婚約破棄された男爵令嬢〜盤上のラブゲーム
印章
口へと運ばれた貴婦人は私から言葉を奪いました。
ドレスの裾が優しく私の舌を包み込み、濃厚で芳醇な甘みをもたらしました。ねっとりとしなやかに絡みつくドレスは簡単には私の舌を離してはくれません。そうしていつのまにか口いっぱいに広がった貴婦人に私の心はもう完全に鷲掴みにされてしまいました。
もはやメロメロです。
ですが、私を魅了し虜にした貴婦人はあれだけねっとりと私の舌に絡みつき決して離そうとはしてくれなかったのに、最後は鼻孔の奥を優しく撫で別れの言葉のような微かな残り香を残しあっけなく消えていってしまいました。
貴婦人の消えた私の口内はまるで主役のいない舞台のようで、妙な物悲しさだけが違和感となって延々と広がっています。
こうなってしまうともはや手遅れで、私は急いで新たな貴婦人を口内へと迎え入れ舞台に華を咲かせます。
途端に広がる魅力の華。
魅了され、虜にされ、骨抜きにされ、
そしてーーーーすぐに散ってしまう儚い華。
私もいつかそんな女性になりたいです。
そんな事を考えながら食べているうちに、すっかりお腹いっぱいになってしまいました。少し食べすぎてしまったかもしれません。
私がお水のグラスを傾けているとマイヤーさんが側へと近寄ってきて声を掛けてきました。
「いかがでしたか? お嬢様」
マイヤーさんはポーチドエッグの味の感想を聞いているのに、私ときたらまだ自分の世界に浸っていたのでヘンテコな回答をしてしまいました。
「まるで王妃様のようでとても美しかったです」
「王妃様?」
と、マイヤーさんは当然の反応を見せます。
「ああ、いえ。美味しいを通り越して美しい、それも王妃様のように気品漂う美しさだったなって……」
「それは良かった。ランドもきっと喜ぶ事でしょう」
「近いうちに、またぜひ」
「しっかりとランドに伝えておきます」
「お願いします。ご馳走さまでした」
大満足の私は席を立ち、自室に戻ってお勉強をする事にしました。
様々な本が並べられた本棚から数冊の本を取り出して机に向かいます。
しかし、お勉強を始めるとすぐに眠気が襲ってきました。やはり少し寝不足のようです。でも、寝ている場合ではありません。しっかりとお勉強しないと。
私がまぶたを擦りながら悪戦苦闘していると、部屋のドアがノックされました。
控えめな弱気のノックです。
「ーーーーはい」
「お嬢様、アンナです。お嬢様にお手紙が届いています」
ドアの向こうから聞こえてきたそんな言葉に、私が部屋のドアを開けるとアンナが両手に白い綺麗な封筒を持って立っていました。
封筒にはニルヴァーナ公爵様の印章がくっきりと押してあって、それを見ただけで背筋がぴんっと伸びる思いで眠気も吹き飛んでしまいました。
私は慎重にその手紙を受け取ると、すぐさま裏面を見て自分の名前が書いてあることに内心肩を落としました。
もしかしたら私ではない他の誰かに宛てられた手紙かもしれないと思って確認したのですが、そもそもアンナが私のもとに届けに来た時点でもうそんな可能性はあるはずないんですけどね。
しかしそれでも、この手紙が何かの間違いで私の手元に届いてしまった。という可能性はどうやっても捨てきれないものでした。
夢であってほしい。
間違いであってほしい。
つい、そう思ってしまうくらい強い影響力を持った手紙。いえーーーー印章と言った方が正確ですね。
ニルヴァーナ公爵様。
昨日行われた大規模なお茶会の会場となったアヴァドニア公爵様ほど絶大な力を持ってはいませんが、ニルヴァーナ公爵様もやはり私達ポーンドット男爵家からしてみれば雲の上の存在である事は間違い無いわけで……。
そんな高貴なお家柄から送られてくる手紙という物は、たとえどんな内容が書かれているにしても間違いなく自身を取り巻く環境が慌ただしくなる事は明白なので、あまりお目にかかりたい物ではないのです。
昨日アヴァドニア公爵家で行われたお茶会のお誘いが来た時もそうでした。
お父様はアヴァドニア公爵家の印章を見た途端、顔が青ざめ身体が震え出してしまいました。
知っての通り手紙の内容はお茶会を開催するというもので、間違っても私達親子を裁くといったような物騒な内容などが書かれている筈がないのですが、やはりあまりに身分違いで日常とかけ離れた存在の方から届く手紙という物はそれだけの影響力を持つようです。
手紙を読み終えたお父様は私の両肩を強く掴んで決死の表情で内容を告げると、まるでこれから決闘でもするみたいに興奮してしまいはっきり言って普通ではありませんでした。
そんな強い影響力を放つ手紙がお父様ではなく、私宛に届くのは今回が初めての事なので私の胸は否が応にも高鳴ります。
なるほど、
こうして高位な方からお手紙を頂くと、確かに胸が高鳴り妙に浮き足だってしまって落ち着きません。
お父様がああなるのも頷けます。
そんな、必死に冷静を装う私の気持ちも知らずに目の前のアンナといえば爽やかな可愛らしい笑みを浮かべて、
「お友達からですかー?」
と、無邪気な事を口にしています。
しかしそれも仕方のない事でしょう。一般的な平民であるアンナはポーンドット家の印章は知っていても、他の高位な貴族達の印章なんて知る筈ないですから。
それにしても、友達ですか。アンナはなかなか難しいところに触れてきましたね。
ニルヴァーナ公爵家令嬢、ベアトリック・イーンゴット様。
年齢は私より二つ年上の十七歳。燃え上がる炎のような赤い髪にグッと力のこもった目元、すらりとした細身でいて高い位置から下される眼差しはまるで獲物を狙うかのように鋭い。
そんな風に言ってしまうとまるで悪口を言っているようなので、決して口には出せませんがあの方に抱く素直な印象はそんな感じで、私以外にもそう思っている方は少なからずいる筈です。
といっても、別に嫌いなわけではなくただ少し苦手なタイプというかなんというか……。いざ目の前に立つと萎縮してしまって、私は空気そのものと化してしまうんです。
それにあの方は他の人物を悪く言う事があって、いつか私がそのターゲットになるのではないかと思うと心配で心配で仕方がないのです。
そんなベアトリック様からお手紙を頂くなんていったい何事でしょう。
もし紙面に『次のターゲットはお前だ!』なんて書かれていたら私は間違いなくその場で心臓が破裂して死んでしまう事でしょう。
ああ、ダメですね。
そんな事が書いてある筈ないのに、悪い方に悪い方に物事を考えてしまいます。
今の私はあの時のお父様と同じ顔をしているのでしょうか? アンナに変なところを見られたくはないので、必死に頑張って冷静を装ってはいますが限界が近いようです。
早くアンナを遠ざけないと……。
「ありがとうアンナ、ご苦労様。私のゆ……友人からのお手紙みたいね。もう下がっていいわ。ありがとうアンナご苦労様、ね」
そんな私の言葉に違和感でも感じたのかアンナは訝しげな表情で私を見ながら小首を傾げました。
「どうか……した?」
「いえ……なんだか気分でも悪いのかなーって、少し気になっただけです」
「少し眠かったからそう見えちゃったのかもしれないわね。でも大丈夫」
「そうですか。お疲れならしっかりと休憩をとってくださいよ? あ、確かリラックスさせてくれるハーブティーがあったので後でお持ちしますね」
「ええ。お願いねアンナ」
愛らしい笑顔を見せ、ぎこちなくお辞儀をしたアンナは仕事に戻っていきました。
私は閉められた部屋のドアを少しだけ見つめて決心をし、踵を返して机へと向かいました。
ドレスの裾が優しく私の舌を包み込み、濃厚で芳醇な甘みをもたらしました。ねっとりとしなやかに絡みつくドレスは簡単には私の舌を離してはくれません。そうしていつのまにか口いっぱいに広がった貴婦人に私の心はもう完全に鷲掴みにされてしまいました。
もはやメロメロです。
ですが、私を魅了し虜にした貴婦人はあれだけねっとりと私の舌に絡みつき決して離そうとはしてくれなかったのに、最後は鼻孔の奥を優しく撫で別れの言葉のような微かな残り香を残しあっけなく消えていってしまいました。
貴婦人の消えた私の口内はまるで主役のいない舞台のようで、妙な物悲しさだけが違和感となって延々と広がっています。
こうなってしまうともはや手遅れで、私は急いで新たな貴婦人を口内へと迎え入れ舞台に華を咲かせます。
途端に広がる魅力の華。
魅了され、虜にされ、骨抜きにされ、
そしてーーーーすぐに散ってしまう儚い華。
私もいつかそんな女性になりたいです。
そんな事を考えながら食べているうちに、すっかりお腹いっぱいになってしまいました。少し食べすぎてしまったかもしれません。
私がお水のグラスを傾けているとマイヤーさんが側へと近寄ってきて声を掛けてきました。
「いかがでしたか? お嬢様」
マイヤーさんはポーチドエッグの味の感想を聞いているのに、私ときたらまだ自分の世界に浸っていたのでヘンテコな回答をしてしまいました。
「まるで王妃様のようでとても美しかったです」
「王妃様?」
と、マイヤーさんは当然の反応を見せます。
「ああ、いえ。美味しいを通り越して美しい、それも王妃様のように気品漂う美しさだったなって……」
「それは良かった。ランドもきっと喜ぶ事でしょう」
「近いうちに、またぜひ」
「しっかりとランドに伝えておきます」
「お願いします。ご馳走さまでした」
大満足の私は席を立ち、自室に戻ってお勉強をする事にしました。
様々な本が並べられた本棚から数冊の本を取り出して机に向かいます。
しかし、お勉強を始めるとすぐに眠気が襲ってきました。やはり少し寝不足のようです。でも、寝ている場合ではありません。しっかりとお勉強しないと。
私がまぶたを擦りながら悪戦苦闘していると、部屋のドアがノックされました。
控えめな弱気のノックです。
「ーーーーはい」
「お嬢様、アンナです。お嬢様にお手紙が届いています」
ドアの向こうから聞こえてきたそんな言葉に、私が部屋のドアを開けるとアンナが両手に白い綺麗な封筒を持って立っていました。
封筒にはニルヴァーナ公爵様の印章がくっきりと押してあって、それを見ただけで背筋がぴんっと伸びる思いで眠気も吹き飛んでしまいました。
私は慎重にその手紙を受け取ると、すぐさま裏面を見て自分の名前が書いてあることに内心肩を落としました。
もしかしたら私ではない他の誰かに宛てられた手紙かもしれないと思って確認したのですが、そもそもアンナが私のもとに届けに来た時点でもうそんな可能性はあるはずないんですけどね。
しかしそれでも、この手紙が何かの間違いで私の手元に届いてしまった。という可能性はどうやっても捨てきれないものでした。
夢であってほしい。
間違いであってほしい。
つい、そう思ってしまうくらい強い影響力を持った手紙。いえーーーー印章と言った方が正確ですね。
ニルヴァーナ公爵様。
昨日行われた大規模なお茶会の会場となったアヴァドニア公爵様ほど絶大な力を持ってはいませんが、ニルヴァーナ公爵様もやはり私達ポーンドット男爵家からしてみれば雲の上の存在である事は間違い無いわけで……。
そんな高貴なお家柄から送られてくる手紙という物は、たとえどんな内容が書かれているにしても間違いなく自身を取り巻く環境が慌ただしくなる事は明白なので、あまりお目にかかりたい物ではないのです。
昨日アヴァドニア公爵家で行われたお茶会のお誘いが来た時もそうでした。
お父様はアヴァドニア公爵家の印章を見た途端、顔が青ざめ身体が震え出してしまいました。
知っての通り手紙の内容はお茶会を開催するというもので、間違っても私達親子を裁くといったような物騒な内容などが書かれている筈がないのですが、やはりあまりに身分違いで日常とかけ離れた存在の方から届く手紙という物はそれだけの影響力を持つようです。
手紙を読み終えたお父様は私の両肩を強く掴んで決死の表情で内容を告げると、まるでこれから決闘でもするみたいに興奮してしまいはっきり言って普通ではありませんでした。
そんな強い影響力を放つ手紙がお父様ではなく、私宛に届くのは今回が初めての事なので私の胸は否が応にも高鳴ります。
なるほど、
こうして高位な方からお手紙を頂くと、確かに胸が高鳴り妙に浮き足だってしまって落ち着きません。
お父様がああなるのも頷けます。
そんな、必死に冷静を装う私の気持ちも知らずに目の前のアンナといえば爽やかな可愛らしい笑みを浮かべて、
「お友達からですかー?」
と、無邪気な事を口にしています。
しかしそれも仕方のない事でしょう。一般的な平民であるアンナはポーンドット家の印章は知っていても、他の高位な貴族達の印章なんて知る筈ないですから。
それにしても、友達ですか。アンナはなかなか難しいところに触れてきましたね。
ニルヴァーナ公爵家令嬢、ベアトリック・イーンゴット様。
年齢は私より二つ年上の十七歳。燃え上がる炎のような赤い髪にグッと力のこもった目元、すらりとした細身でいて高い位置から下される眼差しはまるで獲物を狙うかのように鋭い。
そんな風に言ってしまうとまるで悪口を言っているようなので、決して口には出せませんがあの方に抱く素直な印象はそんな感じで、私以外にもそう思っている方は少なからずいる筈です。
といっても、別に嫌いなわけではなくただ少し苦手なタイプというかなんというか……。いざ目の前に立つと萎縮してしまって、私は空気そのものと化してしまうんです。
それにあの方は他の人物を悪く言う事があって、いつか私がそのターゲットになるのではないかと思うと心配で心配で仕方がないのです。
そんなベアトリック様からお手紙を頂くなんていったい何事でしょう。
もし紙面に『次のターゲットはお前だ!』なんて書かれていたら私は間違いなくその場で心臓が破裂して死んでしまう事でしょう。
ああ、ダメですね。
そんな事が書いてある筈ないのに、悪い方に悪い方に物事を考えてしまいます。
今の私はあの時のお父様と同じ顔をしているのでしょうか? アンナに変なところを見られたくはないので、必死に頑張って冷静を装ってはいますが限界が近いようです。
早くアンナを遠ざけないと……。
「ありがとうアンナ、ご苦労様。私のゆ……友人からのお手紙みたいね。もう下がっていいわ。ありがとうアンナご苦労様、ね」
そんな私の言葉に違和感でも感じたのかアンナは訝しげな表情で私を見ながら小首を傾げました。
「どうか……した?」
「いえ……なんだか気分でも悪いのかなーって、少し気になっただけです」
「少し眠かったからそう見えちゃったのかもしれないわね。でも大丈夫」
「そうですか。お疲れならしっかりと休憩をとってくださいよ? あ、確かリラックスさせてくれるハーブティーがあったので後でお持ちしますね」
「ええ。お願いねアンナ」
愛らしい笑顔を見せ、ぎこちなくお辞儀をしたアンナは仕事に戻っていきました。
私は閉められた部屋のドアを少しだけ見つめて決心をし、踵を返して机へと向かいました。
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