君の瞳の中で~We still live~

ザクロ・ラスト・オデン

記憶

 もし、あの時、ああしていれば。もし、あの時こうしていれば。


 人生というものは後悔がつきもので、必ずしもうまくいかない。


 その後悔の数だけ、分岐点があり、平行世界がある。


 どこかの大学教授がそんな論文を出していた。


 俺にそれはあったのだろうか。今思うとなかったように感じる。


 最初から、世界の理の外に居たのかもしれない。


 いいや、「俺たち」が世界の理から外れていたのか?


 どちらでもいい。俺が歩んできたこの人生は、おそらく覆らない。


 そうやって人は生きていく。間違いや後悔の上に立つ。




────だからこそ思う。俺はこれでよかったのだと。




 後ろで蠢く、もはや人とかけ離れた存在を横目で見たあと。


 自らの人生をゼロに戻すために、少年は屋上から飛び降りた。


 それは、自分自身の罪を贖うため。


 そう、これ以上なにも願わなければ、これ以上誰も苦しまない、そう思っていた……




────それは、ある人にとっての理想。だが、多くの人の絶望。


 もし、存在が生じる矛盾点を打ち消すための「特異点」だったとしたら?


 ならば、自らの存在は何によって肯定される?


 多くの人の災厄を呼ぶその存在を、何かが肯定するのなら……


 それこそが、本当の愛ではないだろうか。






「……と、これが宇宙の出来方なわけです。まぁ、受験でも聞かれることはないでしょう」


 なんだ、ここ。目が覚めると、覚元和仁は授業を受けていた。ぼんやりしか聞こえないが、全く持って面白くなさそうな、化学の話だ。見ると、真面目に制服を着ていて、しっかりとノートも書かれている。
 学校なのか?でも、だが和仁には全く記憶がない。


「あの先生、絶対この前発表された論文に影響されてこの授業やってるよ」
「俺たちには理解できなくてつまんねーんだけどなぁ」


 後ろから、同級生のひそひそとした会話が聞こえた。次第におぼろげな記憶がはっきりしてくる。思い出す始めの部分はいつも決まって、目覚めた時のこと。
 高校1年生の時、屋上から転落する事故に遭い、そこから2年間の昏睡状態だった。この春に目覚め、校長との相談の結果、いくつかの試験を受け、なんとか合格し、特例に本来あるべき3年生として授業を受けている。
 だが、高校1年生の時の記憶は全くもって忘れており、それ以前も曖昧な、完全な記憶喪失である。たまに、意識を失い、先ほどのように記憶が飛ぶこともしばしばあり、病院通いのようなものが続いている。
 だが、それを除いては何不自由ない生活だ。成績も優秀だし、校長の推薦も貰えるだろう。記憶がない、それを除いては何不自由ない生活。
キーンコーンカーンコーン……
 先生の話をぶった切るかのように、チャイムが鳴った。今は4時間目、今日はこれにて帰宅。


「あーあ、やっと終わったぜ。明日から夏休みだな!」
「だなー。でもどうせ受験勉強だろ?」
「あー、俺、推薦入試で行くわ。勉強しない」
「しろよ」


 同級生の他愛もない会話が聞こえてくるが、それは決して、覚元和仁という存在に向けられたものではない。先生の会話も、生徒の会話も、和仁のためには存在しない。
 つまり、これがいわゆる、ぼっち、というやつである。2年も昏睡の上に記憶がなければ、完全に孤独だ。それ以前に、友達がいなかったようだが。
 無論、今更作ろうという気も起こらない。受験に集中し、進学を決めたいところだ。
 しかし、たまに、他学年の人間を見ていると、どこか虚しい気持ちになる。特に、1年生。その虚しさは、一瞬だけ吹き抜ける。何か、忘れてはならないと囁く。
 思い出せないまま、下駄箱の前で、三つ編みの少女とすれ違った。少女は振り返ったが、和仁は、気にすることなく、前へと進んでいった。


「……あ、やっと……見かけることができた。先輩……」


三つ編みの少女の小さな声は、和仁に届くことなどなかった。




 放課後、帰宅準備を終えた和仁は、理科準備室へと向かった。これが日課のようなもので、これ無くしては帰れない。
 扉を開けると、クーラーの冷気がひんやりと伝わる。奥に先生が座っており、パソコンで必死に、なにか文章を書いていた。


大参おおみ先生、今から家に帰ります」
「こういう二人の時は、孝人でいいって言っただろ、和仁かずひと
「まぁ、学校ですし」
「えらいね、覚元かくもとくんは。というべきだね」
「では」


 一言二言、短い会話を交わし、部屋を後にする。そしてそのまま、真っ直ぐに帰宅した。仮だが、今の彼は親である。


 暑く照りつける日差し、場違いな電柱で鳴く蝉、おそらく夕立ちを降らす入道雲。熱を放つアスファルト。
揺らめく陽炎の先、信号が変わった。
 全てが新鮮に思えて、だが特別すごいという感情も、ましてや何も感じない。こんなに無感情な人間だっただろうか。今でもそれはわからない。そもそもこのまさに夏という情景に、人は何か念を抱くだろうか?
 高校のあるここは二上町ふたかみちょう。そこから電車に乗り、隣町の天馬町てんまちょうへと向かう。駅から歩いて10分。小さなアパートの2階。そこが和仁の家ということになっている。
 なっている、というのも、覚元和仁が眠っていた2年間の間に、唯一の家族である母が死に、引き取り手がなかった和仁を、大参孝人おおみたかひとが、せめて大学を卒業するまでは面倒を見る、と引き取ることとなった、ということがある。
 どうしてそれに彼が名乗りを上げたのか、分からないが、聞こうとは思わなかった。何故かそこに、関心はなかった。記憶もない母のことを知って、どうにかなるというのか。
 家の鍵を開けようとすると、開いていた。ドアを開けると、そこには見慣れた人物が座っている。


「邪魔しているよ、和仁くん」
「鍵ぐらいは閉めてください。無用心ですよ」
「すまない。せっかくだし、大参に会おうと思ったのだが、やはり、まだ帰っては来ないのだな」


 白衣に黄色いワイシャツ、黒縁メガネのいかにも教授のようなこの人は、宇宙や異世界、平行世界などのSFの世界を、科学で解明しようとする科学者であり、教授である。名は科学に精通するものなら知らないものはいないと言われる、世津達見せつたつみだ。
 大参孝人の友人のようだが、その本質は謎で、だが、知ろうとは思わない。そこにもまた、意味を感じない。


「今日は病院に行く日だったよな」
「はい、そうですね。でも、その必要はなさそうです」
「では、ここでとっとと、診断を済ませるぞ、和仁くん」


 和仁の行く病院というのは、世津の研究室で、記憶喪失を解明しようとしているのは、世津である。医師免許を持っているかどうかはさておき、とりあえず研究室は病院、世津は先生と、和仁の中ではそうなっている。


「さて、目を閉じてもらえるかな」


 いつものように、座って目を閉じる。しかし、今回は畳の上に正座という形だった。まるで修行のようだが、記憶の治療とはそういうものらしい。


「さぁ、いつものように、自分の中の一番古い記憶を思い出してみるんだ」


 一番古い記憶。それは、見知らぬ少女と一緒に歩いている風景だった。何処を歩いているのか、何処に向かっているのかはわからない。少女も、自分より背が高く、同じ年齢とは思えない。その少女は、たまに和仁にほほ笑みかけながら、一緒に歩いている。


「何が見える」
「自分より背の高い少女と歩いています」
「その先は?」


 その先は、白くぼやけていてよくわからない。ただ永遠に、その少女と二人で歩いている。


「永遠に、その道が続きます」
「よし、目を開けていい」


 目を開けると、世津はいつものように、無表情で淡々とメモ用紙に何かを書いていた。結果だろうか。


「進展は無いようだね。学校ではどうだい」
「たまに、意識を失って、目が覚めると全てを忘れていることがあります。今日もそれがありました」
「なるほど」


 それをまた、メモに書いていく。「しかし、前ほど記憶は混濁してないようで良かった」


「前ほど?」
 その言葉に、少し疑問を覚えた。「覚えていないのか」と言われ、うなづいた。


「前はわけのわからないことを言っていたものだ。記憶を失う前のことだろうが……」
「なんて言ってました?」
「残念だが、意味不明で聞き取れず、記録にも残していないよ」


 そうですか、とだけ答えて、和仁は口を閉じた。なぜだろう、忘れていてはいけないことなのに、それを許している自分が居る。記憶を探求しない自分がいる。
 それに全く疑問を持たない自分がいる。この想像ですら、ただの確認に過ぎない。


「和仁くんが帰ってくる前に、昼飯を作っておいた。食べておいてくれ。少し同僚に電話をしてくる」


 和室の左にある台所には、4人用の机と、ラップのかけられたチャーハンが置いてあった。男飯とはこんなものだろう。
 食べながらふと思う。このまま、こんな毎日を繰り返しながら、大人になっていくんだろうか。無論、問題などひとつもない。
 ただ、疑問に思わないことを確認する自分に、どこか違和感を覚えていた。


「俺はいったい、何を忘れた?」


 スプーンから、チャーハンがポロポロと落ちていく。それと同時に、理由のない涙が、ポロポロと落ちてきた。
 何のための涙なのか、誰のための涙なのか、今はわからない。




 アパートの下にある駐車場には、自動販売機と粗末なベンチがある。缶コーヒーを飲みながら、とある教授、世津は一息ついた。
 携帯電話が鳴る。それは、今ちょうどかけようと思っていた相手からだった。


「もしもし、あぁ、大参の家だ。大参はまだ帰ってないよ」


 電話の相手は、和仁の事を聞いてきた。


「問題ない。順調だ。記憶は取り戻していないよ。いたって普通だ。普通の高校生だよ」


 すると、電話の相手は、とある質問をしてきた。


「そこの存在か?あぁ、多分知らないはずさ。知っていたらそっちに行っているよ」


 そして、電話の相手は、指示を出してきた。


「わかっている、普通の高校生として過ごさせるよ」


 最後に電話の相手は、教授自身に質問をした。


「……すまないが、やはり無理だ。特異点のなかの特例っていうぐらい、俺にも手に負えない。あぁ、また連絡するよ」


 電話を切ると、教授はコーヒーを静かに飲み干した。


「このまま何事も起こらないはずがない。彼は観測不能の存在だからな」


 空を見上げる。燦々と輝く太陽が、ひどく忌々しい。


「俺は科学者だ。精神科は専門外だ、二上」


物理学専攻の人間が、心理学者の真似事など、やめておけばいいものを。まぁ、この記憶の研究は、ただの建前でしかないのだが。






 その日の夕方、大参孝人が家に帰ってきた。そして、世津と合わせて、男同士の早めの夕食を済ませたあと、世津はさっさと帰っていった。


「いやぁ、思った以上に遅くなっちゃったなぁ。もっと早く帰ってくる予定だったんだけども」


 すると、突然雷が鳴って、ごうごうと音を立てながら雨が降り始めた。


「んげっ、夕立ちか。確かに、雨が降りそうだなとは思ったけども」
「理科の先生でしょう、少しはわからないんですか?」
「うーん、俺は空じゃなくて地面見てたから!地質学ってやつね」


 そうですか、とだけ答えて、会話が途切れた。物事に関心が持てない和仁は、会話が長く続かない。キャッチボールは、いつも和仁が球を落として終わる。


「いけねぇ!洗濯物取り込んでくるわ!和仁、風呂入ってていいよ!」


 孝人は焦りながら、すぐにベランダから服を取り込む。それを見ながら、手伝いもせず、何も思わず、言われたとおり、風呂に入る。
 何も思わない。人間として欠損しているのではないかと思うが、それをなおす気も起こらない。
 これが無気力というやつか。表情は鉄仮面のように変わらないのに、涙だけは止まらない。




 俺はいったい、何を忘れた。


 俺はいったい、何をした。


 わからない。あぁ、わからないよ。


 ……教えてあげる。君は世界をつかもうとした


 掴もうとしただけさ。まだ君はつかめていない。




 机の上には、書類が散乱している、学校でまとめていた資料は、あまり意味を成さなかった。
マナーモードの携帯が静かに震える。大参孝人は、それを静かに手に取り、応答した。


「あぁ、こっちはいろいろまとめてるよ。和仁は……今ちょうど風呂に入った」


 大参、お前はなんとかなっているのか、そう聞かれると、どこか答えづらかった。


「うーん、俺に歴史とかは難しいよ。フタカミサマの伝承、十三の約束……この町は謎に満ちている。俺の持っている力が、どういったもので働いてるのかもわからないよ」


 電話の相手は、大参をねぎらう。ねぎらわなくったっていい。これが今のすべきことなんだ。


「いいんだ、和仁が幸せに暮らせるなら、どんな犠牲を払ってでも」


 相手の応答は待たずに電話を切った。電話の相手も、返す言葉に困っていたんだ。
 それもそうだ、大人は隠し続ける。それほど苦しく、難しいものなんてない。


「だって俺は、彼女との約束なんて果たせていないんだ。一つの、罪滅ぼしなんだよ。俺が和仁と暮らすのは」

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