ある日、5億を渡された。

ザクロ・ラスト・オデン

歪んだ心と勉強

……平凡な時間は淡々と過ぎていく。特に、これと言って何の問題もない。女子高生とおしゃべりしているかのような時間が過ぎる。
 内容なんてないようなもので、最近どんなパフェが流行っているとか、女の子は何が好きなのかとか、女子って結局何が好きなんだ議論、といった感じのことしかしていない。
 その間、望さんは仕方なさそうに耳を傾けるだけ、何か言葉を発するなんてことはしなかった。冬馬と呼ばれた女性は、部屋の隅で監視するように立っているだけだ。
────ある意味、ここは明と俺だけの空間だった。誰も邪魔は入らない。ただ時が過ぎるのみ。邪魔をするのは、唯一の……


「さーて、いい話を聞かせてもらったよ。もう2時だからね、今日はこれでおしまい!」
「え、話なんて、ほとんどしてないけど」
「僕には十分だよ! 本当にありがとう、またよろしくね!」


 あぁ、邪魔をするのは唯一「時」だけか。楽しい時間はあっという間に過ぎる。それはこういったものなんだと初めて実感した。


「ではでは、本日の時給、7万円! どう?」
「本当にもらっていいの?」
「どうして? だって妹さんは働けっていうんでしょ? 君も働くべきだと思った、だから働いてもらった。そして、それ相応の報酬を得る、当たり前じゃないかな?」


 まだ俺は迷っている。まだ俺は混乱している。働いてお金がもらえるんなら、俺は……


「だったら、5億は返却する」
「えー、君って支離滅裂だね! どうして!?」


 その返答に明はびっくりして、わぁ、と手を横に広げる。俺はまた唇の端を噛みしめていた。


「素直に受け取って、使えばいいんだよ。君に好きなだけ使ってから返してって言ったんだから。何をそんなに悩んでいるの?」
「わ……わからないんだ。こんな大金をどう使えばいいかなんてわからない。大金で動かした出来事に責任を持てない。必要な額だけ使わせてもらいたい。最低限でいい」


 明は困り顔だ。それに見かねたのか、望さんは大きくため息をついた。


「……こんな僕からだが、一つ、意見を言わせてもらおう。大金を手にすれば、大概の「軟弱な平民」は性格が変わる。傲慢不遜ごうまんふそんになることもある。狂って使い果たして破滅することもある。大金とは、人を変える」


 ただ、と言って、望さんは俺と目を合わせた。圧はない、ただ見つめるだけの目。


「お前は、変わっているのだな。金を必要としながら、必要以上を望まない。お前のそこだけは理解してやっても構わん」


 ようやく、怒りが静まったのか、貴様ではなくお前と呼んでもらえた。ちょっと安心した、怒らせたまま一日は終えたくない。
 ただ、俺は……やっぱり変わっているのか? 俺の考えは、普通じゃないんだろうか。


「望の言うことは一理あり。お金を持っても変わる人もいるし、変わらない人もいる。でもまぁ、5億は普通変わるよね」


 そうだ、と明は手をたたき、装飾品が施された棚のほうへ向かった。そして、小さな箱の中からは想像もできない、万冊の束を取り出し、俺に渡した。


「はいこれ」
「なっ……無理無理、こんな大金いらないですぅ!」
「いいや、これ、妹さんに渡してみて」
「へ!?」


 わけがわからないが、そのまま札束を受け取る。ずっしり重いお金。それは責任の重さ、働いた価値の重さ。それは、俺が一生かかっても手にすることのない札束の感触。
────こんなにも、しっくり、手になじむものなんだ。
 しかし、それにしても、明はニコニコと笑い、望もニヤリと笑ってうなづいた。なんだこのお金持ちの意思疎通! 考えていることがこっちにはまるでわからないよ!


「これ、常備してる100万円。これを妹さんにあげるよ。返さなくていいから」
「……どうして、真希にくれるんですか?」
「まぁまぁ、敬語になる必要はないよ。焦らないで、妹さんの反応を見て、大金に対する普通の人の反応を学んできてよ」


 呆気に取られる。ずいぶんと高い勉強代だ。これで、何が学べるのか。それは見たくないような側面を見るということではないのか。


「5億はそのあと考えればいいよ。普通の反応を見て、そのあとで君の使い方を改めて教えてほしい。妹さんには、お小遣い代なんて言えばいいよ」
「で……でも」
「今、このお金は君のものになったんだ。何にも怖がることはない。君は自分に言い聞かせるんだ。これは一種の「人間観察」だと」


 明はにこにこ笑って、俺の心情なんてきっと知らない。俺の心の中で渦巻く恐怖を知らない。この大金を渡せば、真希はどうなってしまうのだろう。昨日、俺が大金を手にしたことで、手のひらを返したあの妹が。
 唇の端を噛みしめる。だが、こればかりは後戻りできない。俺にはまだ5億を使うということがわからないんだ。手にする覚悟は手にした。生活を変える覚悟も決めた。足りないのは、大金という名の「責任」を背負う覚悟だ。


「人間観察は、社長であるならばするものだ。進くん、君は人を「観る」ことが必要なんだよ。それが君に足りない唯一のスキルと言うべきじゃないか?」
「どうして……そう思う」
「君は働く面においてのスキルは素晴らしい。どんな場所でも働ける技術、そして適応力、肝が据わっている、なんても言うかもしれないね。ただその分、君は周りの人を眺めたかい? 眺める時間なんてなかったのはわかる。だが眺めて、自分の経験と照らし合わせることで、新たな視点や、欠点が見えるんだよ」


 目を細め、ニヤリと笑い俺を見つめる。まるで、どうだ、と誇るかのように。
 俺は人を眺めただろうか、観察しただろうか。小学校の頃の朝顔観察をしっかりした記憶はある。だが、人間は眺めるものじゃないと思っていた。
 だって……みんな苦しそうじゃないか、どこか大変そうじゃないか。眺めたって、悲しくなるばかりだ。俺は幸せになれない気がして。
 昨日、真希に殴られた痛みが、突然思い起こされる。痛み、苦しさ、辛さ、憎悪、罪。怖い、人なんて、怖い。


「……俺は、逃げたら駄目だよな」
「逃げる? どこに?」


 そうだよな、これは俺が昨日決意した道の一つ。今日改めて確認した賭けの一つ。逃げちゃ駄目だ。これは勝負なんだから。俺と真希が、しっかりとけじめをつけるべき勝負だ。


「俺に逃げる場所なんてない。俺は前に進むだけ。ありがとう、明。真希に渡してみるよ」


 俺が見せた一生懸命の笑顔に、明は少しだけ口を歪ませた。何か不都合なことをしただろうか。


「あ、僕の渡した7万、忘れないで持って帰るんだよ」
「あぁ、高すぎる日給だ。大切にしておくよ」
「使わなきゃ経済は回らないんだ、ちゃんと「自分のため」に使うんだよ」


 自分のため、ね。頑張ってみるよ、と心でつぶやく。


「じゃあ、また明日ね、進くん!」


 明は笑顔で手を振る。今日はここでさようならか。また明日、本当にそれが叶うなら、また明日、もう一度……
────どうか、俺と普通に話して。そして俺に、普通を教えて、明。

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