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ある日、5億を渡された。

ザクロ・ラスト・オデン

俺と彼女のプロローグ

────目が、覚めた。もう何年も、こんな日々の繰り返しだ。早朝に起き、新聞配達をし、スーパーでレジ打ちをし、ファミレスで働き、夜遅く寝る。その中にも、母の看病と、妹の送り迎えがあり、家事などもすべて俺がやっている。


 俺は何のために生まれたのだろう。俺は、こんなにも心身をすり減らすために生まれてきたのだろうか。違う、きっとそうじゃない。でも、俺が犠牲になれば、母と妹は幸せだ。


────もう、疲れた。全部抜け出して楽になりたい。そう何度、思ったことか。


 今日もまた、一日は始まる。何も変わらない、いつもの一日が。


「お兄ちゃん、今日も送ってくれてありがとう。新聞配達の後疲れてるのに、ごめんね」
「あぁ、気にすんな。バイクで運転なんてそんなに疲れねぇよ。じゃ、学校で気をつけろよ!」
「うん、じゃあね! また帰りに」


 公立高校の門をくぐって中に入っていく妹は、振り返って、笑顔で俺に何度も手を振る。親指を立て笑い、俺はバイクとは程遠いスクーターに乗り、その場を後にした。新聞配達を終え、妹を学校に送り、まず朝は完璧、いつも通りだ。


「さてと……スーパーに行くか。あと20分余裕あるし、おにぎりでも食おうかな」


 妹は少々足が悪い。理由は、あまり思い出したくもないが、ちゃんとある。妹が生まれたばかりのころ、俺たち家族は事故にあった。妹はその際に足を悪くし、長時間歩くことができなくなってしまった。
────父さんはその時に死んだ。母さんは助かったものの、その際のストレスで病気が悪化、ひどくなり続け、今は入院している。
 そう考えると俺は、7歳より前の記憶を失うだけで済んだ。後にどれほど爪痕が残ったか、そう考えたとき、俺が一番軽傷だっただろう。幸運、といえると思う。


「だけどまぁ、高校は何とか通えたくらいだし、大変に変わりはねぇか……」


 母さんの治療費、妹の学費、生活費、いろいろ出していたら、お金なんてきりがない。妹も母さんも働けないなら、俺が働くしかない。そうして、今の生活に落ち着いた。過酷といえば過酷だ。だが、少々ぼやくくらいで、今の生活は変えれないし変わらない。


「120円のおにぎり……俺にはちょっと高いな……」


 コンビニの旗はなくなっている。おにぎり100円セールも終わり、また腹の減る時期が始まった。ため息をつきながらも、コンビニで仕方なく塩むすびを買い、公園の水道水でのどを潤し、顔を洗う。秋風の吹き始めたこの頃は、風が身に染みた。


「うーん、またバイト先で服でも貰うか、寒くなってきた」


 ぼやきながらも、おにぎりのごみを捨て、スクーターへと歩みよる。さて、今から仕事だ。23歳にしてフリーター、働くことと様々なスキルに自信あり。高卒ビンボー青年、矢崎進やざきすすむの一日は、ここからエンジンがかかる。


「さてと、今日も一仕事、頑張りますか!」


……と思ったその時、愛用のスクーターの上に、馬乗りになって座る、少女がいた。いつもと違う光景に、脳が追い付かず、一瞬固まる。だが、思考が追い付いてきたとき、なんだかまずい気配がした。おいおい、待て待て、このままいかれたら、俺の商売道具ともいえるスクーター、盗まれちゃうんじゃないのか!?


「だっ……! おい! 俺のスクーターの上で何してる!」


 すぐさま駆け寄ると、少女はにこにこ笑いながら、平気な顔をして座り続ける。


「降りるんだ、俺のスクーターだ。警察呼ぶぞ?」
「このスクーター、結構ボロボロだね。何年乗ってるの?」
「へっ!? いや、高校の時だから、7年かな」


 突然の質問。何かを聞かれるなんてお客様くらいしかないから、いつもの反動で、すぐに答えてしまう。それを見て少女は、面白いものを見たと、さらににこにこ笑うのだ。


「へぇー、なんだかすっごい店員さんみたい。聞かれたらすぐ答えるなんて」
「なっ……7年間の癖だよ、仕方ねぇだろ」
「ねぇ、そんなすっごく面白いお兄さんに、質問があるんだ」


 そういうと少女はスクーターから降り、俺のほうへと近寄ってくる。そして、真っ黒なスマホを見せた。


「もしも、5億円突然渡されたら、お兄さん、どうする?」
「へっ……そ、そんな話あるわけ……」
「あるよ、このスマホからネットの通帳に繋がって、そこには5億円入ってる」


 嘘だろ……このスマホには5億円の価値があるって言いたいのか? いや待て、絶対に怪しい、絶対におかしい、誰かの紛失物とか、そうに違いない。5億なんて突拍子もない金額を、簡単に信じられるはずもない。そもそも5億なんて、現実にありえない金額だろ、そんなの絶対にありえない。


「疑ってる? じゃあ、これだけ聞くよ。5億円あったら、何に使う?」


 そういうならば、思いつくことがいくつかある。でもそれは現実を見なければならなくて、こんな時、俺はきっと、暗い顔をしている。


「……そりゃあ、まずは母さんの治療費、妹の学費、生活費……キリがねぇよ」
「でも、必ず5億以内に収まるでしょ?」
「まぁ、たぶんな。俺の願いなんて……」


 願いはある。5億円もあれば、俺は働かなくて済むだろう。妹の学費も、母さんの治療費も、重たくなくなる。むしろ自由を手に入れられる。俺の願いは……この生活を変えたいという願いは、一瞬にして叶うだろう。
 そう、金さえあれば、人生なんて変わる。どれだけ変わらないと嘆いた生活さえも、簡単に。


「ずいぶん苦しそうな顔してるね」
「まぁ……な……5億もあれば、今までの生活を全部変えられる。人生さえも、新しくやり直せる気がする。だけどそう簡単に行くわけない。夢なんて見ねぇよ」


 すると、少女は俺の右手を取り、その手にそっと、スマホを握らせた。その手はとても冷たく、生きた手じゃない。若干熱を帯びるスマホと、氷のように冷たい手。そして少女の、真剣な目。そこで気づいた、ここにある触感は、重みは、現実なんだと。


「夢なら、叶えちゃおうよ。今までずっと頑張ってきたご褒美だよ。この5億、好きに使っていいよ。返してっていう時までね」


 少女は甘くささやく。何度もその現実を疑った、何度も目の前の人物を疑った。でも、疑っても、疑っても、これが本当なら逃せない。これが、人生のチャンスな気がしたからだ。後でどんな地獄が待っていようと構わない、それが悪魔の契約ならば、契約してしまおう。
 一度決めたら突き「進」む。そう、それが名前の由来だったじゃないか。
────心で誰かがつぶやいた。ためらいを捨て、少女と目を合わせた。


「あぁ、ならこのスマホ、借りさせてもらう」



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