し出す。
「リカルド様が仰っていました。『アイツは年功序列とか社会的地位とか、常人なら遠慮するような立場の人間に対して問答無用で物申す、はっきり言って無謀でアホでクズ人間だ』と」
「酷い言い様ですね!?」
一瞬殺意が湧いてしまうほどに。もしこの場にリカルドがいたならば、間違いなく腰に提げてある剣を鞘から抜き放ち、振り下ろしていただろう。どうせ一撃も当たらない事は明白だが。
だが、それを抑え込む。目の前に美女がいた事から、見栄を張った。
「そしてこうとも仰っていました。『けどまぁ、本当は正義感のある良い奴なんだよ』と」
「クソ親父が……」
常に魔術騎士団長という役職に立つ者として、他者よりもハードワークが強いられる。それゆえ他者などに目を向けていられる余裕など無いのだ。そんなリカルドが珍しく褒めるなんて……
……いや、ちょっと待て。
しかしそこで、アランはリカルドの余りにも格好付けた言動に疑問を感じ、思考を否定へと向ける。
「もしかしてクソ親父の奴、貴女に言い寄ったりとか……してません……よね?」
「………………はい、大丈夫です、よ?」
「今の間と疑問形は何!?   絶対、本当の本当に大丈夫なんですよね!?」
リカルドが女性に優しさを見せるのは二通りの場合がある。一つは単純な親切心だが、もう一つは好感度を上げて求婚まで持って行こうという算段の可能性。
以前から性欲の猛獣だったリカルドは、ミリアという妻を持ち、二十という年が過ぎようとも、なおその(性的な)勢いは衰える気配は無い。
美人な女性を見つければ、そこが戦場かつ敵であろうと妻の前であろうと、餌に飢えた家畜のように追い求める。
そして今までの経験則から鑑みて、アランの前に立つこの女性はリカルドの心のど真ん中を射るような美女。しかも若い。
そしてその美女は笑顔を絶やさず、ただこちらを見ている。正真正銘何もなかったようだ。
結論を言おう。
……クソ親父め。本当は、この人の前で格好付けたかっただけだな。
今度飯を作るときに、毒(麻痺系)でもこっそりと盛ってやろう。今度こそ正確無比な殺意を抱きながら、アランはベッドから腰を上げた。
そして女性へと近づき、
「改めましてアラン=フロラストです。しばらくの間、世話になります」
「ユーフォリア=エグレンティアと申します。気軽にリアとお呼び下さい。敬語もご不要です」
「……そうか?   なら俺の事もアランって呼んでくれ。堅っ苦しいのは苦手なんだ」
「ふふふ、そうですか。では、アランさんとお呼びしますね」
優しく微笑む彼女ーーユーフォリアと握手を交わすと、アランは彼女に連れられて二階へと下りた。
「……そういえば、リア以外に使用人を見かけないんだが……」
二階へと下りている途中、アランが質問を投げかけた。朝なのだから屋敷の清掃くらいしていても可笑しくはないのに、屋敷内には人の気配が余りにも薄過ぎる。
「先に伝えず申し訳ありません。この屋敷の使用人は、私を含めて四人しかいないのです」
「四人……?」
それは庶民的なアランから聞いても、明らかに少な過ぎる人数だった。帝都から離れた村々に住む貴族の分家でも、使用人を二桁は雇っている。
どうして、と尋ねようとしたところでユーフォリアが答え辛そうな顔をしていたので、喉元まで出かけていた言葉を飲み込む。
事情がある。その顔で事を察した。
その後は口を閉ざして彼女の背中を追いかける。階段を下りて東側の通路を歩き、アランの部屋から見て一番奥の部屋の前でユーフォリアは足を止めた。
そして扉を優しくノックすると、
「お嬢様。アラン様がいらっしゃいました」
扉の向こう、部屋の主へと声をかける。それから五秒ほどした後だろうか。
『どうぞ』
と入室許可の返事が返ってきた。
失礼します、と躊躇うことなく扉を開け、中に入るユーフォリアに続いてアランも入る。
その中は、さっきまでいた世界とはまるで別物のように輝いていた。
アランの部屋が六つはありそうな広々とした部屋には純白の天蓋付きベッドや、アランが寝転べそうなほど幅のある書斎机。それと色々と難しそうな本が並べられた巨大な本棚などが、広く間隔を開けて置かれていた。
天井に下がる大きなシャンデリアには細かな宝石が星の数のように付けられ、絵の飾られている額縁も疑いようのない純金だ。穏やかな草色の壁紙と対照的で、その存在をいっそうに際立たせている。
この部屋を造る為だけに、帝国金貨を数万枚は要するだろう。圧倒的な価値観に、流石のアランも唖然としてしまう。
そんな異世界にでも移動したかのような錯覚に苛まれる中、
「お嬢様。こちらがアラン=フロラスト様です」
ユーフォリアは書斎机の椅子に腰をかける少女に話しかけた。
そして再び、唖然とする。
その髪はまるで純金を溶かしたかのような、鮮やかで艶やかな黄金色の長髪。団栗のような大きな双眸は蒼色に輝き、見る者を等しく甘美へと誘う。
ユーフォリアも違える事の無い美人だが、彼女はそれすらも霞ませてしまうほど美しい。
そう、例えるなら人々が崇拝する女神そのものが、地上に舞い降りたかのような圧倒的存在感。常軌を逸した豪奢な造りの部屋が、むしろ当たり前にさえ思えてしまう。
「そう、貴方が……」
少女は椅子から腰を上げ、アランの元へと歩んで来る。その際に揺れる髪が陽光を浴びて、朝日を浴びる麦のように輝いていた。
年相応の肉付きは将来の可能性を想起させ、少女が浮かべる挑発染みた微笑みすら、アランの心を鷲掴みにするかのごとく、鼓動を早まらせる。
少女はアランの手が届くギリギリの所で立ち止まると、舐め回すようにアランを観察し始めた。
「思ったよりも、普通の人ね」
普通の人。そう言われてどこか安心する反面、苛立ちを感じる。
「そりゃどうも」
だが心は思ったよりも平静だ。リカルドと毎日の様に口喧嘩(後に殴り合い)をしていた所為か、はたまた義理の姉妹がいた所為か、それは分からない。
だが何にせよ、夢物語から出てきた様な容姿を持つ少女を目の当たりにしても、なお理性を失うことは無かった。
……いや、実際は結構ギリギリだな。
常人ならば、少女の圧倒的な美しさに当てられて理性を失っているだろうが……どうにもアランはそれを起こさない程度に気になる事が出来てしまったようだ。
「一つ、聞いてもいいか?」
固唾を飲んでアランは尋ねる。
「ええ。何かしら?」
「俺は貴族じゃないし、生まれてこの方豪勢な生活をした事なんて一度も無いから、お前の私生活についてとやかく口を挟むなんて事は、野暮だって重々承知だ」
「……遠回しな言い方ですね。はっきり言ったらどうですか?」
はっきり言って良いのだろうか。だがここで言わなければこれを毎朝見る羽目になるかもしれない。
よし、と意を決してアランは少女の蒼色の目を見据える。
そして言った。
「どうして寝間着のままなんだ?」
疑問を投げかけると共に、その沈黙は訪れる。少女は首を傾げてゆっくりと下へと、その整った顔を向けると、
「……………………………ぁ」
その時、ようやく事の重大さに気づいたのか、少女の表情が凍てついた。
再び沈黙が部屋を支配する。窓の外で囀る鳥の声が、今なら鮮明に聞こえそうだ。
「あ、あああああああ……」
十秒ほどして少女の理性が元に戻る。それと同時に耳の先まで真っ赤に顔を染めた。
やはり、聞くのは野暮だったのだろうか?   などとアランが頬を掻きながら考えていると、
「……………へ」
「『へ』?」
どうしてだろうか、この時アランの生物的直感は「全力で逃げろ」と訴えていた。そして最後に「さもなくば死ぬぞ」とも。
腕をワナワナと震わせて、下を俯向く少女に顔を近づける。刹那、
「変っ態ぃッ!!」
「ふごばはァああッ!?」
掌に魔力を宿した、壁すら打ち砕くような強烈なビンタがアランの頬に直撃した。
朦朧とする意識とは裏腹に、身体は風車のように回転し続け、平衡感覚さえ忘れかけたその時、ベランダへと通じる窓にぶち当たり、ガラス片と共に体は二階から外へと放り出される。
回転が止まると、今度は途端に重力を思い出したのか体は垂直に落下し始め、次の瞬間にはハンマーで殴られたような感覚と共に地面に叩きつけられた。
「がはぁッ!?」
全身の骨が軋み、悲鳴を上げる。最近ではリカルドとの喧嘩でも、これほど苛酷なダメージは負ってはいなかった。
落下によるショックのおかげか、意識に鮮明さを取り戻す中、アランは屋敷内に耳を澄ませる。
『ーーお嬢様、何をしたのか分かっていますか!?』
『仕方が無いじゃない!   朝から学院の書類整理とかで色々と忙しかったから、着替えていなかっただけなの!』
『いえ、私が言いたいのはそこではなく……』
『……へ?』
どうやら少女に帝国騎士を殴るという事に関する罪悪感は一切無いらしい。
「それもそうか……」
アランはコートの内ポケットに潜めていた用紙の束を取り出す。
グシャグシャになったそれは先日リカルドに貰った少女の詳細。生年月日、身長体重、血液型、スリーサイズにまで至る情報の中、アランが唯一目にした事があったのは少女の名。
『セレナ=フローラ・オーディオルム』
この名は帝都に住む誰もが知り得ている。五年前の帝都内乱において旧皇帝が討たれ、臣民と帝国の政治機関『六貴会』にて新たに選ばれた皇帝、ヴィルガ=ヘクトヴェルム・オーディオルム。
その皇帝の娘なのだから。
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