カイカイカイ…

霜月 秋旻

静かな教室

家に戻ると、僕は母親に叱られた。森を散歩していたら眠くなって、そのまま朝まで森の中で過ごしてしまい、スマートフォンを失くしてしまい連絡もとれなかったと適当にごまかしたら、物凄い剣幕で叱られた。このところ中高生が誘拐される事件が多発しているので、僕も事件に巻き込まれたのではないかと心配していたらしい。普段から声量が多い母親の声が、僕の耳の奥まで響く。耳が震えている。しかし父親は叱りもせず、ただ新聞を読んでいた。父親は元々、普段から僕に対してはどこか無関心な様子だ。自分の仕事で手一杯で、家庭のことは母親に任せっきりなのだろう。あるいは無関心を装っているだけなのかもしれない。<キヅキの森>のことを話しても、きっと信じてもらえないだろう。仮に説明したとしても、森で転んで頭でもぶつけたのかなどと言われるのがオチだろう。
朝食の最中も僕は母親に大声で説教され続け、学校へ行くのに家の玄関を出るまでの間、今日は絶対早めに帰ってこいと言われ続けた。家を出てからもしばらくのあいだ耳鳴りが続いた。
足が悲鳴をあげている。一晩中、森を歩き続けた僕の足は、筋肉の繊維があちこち切れている。いわゆる筋肉痛だ。しかしその痛みは、どこか心地よかった。僕は今まで、こんなになるまで歩いたことが無い。自分の体力の限界に向き合ったことは無かった。限界になる前に、無意識にブレーキをかけていた。歩けなくなる前に立ち止まっては休み、胃の中が完全にからっぽになるまえに、何かを口に入れた。だから自分の限界というものを知らなかった。いままで無難に過ごしてきた僕は、常に余裕だった。完全なる飢えを知らなかった。
人は限界に達して初めて、本当の自分と向き合えるのだろう。身を削って、腹を空かして、余裕がなくなることでようやく、自分の中の本当の叫びを知るのだろう。そのことを僕は昨夜、あの<キヅキの森>で悟った。だからこそあの瞬間に、あの<覚醒の拡声器>が出たのだろう。
しかし、昨日の喜与味の原稿によれば、喜与味の<キヅキの木槌>が出現したのは、家で<壊の書>という本を読み終わったときだった。僕の<覚醒の拡声器>が出現した状況とは違う。この違いはなんなのか。
そんなことを考えているうちに、僕は学校に着いた。教室に入ると、静かな教室に一人、アカネの姿があった。僕が教室の戸を開けた音に反応して、こちらに頬杖をつきながら視線を送っている。
「おはよう」という彼女に、僕は「おはよう」と返した。社交辞令のような、事務的な挨拶だ。彼女に聞きたいことは山ほどある。しかしどれから質問すればいいかわからなかった。教室でいま二人っきりだ。他人に聞かれたくない話をするには都合がいい。しかし言葉が出てこなかった。
「座らないの?」
つったっている僕に、彼女はそう話しかけた。当たり前の疑問だった。とりあえず、僕はアカネの前にある自分の席についた。
座っても相変わらず、何から話せばいいかわからなかった。昨夜、空腹と疲労困憊で森の中を彷徨っているときの余裕のない状態でなら、きっと彼女にいろんな質問をなげつけることが出来ただろう。あのときは自分の奥底にある怒りの感情がオモテに出てきていた。しかし今は、朝食をとって腹が満たされて、余裕が出来ている。感情の制御ができている状態だ。だから彼女に対しての怒りなど消え失せてしまっている。<覚醒の拡声器>も出てこない。おそらく僕の感情が揺れ動かないと、あれは出てこないのだ。それに彼女と会話するには、後ろをみて彼女の方を見なければならない。今の僕にはそれさえも面倒だった。
僕とアカネ以外、誰もいない教室。しばらく沈黙は続いた。
「いつから氷川さんと仲良くなったの?」
沈黙を破るように、突然アカネは口を開いた。
「べ、別に仲良くなったつもりはないよ。向こうから一方的に話しかけてきて、無理やりあのブックカフェに連れて行かれただけだよ」
「そう…。押しに弱いのね、安藤くん」
いまの彼女の一言に、僕はほんのわずかばかりの怒りを覚えた。いつのかにか僕は、後ろをむいて彼女と顔を合わせていた。<弱い>と言われ、自分をけなされた気分になった。しかし、事実だった。昨日は実際、喜与味にひっぱられるかのようにブックカフェに連れて行かれた。断る力が、僕には無かった。それが自分の弱さだ。それに昨日、彼女との筆談の間で、彼女が僕に興味をもっていることを知った。僕に対して自分と同じ人種なのではないかと、そして前から僕に興味があったと告げられたときは、正直少し嬉しかった。そんな感情が、心の奥底にあった。
「別に、僕に誘いを断る理由がないし、特別嫌でもなかったから誘いに乗っただけだよ」
「ふぅん。前の日はもう行きたくなさそうな様子だったのに?それとも私と行くのは嫌で、氷川さんと行くのはいいってこと?」
アカネは少しすねたような様子で言った。
「別にそうは言っていない」
弁解しても、アカネはすねたままだった。
「別にいいけど。それより今日はどうするの?行くの?<黄泉なさい>に」
正直僕は、行きたくなかった。あの森へ行って昨夜とまた同じようなことになったらまた母親の怒りを買うことになる。それが面倒だった。しかし目の前のアカネの機嫌を取り戻すことも考えたかった。僕は返答を躊躇した。
そのとき、教室に喜与味が入ってきた。

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