簡雍が見た三国志 ~劉備の腹心に生まれ変わった俺が見た等身大の英傑たち~
田豫と情報整理
「さて、これまでの経緯を少しまとめておこうか」
「そうですね。ボクもまだ把握し切れていないことがあると思いますし」
鄒靖率いる官軍の拠点まであと少しというところに設置した野営地で、俺は田豫と話しながら、集めた情報を整理することにした。
いつでも寝られるよう楽な格好になり、筵の上で灯火をはさんで向かい合う。
それぞれが情報をまとめたメモを片手に話し始める。
数十万人の信者を有する宗教団体『太平道』のトップ、大賢良師を名乗る張角は、光和七年――西暦184年――三月五日をエックスデーに決め、一斉蜂起の準備を進めていた。
洛陽に入った幹部の馬元義は、皇帝の世話役である中常侍の封諝、徐奉らを始め、軍や役所、民間の有力者などに渡りを付け、都内部での蜂起を進めていたが、部下のひとり唐周の密告で失敗。
「このとき、叛乱を疑われた人たちが千人以上処刑されたそうだ」
「無実の人もたくさんいたんでしょうね……」
なんにせよ計画が露見した以上、時間が経つほど官軍の迎撃態勢は整い、張角は不利になっていくので、彼は慌てて蜂起し、洛陽を目指した。
いきなり千人を処刑したことからも、皇帝や宦官どもは相当ビビったに違いない。
皇后何氏の兄、何進を大将軍に任命し、叛乱の鎮圧を命令した。
『党錮の禁を解き、天子の私財を放出して軍備を整えるべし』
太平道鎮圧の対策を協議するなかで、北地太守皇甫嵩《すう》が進言し、それが受け入れられた。
党錮の禁ってのは、中常侍ら宦官や外戚――皇帝の妻の親族――と敵対した役人やら有力者やらが、投獄されたり解任されたりした事件ってとこかな、大雑把に言えば。
このとき解任された人たちは200人にのぼり、一生仕官できない『終身党錮の刑』に処された。
ちなみに宦官や外戚におもねる連中を『濁流派』、敵対する勢力を『清流派』と呼ぶ。
「結局今回の叛乱が起こったおかげで、清流派の連中は終身党錮の刑を赦された……ようは、また仕官できるようになったわけだよな?」
「そうですね。そういう人たちが、太平道に結びつくのを恐れたから、党錮の禁は解かれたということらしいです」
「すでに結びついていた連中もいたんじゃね?」
「……いたでしょうね」
清流派によるマッチポンプ的な要素は少なからずあったはずだ。
なんにせよ、この時点で目的を果たした連中は、これ以上太平道の支援を続ける必要はなくなった、と。
急ピッチで軍備を整えた何進は、盧植を北中郎将、皇甫嵩を左中郎将、朱儁を右中郎将に任命し、軍をふたつに分けて進軍させた。
なんちゃら中郎将ってのは、軍を率いる大将みたいなもんだと思ってくれ。
余談だが、劉備はガキのころ、盧植のもとで勉強していたらしい。
あんまり真面目にはやってなかったみたいだけどな。
「官軍は南北に分かれて進軍したみたいですけど、戦況はどうなんでしょう?」
「張角のいる鉅鹿に向けて進軍したほうは、連勝してるみたいだな。南のほうは遠いから、まだ情報が入ってないみたいだ」
盧植率いる軍は、洛陽から北に向かい、張角のいる冀州鉅鹿郡を目指して出発。
それが先月のことだ。
何度か戦闘を行い、ことごとく勝利していると聞いたのは、俺たちが出発した直後のことだった。
情報の伝達に時間がかかる時代ではあるが、劉備らが持つ各種ネットワークのおかげで、官軍並みか、下手をすればそれ以上に早く、情報が手に入る。すごくない?
皇甫嵩と朱儁は、洛陽から南下し、豫州潁川郡に入った。
「穎川郡では十万人が蜂起したそうですね」
「らしいな。いまごろ官軍とぶつかってるころかもな。あと、荊州南陽郡の宛県城が、張曼成ってやつに占拠されたみたいだ」
潁川郡での十万人蜂起も、宛県城陥落も先月の出来ごとだ。
俺たちが出発したのが四月の頭。
その直後には盧植の勝利が伝えられたけど、さらに十日ほどが経っても、皇甫嵩、朱儁らの戦況はまだわからないままだった。
「ふわぁ……ん……」
話し込んでいるうちにずいぶん遅い時間になってしまい、田豫は大きなあくびをした。
「明日には、鄒校尉に、合流できますかねぇ」
「おう、たぶんな」
眠い目をこすりながら俺に問いかけた田豫だったが、目の焦点がもう合っていない。
「明日も早い。そろそろ寝ようか」
「ふぁい……」
田豫がコテンと寝転がり、すぅすぅと寝息を立て始めたので、灯火を消して俺も横になった。
明日、官軍と合流すれば、いよいよ戦いが始まるのか……。
翌日、予定通り鄒靖と合流した俺たちは、潁川郡にて朱儁が波才率いる黄巾軍と戦い、敗走したことを知らされた。
「そうですね。ボクもまだ把握し切れていないことがあると思いますし」
鄒靖率いる官軍の拠点まであと少しというところに設置した野営地で、俺は田豫と話しながら、集めた情報を整理することにした。
いつでも寝られるよう楽な格好になり、筵の上で灯火をはさんで向かい合う。
それぞれが情報をまとめたメモを片手に話し始める。
数十万人の信者を有する宗教団体『太平道』のトップ、大賢良師を名乗る張角は、光和七年――西暦184年――三月五日をエックスデーに決め、一斉蜂起の準備を進めていた。
洛陽に入った幹部の馬元義は、皇帝の世話役である中常侍の封諝、徐奉らを始め、軍や役所、民間の有力者などに渡りを付け、都内部での蜂起を進めていたが、部下のひとり唐周の密告で失敗。
「このとき、叛乱を疑われた人たちが千人以上処刑されたそうだ」
「無実の人もたくさんいたんでしょうね……」
なんにせよ計画が露見した以上、時間が経つほど官軍の迎撃態勢は整い、張角は不利になっていくので、彼は慌てて蜂起し、洛陽を目指した。
いきなり千人を処刑したことからも、皇帝や宦官どもは相当ビビったに違いない。
皇后何氏の兄、何進を大将軍に任命し、叛乱の鎮圧を命令した。
『党錮の禁を解き、天子の私財を放出して軍備を整えるべし』
太平道鎮圧の対策を協議するなかで、北地太守皇甫嵩《すう》が進言し、それが受け入れられた。
党錮の禁ってのは、中常侍ら宦官や外戚――皇帝の妻の親族――と敵対した役人やら有力者やらが、投獄されたり解任されたりした事件ってとこかな、大雑把に言えば。
このとき解任された人たちは200人にのぼり、一生仕官できない『終身党錮の刑』に処された。
ちなみに宦官や外戚におもねる連中を『濁流派』、敵対する勢力を『清流派』と呼ぶ。
「結局今回の叛乱が起こったおかげで、清流派の連中は終身党錮の刑を赦された……ようは、また仕官できるようになったわけだよな?」
「そうですね。そういう人たちが、太平道に結びつくのを恐れたから、党錮の禁は解かれたということらしいです」
「すでに結びついていた連中もいたんじゃね?」
「……いたでしょうね」
清流派によるマッチポンプ的な要素は少なからずあったはずだ。
なんにせよ、この時点で目的を果たした連中は、これ以上太平道の支援を続ける必要はなくなった、と。
急ピッチで軍備を整えた何進は、盧植を北中郎将、皇甫嵩を左中郎将、朱儁を右中郎将に任命し、軍をふたつに分けて進軍させた。
なんちゃら中郎将ってのは、軍を率いる大将みたいなもんだと思ってくれ。
余談だが、劉備はガキのころ、盧植のもとで勉強していたらしい。
あんまり真面目にはやってなかったみたいだけどな。
「官軍は南北に分かれて進軍したみたいですけど、戦況はどうなんでしょう?」
「張角のいる鉅鹿に向けて進軍したほうは、連勝してるみたいだな。南のほうは遠いから、まだ情報が入ってないみたいだ」
盧植率いる軍は、洛陽から北に向かい、張角のいる冀州鉅鹿郡を目指して出発。
それが先月のことだ。
何度か戦闘を行い、ことごとく勝利していると聞いたのは、俺たちが出発した直後のことだった。
情報の伝達に時間がかかる時代ではあるが、劉備らが持つ各種ネットワークのおかげで、官軍並みか、下手をすればそれ以上に早く、情報が手に入る。すごくない?
皇甫嵩と朱儁は、洛陽から南下し、豫州潁川郡に入った。
「穎川郡では十万人が蜂起したそうですね」
「らしいな。いまごろ官軍とぶつかってるころかもな。あと、荊州南陽郡の宛県城が、張曼成ってやつに占拠されたみたいだ」
潁川郡での十万人蜂起も、宛県城陥落も先月の出来ごとだ。
俺たちが出発したのが四月の頭。
その直後には盧植の勝利が伝えられたけど、さらに十日ほどが経っても、皇甫嵩、朱儁らの戦況はまだわからないままだった。
「ふわぁ……ん……」
話し込んでいるうちにずいぶん遅い時間になってしまい、田豫は大きなあくびをした。
「明日には、鄒校尉に、合流できますかねぇ」
「おう、たぶんな」
眠い目をこすりながら俺に問いかけた田豫だったが、目の焦点がもう合っていない。
「明日も早い。そろそろ寝ようか」
「ふぁい……」
田豫がコテンと寝転がり、すぅすぅと寝息を立て始めたので、灯火を消して俺も横になった。
明日、官軍と合流すれば、いよいよ戦いが始まるのか……。
翌日、予定通り鄒靖と合流した俺たちは、潁川郡にて朱儁が波才率いる黄巾軍と戦い、敗走したことを知らされた。
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