「気分は下剋上」 森技官の優雅な受難

こうやまみか

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 あの井藤という研修医がどの程度、香川教授の為人ひととなりを把握しているかは分からない。
 俺の悪夢としか思えない医学部時代にもーーただし、ペーパーテストとか精神科・皮膚科などの臨床を除くーー教授というのは雲の上に存在する人間だった。俺は国家公務員試験をパスしたのでそれっきり「悪夢の場所」としての大学とは永遠にさようならをした。卒業式が無事終わって通称赤門をくぐるときには、多分懲役を務め上げた人間が刑務所の門を天下晴れて出て行く時の気持ちというのはこんなのだろうな……と思ったくらいだった。
 ただ、勤務先が厚労省ーー俺の公務員試験の成績では財務省や外務省でも快く迎えてくれる程度の成績は取っていたが、ものすごく可愛がってくれた祖父母や両親、そして家業の産婦人科・婦人科クリニックを継ぐことを余儀なくされた姉の手前「この腐敗した厚労省を立て直すのが私の務めだと思っています」というタテマエを貫き通すには厚労省しかなかったし、何よりも医師免許を持っているのでどの官庁よりも厚遇されることも分かっていた。
 当然、俺の同級生の何人かは母校の大学病院勤務の研修医になっている。その人間の話を聞く限り、研修医は教授などとの接点はあまりにも少ない。自分の所属している科の教授にも、総回診の時に金魚のフンのように付いて回るとか、教授までもが対応しなくてはならないような重大なミスを犯して教授執務室に呼ばれるというサイアクの事態以外は口もきけないのが一般的だ。
 その点田中先生は研修医時代から香川教授と付き合っているわけでーーそもそも教授が学生時代に田中先生を一目惚れしていたとはいえーー田中先生の大胆さというか無鉄砲さは、研修医というカテゴリーから大きく逸脱している、良い意味で。
 だから井藤も香川教授が実際どんな人間なのか、その本質を知らないまま偏執狂的な恋情と嫉妬が絡まりあった気持ちを抱いている可能性がある。つまり、大輪の花のような凛とした雰囲気とか容姿とか稀有な才能と医師としての世界的名声、そして医局の皆に慕われているという点しか知らない可能性のほうが高い。
 香川教授の手技で得た莫大な資産は、井藤も「親から貰った」お小遣いでーーというには多すぎるように思えたがーー派手かつ超高級な外車を乗り回していたという井藤の元同級生の証言があるのでそれほど重視はしていないだろうが。
「えー喋るのダメなのー?美樹は話が面白いと皆が言うんだけど、さ」
 唇をエキセントリックな感じで尖らせて不満そうな表情だった。
 ただ。

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